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「憑依思念(前編)」・・・怖い人の話。港に面した夜の公園で男は勇気を振り絞って。



『憑依思念(前編)』


「いよいよかな」

森野鈴音は、心の中で覚悟を決めた。
今夜のディナーはフランス料理、ワインも奮発していた。

「食後の散歩をしましょう」

普段以上にスーツをびしっと決めた市川雄太は、
恋人を夜景が美しい港の公園に連れ出した。

つき合い出して半年になるが、雄太はまだ手を握るくらいしか、してこない。

雄太がそれ以上を求めてこないであろうことは、
付き合い始めて数分で分かった。

『純潔って鈴音さんはどう思われますか?』

配偶者に求める最大の条件が処女性であることを、
最初のデートで話題にしたからだ。

そんな話題が出た時には、赤面して話を逸らす。その仕草が『純粋で真面目』というイメージに直結する事を鈴音は知っていた。

今夜もそのイメージを壊さぬようなコーディネートにしている。
シックで明るい色のロングワンピース。
胸に付けているブローチだけが少しだけ高級品だが、
その輝きは「特別な時間」と相手に意識させるのに一役買っている。

海に面した手すりに手を添えて、二人は沖を行く船の灯りを眺めた。
9月初旬とはいえ、海は昼の残暑を残しはしない。
頬に当たる海風が少し涼しく思える。

「寒いでしょう」

雄太が自分の上着を脱いで鈴音の肩にそっと掛けてくる。
古いラブストーリーのような気遣いが、意外と女性には効果的。
そんな恋愛マニュアルでも読んだのだろうか。確かにその時の雄太は、何も言わなくても相手の気持ちを感じ取れる男に見えた。

「ありがとう。でも雄太さんが・・・」

「僕は大丈夫です。鍛えてますから」

鈴音は羽織った上着の襟を右手で掴み、左手は裾から出して雄太の手を握った。海風のためにその手はとても冷たく震えていた。

鈴音は雄太の太く冷たい指を少しでも温めようと、自分の指を動かした。

少しの間、雄太はされるがまま手を動かさなかった。
しかし、遠くで船の汽笛が鳴ったのをきっかけに、
雄太の手は鈴音の手をしっかりとそして優しく握りしめた。

鈴音が見上げた時、雄太の目は正面の海を横切る屋形船を見つめていた。
そして一瞬の後、男は女の方を向き直り、両手で華奢で白い手を握りなおした。

雄太の目には、はっきりとある決心が浮かんでいた。

『来た!』

鈴音の胸は高鳴った。

『ついに待ちわびた楽しい瞬間が』

雄太は大きく深呼吸して話し出した。

「す、すず、すず、うっ」

少し言いよどんでいる。雄太の緊張が、
最高潮に達しているのが嫌と言う程伝わってくる。

『大丈夫よ。言いよどんだ事なんて、すぐに忘れるからそのまま続けて』

鈴音は母親のような優しい笑みを浮かべ、雄太を見守った。

「鈴音さん!」

「はい!」

雄太の大声につられ、思いがけず鈴音も大きな声で答えてしまった。
周りの目が気になったが、目線をそらしては雄太の勇気が萎えてしまうかもしれない。

だがその心配は杞憂に終わった。雄太が肩に掛けた上着ごと鈴音を抱きしめたのだ。
鈴音の鼻に、おそらくは初めて付けたであろうコロンの香りが漂ってきた。
自宅の浴室で、加減も分からず、買いたてのコロンを吹きかけている
雄太の姿を想像してほほえましく思えた。

今夜一番大事な言葉も、大声だった。

「鈴音さん以外には考えられません。僕と結婚して下さい」

鈴音は目を閉じ、雄太の広い背中に両手を回して抱きしめた。
大任を果たした達成感からか、雄太の体の震えが止まっていた。

鈴音からは見えないが、その髪にかかる熱い息で
雄太がさらに優しく鈴音を包み込んできたことが分かった。

鈴音は、いっ時雄太の温かい抱擁をしっかりと味わった。

『さて』

鈴音は心の中で合図をして、雄太の背中に回した手を下ろし、
少し体を離して雄太を見つめた。
雄太の目は次に来る言葉への期待で、一杯に見開いていた。

「雄太さん。ありがとう。私・・・」

鈴音がここで間を取るのは、相手へのせめてもの敬意なのと、
次のセリフをしっかりと聞かせるためである。

「私には、あなたよりふさわしい人がきっといると思うわ」

「え?」

雄太はたった今聞いた言葉の意味が分からず、戸惑った。


                 明日につづく



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