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44歳、PR会社からゆめみに転職する【前編】~今までやってきたこと~

6年在籍した井之上パブリックリレーションズからゆめみに転職して1ヶ月が経ちました。まだ絶賛オンボーディング期間中ですが、このたびの転職について(長くなるので)3部作でお送りします。
今回は【前編】〜井之上パブリックリレーションズ編〜 。もう今さらカッコつけてる場合でもないので情けない部分も正直にさらけ出します。ガチの赤裸々です(笑)。

■井之上パブリックリレーションズについて

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1970年創業、パブリシティやプロモーション代行ではなく経営視点での戦略コンサルティングを軸に展開する50年以上の歴史を持つ独立系PR会社。

日本におけるパブリック・リレーションズの父とも呼ばれる創業者の井之上喬会長(76)は、インテルやアップルなどシリコンバレーのベンチャーが日本市場に参入する際のPRコンサルテーションをはじめとして、国内外の多くの企業のビジネスを成功に導いた実績を持ち、日本で初めてPRで博士号を授与された人物。もはや偉人です。

井之上 喬(いのうえ たかし、1944年11月20日- )は、日本のパブリック・リレーションズ(PR)の専門家/教育者、実業家。「自己修正モデル」の提唱者。PR研究で日本初の博士号授与、博士(公共経営)。株式会社井之上パブリックリレーションズ代表取締役会長兼CEO。日本パブリックリレーションズ研究所所長兼代表取締役。一般社団法人グローバルビジネス学会顧問、京都大学経営管理大学院 特命教授、神戸情報大学院大学 客員教授
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

実務はもちろんのこと、日本の将来を背負うグローバルPR人材育成を使命として早稲田大学グローバルエデュケーションセンター、京都大学経営管理大学院(MBA)、九州大学ビジネススクール(MBA)、早稲田大学ビジネススクール(MBA)などでパブリック・リレーションズの講義を行うなど、延べ2,000人以上の教え子がいます。広義では私もそうした教え子の一人で、人間性やパブリック・リレーションズ実務など多岐にわたってご指導賜り、多くのことを学ばせていただきました(車もぶつけました😢)。

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退職時も「自分の信じる道を進みなさい。お互い長い人生、また色々接点もあるでしょう。いつでも遊びに来なさいね」と前向きに送り出していただきました。これからも教え子の一人として、然るべきタイミングで人生や実務上のアドバイスを仰ぐこともあろうかと思っています。本当にありがとうございました。

そして、入社から退社までずーっと直属の上長だった横田部長。
なかなか成果が出せず成長も亀より遅く(+ギュンギュンポーズ無差別テロでも)迷惑ばかりかけまくったものの、見捨てることなく粘り強く熱血指導いただき育ててくれた恩人です。厳しい面もあるけれど裏表なく曲がったことが大嫌いで常にまっすぐ全力疾走!武士!サムライ!雨の日も風の日も早朝も深夜も6年間365日ほとんどご一緒させていただきました。色々ごめんなさい、そしてありがとうございました。

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ポジティブで常に率先して最前線で戦う姿勢リスペクトしてます。こんな良い笑顔で送り出してもらえることになるなんて入社当初は想像できませんでした。

そして、一緒に協力&連携してくれたチームの同僚ならびに井之上パブリックリレーションズ関係者のみなさんにも心から感謝申し上げますm(__)m

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■井之上パブリックリレーションズでの仕事

2015年から2021年まで約6年間、コンサルタントとして最前線でクライアントと伴走してきました。

主なクライアントとしてSaaS、ERP、シェアリングエコノミー、ロボティクス、インサイドセールス、カスタマーサクセス、エアライン、タイヤ、自動車部品、製造、物流、エネルギー、宇宙開発、食品、美容・ヘルスケア、アパレル、デザイン・アート、トレードショー、投資ファンド、学校法人、官公庁・地方自治体など延べ52社を担当。

実務内容としては、契約条件の折衝、報道内容分析、PR戦略立案、Proposal作成、メディアリスト作成、メディア・リレーションズ活動(プレスリリース作成・配信、個別インタビュー・メディアキャラバンのアレンジ、記者会見・記者勉強会などプレスイベントの運営、国内外のプレスツアー企画・実施)、報道状況モニタリング・クリッピング、危機管理対応コンサルティング、スポークスパーソン向けメディアトレーニングなど。

加えて、テレビ、新聞、雑誌、ラジオ、オンラインなど主要メディア関係者とのリレーションズ構築(約1,200人)。

情報漏洩、不正会計、労働争議、役員による不祥事、風評被害、国際政治関連など15件の危機管理対応コンサルティング案件にも携わりました。みなさんもご存知のあの事件も!

そんなこんなパンナコッタ☆

PR会社といえば、タレントを呼んで派手な新CM発表会とか華やかなイメージをお持ちかと思いますが、実際のところはクライアントを表舞台に送り出しつつ自らは影武者として裏方に徹して支えるシーンがほとんどです。さらには「うまく行って当たり前」「毎月こんだけのお金払ってんねんから結果出して当然よね」「名門と名高い井之上PRのコンサルさんってさぞ優秀なんでしょうね…あれ?」というスタンスで減点法で評価されることも多く、やりがいはあるもののプレッシャーとストレスも大きい仕事です(涙)。

一方で、クライアントと同じ目線で戦略を練り上げて実行して思い通り(時には思った以上)の成果を出すことができた時の喜びと達成感はギュンギュン!なものがあります。

例を挙げると、
「Yahoo!トップに掲載!」
「WBSで紹介された!」「日経本紙で取り上げられた!」
「ビジネス面(業績)で大きく貢献できて社長から褒められた」
「グローバルで日本法人がダントツのトップ業績」
「実績が評価されて広報ご担当が昇進」
「クライアントと二人三脚でエントリーしたアワードでグランプリ受賞」
など喜びのフィードバックをいただき感動を味わうことができた場面もたくさん経験しました(涙)←泣いてばっかりw

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なので、PR会社への入社を考えている人へのアドバイスとしては「パブリック・リレーションズの真髄をインストールしたい」「PRの実力をつけてキャリアアップを図りたい」「ドMである」など、PRの世界にどっぷり浸かって経験を積んで知見とスキルを身に付けたいという目的が明確であれば成長環境として非常に良いのではないかと思います。単なるパブリシティ屋に留まらないモノホンのPR人材は希少性が高く、エージェンシー/事業会社に関わらず圧倒的に需要がありますYO😉✨

【井之上PR求人情報】
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また、プレスイベントやプレスツアー、調査業務もあって出張も多かったです。国内だと北海道から九州まで数えきれないほど。海外だとシンガポール、ドイツ、中国などにも行かせてもらったりと楽しい場面もありました。こんな状況となっては海外出張はホンマに貴重な機会と経験でした。

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「オリバーカーン⚽」ってボケたらルフトハンザの機長&CAにバカ受けw

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ミュンヘンの有名すぎるバイエルン国立歌劇場のロイヤルボックス

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シンガポールで開催された世界的アワード「Spikes Asia 2017」に参戦

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北京のデジタルビジネス最前線を視察

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前回の自己紹介でも赤裸々にお話したとおり、2010年に経営していた会社を倒産させて人生どん底まで落ちて何もかも失ってボロ雑巾の根無草だったアタシ…😭

自分の生活も立ち行かず神戸の実家に屈辱の出戻り&無職で引きこもり、鬱状態で元気も気力も出ず、この先将来どうしようもない無一文の人生になるしかないやん!💦という状況から覚悟を決めてプライドもこだわりもぜーんぶ捨ててリセットしてZEROになって、2012年にPR業界では知る人ぞ知る武闘派カリスマのボス(m-cramp 南社長)に付き人として拾い上げてもらいカバン持ち&テレビプロモーター見習いからスタートして経験を積ませてもらいました。

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その後、2015年に井之上パブリックリレーションズに転じて2社で延べ約10年間にわたるPR業界での経験を通じてコンサルタントとしてはもちろん、人間的成長という観点でも私のキャリアの軸を再形成させてもらいました。ビジネスシーンからドロップアウトしたどうしようもないアラフォーのアタシをPRという仕事が拾い上げてくれたのです。そう、命を救われたのです。救心?救急?救命?あれ?なんの話をしてましたっけ?

そんなこんなパンナコッタ★
たくさんの人に迷惑をかけながらも社内外の心あるみなさまに温かく見守ってもらいながら実績を重ねて、ようやく人並みに仕事できるようになった…ような気がしてます(たぶん😢)。

直近の井之上パブリックリレーションズでの6年間は、とにかく愚直にガムシャラに駆け抜けた日々でした。

特に最初の2年間はフィジカルもメンタルも正直きつかったです。
働き方改革が浸透する過渡期だった頃でもあり、てっぺん前に帰宅できたことなんてまずなかったですし、そもそも実務能力も極めて低く何一つまともにアウトプットできず怒られてばっかり。クライアントから名指しで担当を外されて悔し涙の夜もありました(涙)。上司や同僚からの信用もなかなか得られず「なんて厳しい環境に飛び込んでしまったんや」と不安と後悔の涙を流す毎日でした(涙)。
MAXやばかった時は、仕事中に姿が見えなくなった私を心配した同僚が探しにきてくれて、オフィスの廊下の窓から虚な目で墓地を見ながら立ったまま気絶してた私の肩を揺すって目覚めさせてくれたというエピソードも(涙…いや、もはや笑)。

3年目から4年目に差し掛かり、そうした試練の時期でも心折れずになんとか踏ん張って乗り越え、だんだんと仕事のやり方も身につき、できることの幅がちょっとずつ広がって一部のクライアントからも「福太郎の動き、悪くないやん」と評価してもらえることも増えてきて、だんだんPRの仕事が楽しくなってきた時期を迎えました。日本パブリックリレーションズ協会認定PRプランナー資格も取得しました。

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そして、5年目には現場のコンサルタントとしては最上位のポジションとなるシニアアカウントエグゼクティブという役職に昇格させてもらい、自ら手足を動かすというよりも案件ごとにチームをディレクションしながらプロジェクト全体のバランスをみながら進めて行くような役割が増えてきました。とは言え、責任や担当領域も広がっているので常に8~12クライアントを掛け持ちしながらパラレルに案件を回さなくてはならず、目の前のやることに追われ忙殺される日々、立ち止まって内省する余裕もなく目の前の仕事を回すことで精一杯でした。また、そんなポジションでありながら、一部の同僚と信頼関係を構築しきれず悪循環に陥りチーム内の人間関係に悩むドクタースランプあさりちゃん時期も味わいました😢

そんな中、2020年のテレワークシフトなど急激なビジネス環境の変化だったり自分と向き合ってみるタイミングな気がして、ちょっと腰を据えて自問自答してみたんです。

で、要点を整理するとこんな感じでした。

【現状の整理】

井之上パブリックリレーションズの「型」が身につき、ある程度効率的に仕事を回していける手応えがある。多くの記者のみなさんと良好な関係を構築できてメディア・リレーションズも楽しめるようになってきた。今の仕事内容や職場の人間関係に不満はないし、ゴールを決めずにこのまま続けることはできそう。6年間全力でポジティブに業務に邁進し、会社への一定の貢献もできているのではないか、という実感。

【課題】

将来的な社内キャリアステップとしては管理職としてマネジメント面での貢献が求められる比率が高まっていくことになるが、それが望んでいることなのか自分の中で道筋が見えない。井之上パブリックリレーションズの「型」が(良くも悪くも)身につきすぎているがゆえに「もしも」環境が変わった時に対応できるのかどうか確信が持てない。井之上会長や横田部長のリレーションズの傘の下で幅広い人間関係の恩恵を受けているが、それは自分自身の顔と名前で確立した経済圏とは言えない。また、怒られすぎて萎縮してしまったマインドや「ギュンギュン禁止令」など正直な感情や本来のキャラクターを抑圧した状態で無難に振る舞う癖がついてしまっていてもはや取り戻せない。

さらに!
今、44歳。10年後は54歳。ん?15年後は59歳!え!?昭和やったら定年退職の年齢やん!💦
居心地の良い現状に甘んじて逃げ切りを前提に逆算してペース配分しようとしている自分がそこにいるような気がしました。

自分の在り方ってこれで良かったっけ?15年後に後悔しない自信ある?

たとえば10年後(54歳か)に転職したくなった場合、納得できるキャリアアップ(仕事内容も収入も)ができるのか?と問われたら、ちょっと自信持てないんですよね。

そうした思いが自分の心の中にあることが明らかになりました。

そんな折、大学時代から20年来の付き合いの親友から「そろそろ頃合いかな」とお誘いがあったんです。。

続きは【中編】で





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