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連載小説:室町時代劇:龍を探して

「小雪、今度の舞はお前がやれよ。五頭龍は確かに男役だが、お前以上に舞える奴はいないんだ」

耳にたこが出来そうな言葉。もう一か月以上、吉丸や保名が何度も男舞を舞えと言ってくる。うちは飽き飽きしていた。

舞の主題はうちも大好きな「江の島縁起」。何年も前に絹姐さんや幸兄さん達と一緒に半年かけて相模の鎌倉まで巡業した際、立ち寄った江の島で聞いた伝説だ。

京丹波から半年かけた巡業。東へと向かう先々には傀儡女や遊女、白拍子など旅をして芸を見せる女たちが山の様にいた。

唄に奇術、舞に占いと、辻で芸を見せる所はうちらと一緒だ。

唯一違うのは、皆、男衆とは一緒に旅をしていない事。女ばかり三、四人で集まって旅をしているのがほとんど。うちらの様に女衆が大勢で舞を見せたり、唄いや楽の芸人と一緒に舞を見せたりすることは無いようだった。

芸を見せる時の競争は、京の都の四つ辻より尾張や相模の方が激しかった。うちらが唄と楽と舞を見せ終わると、傀儡女が毬で奇術をしたり人形を操ったり、巫女が占いの歌を歌ったりと、どこへ行っても息をつく暇も無い程芸人達が目白押しで芸を見せている。

尾張や相模では、うちらの様に歌い手と舞手、それに楽がつく出し物が珍しいのか、猿楽や遊女としょっちゅう間違えられることがあった。うちはそれが気に入らなかった。

そして遊女や猿楽の連中は、人の芸を横取りするのが早い。うちらがつい先ほど見せた舞や唄を、その日の夕方には別の辻で別の芸人達が真似をしているのを見かける。

どれも酷い出来で、うちらが二月かけて稽古した舞を、わざと艶っぽくして舞の趣旨を曲げてしまうのだ。うちらが京の山の紅葉の美しさを舞えば、その日の夕方には遊女たちが紅葉の季節に旦那を待って一人寝をする女の舞に変えてしまっている。

盗まれた舞の振りを目の前で見た日に、うちはつい姐さん達に愚痴をこぼしてしまった。

「何なん、あれは?うちの舞の振りと同じじゃない。それにあんなおかしな唄を唄いながら舞うなんて。うちらが今日の昼に舞を見せれば、数刻後にはもう別の遊女や白拍子が真似している」

「遊女達は舞や唄の筋がいいからね。見て聞いてすぐに覚えてしまうのさ。京でもそれは同じことじゃないの?」

「でも、京ではここまであからさまに他人の振りを真似することは見たことが無いんよ。どこかうちらの見えない所でやってるかもしれないけど、東では盗んだ演目を盗まれたうちらの目の前で堂々とやってる。なんだか気に食わないのよ」

「それは、あたしたちの芸を認めてくれているからだと思うよ。人が真似をしたいと思うような芸をやっているのだから、悔しがらずに胸を張りなさいな。

小雪だって、子供の頃に舞を作り始めた時も、四つ辻で見た芸人の真似から始まったじゃない。だから、今度は小雪が真似をされる番が来たんだと思うよ」

絹姐さんに続いて笛吹の幸兄さんも言った。

「小雪、艶っぽい芸もな、その芸人でしかできない技なんだ。艶っぽく変えられて気分が悪いかもしれないが、真似されても捻じ曲げられても悔しがる必要なんかないんだよ。
あちらさんはあちらさんにしかできない芸を、お前さんの舞を変えて演じているんだ。真似は真似。でもあちらさんは小雪の真似はできても、お前さんの代わりには絶対なれないんだ。だから真似をしたとしても、あちらさんの芸風にしかならない。

それに、芸人はお互い芸を盗みあう仲だろう?

俺達も相模に来て色々な芸を見て、毎日周りから色々な影響を受けているんだ。
京丹波に帰った時には芸風が変わっているかもしれないし、こんなことは今でしかできないよ。今のうちに周りの芸人から盗めるものは盗んでおいたほうが良いと思うよ」

「兄さん達の仰ることはわかるよ。でも、うちはなぜか傀儡女や遊女達から芸を盗む気が起きないんよ。あの女らの、男に媚びるような芸風は、うちは感心せん」

「まあ、この子ったら。頑固者だね」

絹姐さんは呆れた様に言った。

竜兄さんも割って入って来た。

「もっと広い目でものを見てごらん。傀儡女も遊女達も、あの人たちならでは出来ることをやっているんだ。小雪は、そんな芸人に影響を与えられるだけの舞を作っているんだよ。
今度は小雪が他の芸人達から影響を受けて、新しい作品を作ってもいいんじゃないかい?」

けれどもうちは、色恋なら、周りの女芸人達がやっている者よりも、もっと激しくもっと深く激しい主題を扱いたかった。

その旅の間、うちは少しずつ出会う女芸人達の芸を観察するようになった。皆、見る人たちの心に響くような唄いと舞を見せている。それを見て、自分は何が気に入らないのか自問自答してみた。

そして出した答えは、自分が求めている舞の主題は、日常生活にある色恋ではなく、もしかしたら物語の中にあるのではないかと思い始めた。

大好きな「源氏物語」に出て来る六条の御息所の生霊。あそこまで誇張された話ならば、迫力のある舞になるに違いない。けれどもこの舞の主題は、猿楽の真似になるからと皆から止められた。どうせやるなら明石の君の寂しさを舞ったらどうか、いや、それどころか末摘花の君の嘆きを舞ってはどうかと話がどんどん大きくなってしまう。

旅の間、絹姐さんとは舞の主題について良く話をした。

「結局、小雪が見せたい舞は、四つ辻で軽い気持ちで楽しめるものではないのかもしれないね。河原の舞台の様に、日常から離れた所で、猿楽の様に唄や楽を伴って大掛かりに作ったものでないと、あんたの考えを現しきれないのだと思うよ。

六条の御息所もいいと思うよ。けれども猿楽の真似と言われるのを覚悟しないといけない。明石の君や末摘花の君も、いずれ猿楽の誰かが演じるかもしれない。あんたの頭の中に舞が出来ているなら、この旅のうちにやってしまった方が良いかもしれない。そうしないとどんどん他の人に置いてけぼりにされてしまう。

それにさ、折角こうして旅の巡業に出てるんだ、少しは四つ辻で見てくれる人に届く舞を見せちゃあどうだい?もっと気軽に楽しめる何かを、さ。今できるものをしっかりやっておいた方が良いと思うよ」

「でも姐さん、うちらだって二か月も稽古してこの巡業のために支度をしてきたんだよ。それを見せないでどうするのさ」

「その支度したものばかりやって、他の芸人からは何も盗まないのかい?盗むという言葉が嫌なら、「学ぶ」とも言い変えられるよ。吉三朗兄さんがいつも言ってるじゃないか。「四つ辻に行って学べ」ってね。今あたしたちは東に居て、京でもめったに拝めない芸人達の技を毎日見てるんだよ。そこから何も学ばないなんて、もったいないと思わないのかい?」

姐さんの言っていることはもっともだ。周囲から学ばなければ、そこでうちの舞も終わりだ。もしかして今後伸びていくことすらないかもしれない。けれども、自分の中では何かもっと大きな舞の主題が欲しかった。

そんな中、多恵姐さん達が懇意にしている鎌倉の八幡宮の近くの神社に泊めていただいたとき、そこの宮司様から「江の島縁起」という伝説を聞いた。

この鎌倉の近くにある海には五つの頭を持った龍神がおり、仲間の居ない寂しさを嘆いて雨風を吹かせ、地元の民はその天変地異に苦しんでいた。

そこへ天竺ともつかない程遠くからやって来た弁財天という天女が琵琶を持って海の上に現れる。そして龍神になぜそんなに天変地異を起こすのか尋ねる。

一人ぼっちでいるのが悲しく苦しいという龍神は、弁財天の神々しい美しさを一目見て恋に落ちる。

五頭龍は弁財天に求婚する。弁財天は、天変地異を起こすのを止めれば、結婚しようと言う。
伴侶を得た五頭龍は、鎌倉の山に姿を変え、この地を守る神となり、弁財天も山の一つとなった。そして弁財天が降り立った海には、江の島という小さな島が出来た。

うちはこの話になぜか惹かれた。古事記に出て来る神々の話とも違えば、平安の世に作られた物語とも違う。また、子供の頃に効いた動物と人間の恋話とも違った。

神と神との恋の物語。大和の国が出来た時のイザナギとイザナミの話とも違う。

荒れ狂う龍の悲しさは、うちが小さい頃にこの世で一人ぼっちになり、悲しかった時を思い起こさせた。

思えばまだ京に両親と住んでいた頃、うちはまだ五歳だった。大好きだった両親は流行り病であっという間に亡くなり、一人ぼっちになった家を京丹波から助けに来てくれたった一人の叔母も流行り病に取られた。

大人からは町のお寺に預けられに行ったが、そのお寺の山門も固く閉じられたままだった。うちはそこで身を切られるほどの寂しさを味わった。

父さんも母さんももうこの世の人ではない。流行り病が渦巻く中、京まで迎えに来てくれた叔母さんも、あっという間になくなってしまった。

世の中にたった一人で放り出されたうちは、あの時五歳。あまりに幼く、寂しさを口でどう表現すれば分からなかった。寂しすぎて、疲れすぎて、何も分からなくなった所に睡魔が襲ってきた。今の一座のおやじさんが揺り起こしてくれなかったら、あのまま寂しさで心がつぶれていたかもしれない。

おやじさんが親切にも、路肩の売り子から、橘の実(みかん)を買って食べさせてくれた。甘酸っぱくて、カラカラだった喉を潤してくれた橘の実。その一口が未だに忘れることが出来ない。

あの時、親切なおやじさんに救われた気持ちは未だにうちの心の中に大きく残っていた。

両親や叔母を病に持っていかれた怒りの収集を付けるのには長くかかった。

小さい頃は自分の気持ちをどう言葉で表現していいか分からなかった。その怒りを癒してくれたのが舞だった。

庭や道端で見る美しい四季折々の花。山の色を刻一刻と変えていく四季の変化。その美しさに触れているときは、うちは怒りを忘れ、ただ目の前の花や木々の美しさに没頭した。そうでなければ、夜寝るときに寂しさや怒りに潰されそうになるほど、親や親戚の死はうちの心の中で暴れていたのだ。

時々夢の中で両親が亡くなった時のことが思い出される。
冷たく動かなくなった父さん。
苦しそうに顔をゆがめたまま動かなくなってしまった母さん。
悲しさと恐ろしさで悲鳴を上げて飛び起き、真夜中に何度おふくろさんに助けていただいた事だろう。おふくろさんは自分の菰の中で私をぎゅっと抱きしめ、よくこう言ってくれたものだ。

「この一座の皆があんたの家族だよ。亡くなったおとうさんやおかあさんは時々思い出してあげて、今は一座の家族があんたの事を面倒見る。皆あんたの味方だ。寂しくなったら私でもいい、おやじさんでもおばあさんでも、座員の兄さんや姐さんでもいい。誰かと一緒にいて、辛い事があったら吐き出しなさい。皆も小雪と似たような道を通って来たんだ。きっと耳を傾けてくれるからね。全く、こんなに小さい子うちから辛い思いをしているあんたが不憫でならないよ」

五頭龍の話を聞いて、うちは小さい頃の自分を当てはめていた。一人ぼっちで寂しかった自分。周りにいてくれた人たちを奪い去った病に対する怒り。その全部が五頭龍の怒りや苦しみと符合し、苦しくてのたうち回る龍の姿と重なった。五頭龍の苦しみが誰かの死から来たものなのかは分からないが、孤独が自分に怒りをもたらす気持ちは痛い程分かった。

そして、おやじさんと合って、自分がどれほど気が張っていて、どれほど寂しさに潰されそうになっていたか分かった。そしてあの時おやじさんがくれた橘の実。あのとき優しいおやじさんが私を救ってくれたのを思い起こすと、五頭龍が誰かの存在に助けられたという気持ちも痛い程分かった。

「江の島縁起」を舞って見たい。いや、自分が見てみたい。そんなことを考えている間に舞の振りはもう頭の中で出来上がっていた。あとは頭の中にあるものを現実の動きにしていくだけだ。龍の怒りや悲しみ、天女に会ったときの安堵感。そして心を開いていく過程。すべて自分の中にある感情を当てはめていける。

旅の巡業の最中、うちは夜にこっそりと一座を抜け出しては、日に一度は五頭龍の舞を舞ってみた。身体を動かしたくて仕方がない。そんな感情に駆られて、うちは夜の漆黒の闇の中や、月明かりの中、毎日のように舞って舞って、舞いつくした。

半年の旅が終わり、京丹波の一座の家に帰ってから、土産話で「江の島縁起」の話が出た。吉丸や保名たちも興味を持ってくれたようだ。

うちが旅の間に稽古していた五頭龍の舞を見せると、その場で見ていた全員が「お前が舞うべきだ」と言った。しかし、うちはもう一つ稽古していた弁財天の舞を舞いたかった。

五頭龍の怒りや悲しみは自分の悲しみや怒り。舞っている間に時々子供の頃の寂しさや怒りが思い出されて爆発しそうになる。自分の生の感情が動きにでているせいだろうか。普段のうちの舞とは違うとも言われた。

弁財天の舞は、空想の中から生まれたものだ。こちらの舞なら、弁財天を演じることで自分の中の暖かい気持ちを表現できる。五頭龍の舞でうちが見せる感情は、自分にとっても生々しいもので、幼い頃の感情が出すぎて却って苦しい思いがつのる。できれば五頭龍は他の誰かに舞って欲しかった。

うちは、舞の得意な保名や、福吉に舞って欲しかった。二人に加えて、花にも舞の振り写しもした。

しかし、ここで気が付いたのは、うちは人に教えることが上手くないという事だった。
これまでは舞い方の姐さん達とばかり仕事をしてきて、皆、阿吽の呼吸で稽古が進んでいく。

福吉や花も舞の型は入っているが、その型から進んで舞の主題を演じることは、なかなか教えるのに難儀をした。こればかりは舞手の想像力に任せる所が多い。

それに、誰が教えたのか分からないが、花はいつも取って付けたような満面の笑顔で何でも踊ってしまう。秋の紅葉が散る際の憂いや、季節が変わって行く寂しさ、涼しい秋の訪れの喜び。これをすべて満面の笑みで舞われては、見る側は何を見ているのか分からなくなってしまうだろう。

一度、花にその笑みの意味を訪ねたことがあるが、「緊張するからこうなる」と言っていた。
地顔も笑顔の花が作り笑いを浮かべると、どうしても細かい感情表現に欠けてしまう。

福吉は福吉で、感情表現が単調になりがちだった。舞の筋書きにある様々な感情の移ろいが表現しきれず、最初に喜びの感情があれば、その後に失望や悲しみ、苦しみなどが表現されるべきところでも、最初の喜びの感情だけで突っ走ってしまう。

この二人を導くのには、うちは途方にくれそうになる時があった。
花が緊張しそうになるのを防ぐために、花が落ち着いて一緒に居られる吉丸と保名に見てもらうようにしているが、「小雪姐さんといると緊張する」と言われるので、うちが直接お稽古をする機会も減ってきている。

この二人も十五歳。そろそろどの芸を極めるか決め始めても良い頃だ。

二人とも舞は頑張りたいと言っているので、舞手がどんどん少なくなっていく中ではありがたい事なのだが、お客に見せられるような舞にはなっていなかった。

そんなときに現れたのが久蔵さんだった。

わざわざ京の「お国一座」から来てくれた久蔵さんは、駆けつけてすぐにうちと花、福吉の五頭龍の舞を見た後、なぜか水辺に行きたいと言い始めた。

久蔵さんが何をするのか。皆不思議に思いつつも、翌日久蔵さんを水辺に案内した。町の外れの、湧き水が出ている場所だ。久蔵さんは花と福吉を湧き水が水たまりを作っている所へ連れて行き、流れ出る水の上に木の葉を置いた。

すると木の葉は、滑らかな円を描き、ゆらゆらと揺れながら水たまりから流れていく。

「いいかい、龍神は水の神だ。水の神の動きは、水の動きそのものと言っていいと思う。今木の葉を水に浮かべた時、動いただろう?あの滑らかな動きが龍の動き、という訳さ。滑らかでいて、予測できない動きがあっただろう?あのような動きを忘れずに頭に思い浮かべるんだ」

福吉と花は熱心に耳を傾けていた。そのうち二人とも木の葉を取ってきては、水の上に浮かべ、水の上を流れていく木の葉の動きを繰り返し、繰り返し、見つめていた。

しばらくすると久蔵さんは、今度はうちらを川に連れて行った。

「今の時期ならいると思うんだがね」そう言いながら久蔵さんは棒を持つと、川辺の藪に入っていった。

しばらく何かを探していた久蔵さんが、何か動くものを片手にこちらへ戻って来た。

それは一匹の蛇だった。

辺りからは悲鳴が起こった。花は一目散に私の後ろに隠れた。福吉も後さずりをしてこちらへ近づいてきた。

「これは毒が無いから心配しなくていい。この大きさからすると子供の蛇だね。

いいかい、白蛇は、龍神の子供だという説がある。龍が細長い体をしているのも、蛇から採られた、という説があるんだよ。

花、福吉、今からこの蛇を離すから、動きをよく見てごらん」

そう言うと、久蔵さんはゆうゆうと蛇の子供を川岸に置いた。

蛇の子供はゆっくりと蛇行しながら、滑らかに川岸の石の上を滑っていく。

時々止まりながらも、蛇の子供はゆっくりと動いていき、やがて川に入っていった。

川に入った蛇の子供は、水面をまるで滑るかのように動いていく。

ほんの少しの間の事だったが、見ていた皆がしんと静かになるほど、うちらは集中して蛇の動きを追っていた。

「見たかい?軽業で体を柔らかくしているお前さん達なら、あれだけの滑らかな動きは得意なんじゃないかな」

そう言うと久蔵さんは、今度は神社か寺に行きたいと言った。龍の絵がある所に行きたいと言う。

確か天上画に龍の絵がある神社があったので、うちらは今度は神社を目指した。

賽銭箱の上の屋根の裏には、何枚もの龍の絵姿があった。神社の屋根にも龍の彫り物が飾られている。同じ姿の龍の絵は一枚も無い。まるで人間のすべての感情を吐露しているような絵だった。

久蔵さんは花と福吉を招き寄せて言った。

「ここの竜神さんは、怒りや悲しみ、喜びを表しているね。ほら、あそこの天高く舞っていく龍を見てごらん。あれは何の感情をあらわしているだろう?」

「天に帰る喜び?」花が言った。
「天を舞っている喜び?」福吉が言った。

「うん、見る人によって受け止め方は違うので、二人の行ったことはどちらも正解だね。

ここには沢山の龍神様の姿があるので、これから時間があるときにこの絵を見ながら、その絵と同じような感情が自分の中にあるかどうか、探して見なさい。

自分の中にある喜び、自分の中にある悲しみや怒り。そして、思い出した感情を持ち帰って、五頭龍の舞の時に使ってごらん。きっと今までとは違う舞になると思う」

自分の中にある感情。花も福吉も、私と同じく小さい頃に両親を亡くしている。それは、思い出すだけでも辛いものがあるのではないか。

現にうちも思い出すと辛い感情がある。早くに親を亡くしてこの一座に来たこの二人にとって、どのような事になるのか。いくら二人がもう十五になっているとは言え、親を亡くした気持ちは癒えているのだろうか。

うちは心配しつつも、久蔵さんが教えてくれたことが二人に良い影響をもたらしてくれるかもしれないと期待しつつ、もう一度頭上の神社の龍の絵に目線を戻した。


(続く)

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