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ぐん税ニュースレター vol.24 page7 -渋沢栄一から学ぶビジネススキル 第2部-

前回の記事(第1部)

動き出す運命の歯車

高崎城址

江戸から帰ってきた長七郎の話を聞き行動せずにはいられなかった渋沢は反対する父を説得し、2カ月江戸に滞在しました。江戸では漢学や剣術を学ぶ一方で、主には同志を集めるためのネットワーク作りに励んでいました。江戸から帰ってきた渋沢は惇忠と、もう一人の従兄渋沢喜作の3人で高崎城を乗っ取って兵を整えた後、横浜を焼き討ちにして外国人を斬殺するという計画を立てます。(高崎城は私たちの事務所のすぐ近くです。今では跡地ですが、まさかこんな近所に渋沢栄一と所縁のある場所があるとは思いませんでした。)
無謀な計画とも思えますが幕末という時代を考えれば誰しもが国を憂い、真剣に国を救いたいという気持ちだったのでしょう。並々ならぬ決意を抱いていた渋沢も家族には迷惑をかけまいと父と議論し、計画を打ち明けないまでも最終的には勘当され、いわば計画通りに親子の縁を切りました。

計画の決行は文久3年11月23日。渋沢のもとには江戸での人脈も生かして約70人が集まりました。ここにも渋沢の人を惹きつける人間力があります。そして外国人を襲撃するための刀も100本以上調達します。準備が整ったところで9月には京都にいる長七郎へ計画実行を知らせるための文を送ります。渋沢に尊王攘夷を教え込んだ長七郎でしたが、その頃は攘夷に関わっているという疑いをかけられ京都へ逃げていました。そして文を受け取った長七郎は渋沢が思ったとおり京都から帰ってきました。
しかし長七郎からの回答は、計画は実行するべきではない、というNoの回答でした。これには渋沢は驚きました。自分に攘夷の思想を植え込んだ張本人から計画を止められるとは思いもよらなかったはずです。しかし攘夷のために積極的に行動を起こしていた長七郎だからこそ渋沢たちの計画では事を成し遂げられないことを見抜いていたのです。長七郎は渋沢を説得しますが死を覚悟して決心した渋沢も折れません。議論は平行線を辿りますが、話し合いを続けるうちに渋沢は長七郎の意見が正論であることを理解し計画の中止を決断します。

その時歴史が動いた、と言うことであれば高崎城を襲撃して歴史が大きく動き出す方が面白いのかもしれませんが、今後の渋沢の功績を考えればこの計画を実行しなかったことで日本の歴史が大きく動くことになります。そして用意周到に準備をして時間をかけてきた計画を中止するという判断力も渋沢の特筆すべき能力でしょう。

最大の転換期

徳川慶喜 / 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

計画を中止にした渋沢ですが既に勘当され帰る家もないうえに、計画を察知した幕府の役人に捕まる可能性もあったため喜作と共に京都に逃亡します。天皇のお膝元であれば同志に出会えるのでは、と考えていた渋沢ですが頼りにした人物も一名いました。御三卿の一つである一橋徳川家の家臣、平岡円四郎です。
平岡から国を想う気持ちと手腕を買われていた渋沢は以前に一橋家の士官に誘われた経緯がありました。国を想う気持ちと言ってもその方向は討幕へと向かっていましたので当時渋沢は返事を避けたそうです。ですが今の渋沢は何も持たず頼るものもない身です。人に必要とされ立ち回りもしやすい一橋家の士官となることを受け入れます。
つい最近まで幕府を倒そうと企てていた人間が幕府側に就くわけですから当然喜作とは意見がぶつかります。しかしここで渋沢は相手の話を聞く力を発揮し、喜作の話を十分聞いてから話しやすい状況を作り説得を試みます。今は薩長に行くつてもない、浪人を続けるよりもメリットがあると説明し、喜作を納得させました。
しかし渋沢の国を守りたいという志は変わりません。渋沢は立場など顧みず平岡に対し任官の条件として慶喜公(のちの15代将軍徳川慶喜)に直接拝謁したいという旨を伝えます。そして平岡の調整があってこそだが、それを実現してしまうところもまた渋沢らしいです。慶喜に対して幕府を立て直す必要性を訴えました。

その後コツコツと任務をこなしていった渋沢は一橋家の人材採用まで任されます。高崎城襲撃計画の際に同志を集めた渋沢の人間力がここでも発揮されます。故郷に戻り一橋家に奉公したいという者を50人ほど集めています。また軍備不足に対しては領地から農民を集めて歩兵隊を編成することを提案しますが、農民に対してその必要性を説明し募集の意図を理解させることで自ら進んで応募するように取り組みました。その結果450人以上の志願兵を集めることに成功しました。
こうして職位が高くなるにつれ課題を見抜き、提案し、対策を講じ続けることで一橋家での信用を築き、組織におけるリーダーの役割を果たしていきました。課題に対して最適解を導き出しすぐに行動に移してきた渋沢は、「米の売り方の改善」「備中での硝石製造所設立」「播州の木綿反物を売り出すための仕組み」など今後の産業発展の礎となるような事業にも取り組みます。

わずか3年の間に多くの功績を残し順調に職務を遂行していた渋沢でしたがまた時代に翻弄されることになります。慶喜が15代将軍に就任することになり江戸幕府に仕えることになったのです。一橋家で築いた立場は無くなり末端の幕臣になることはもちろん、幕府の弱体化とその先が長くないことを察知していた渋沢にとっては途方に暮れるよりほかなかったでしょう。そんな時、渋沢に思いもよらぬ白羽の矢が立ちます。慶喜の任命でパリ万国博覧会に向かうよう告げられ、渋沢はその場ですぐに快諾します。死に体となった幕府において慶喜の最後の英断と言うと語弊があるかもしれませんが、この判断は渋沢にとって、そして日本にとっても大きな転換となったことは間違いありません。

ヨーロッパでの経験

洋装の渋沢栄一 / 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

パリ行きの船内ではパンやコーヒーなどの洋食にも挑戦する渋沢。パリに着くなり髷(まげ)を切り洋装で生活をしたそうです。こうした何でも貪欲に吸収する姿勢が渋沢を成長させ続けたのでしょう。パリ万博後はそのままヨーロッパを周遊しパリに留学する形で滞在しました。パリでの生活は衝撃の連続でした。汽車、新聞、オペラ、電灯、下水管など初めて見る・体験するものばかりで特に病院施設の清潔さや設備には感銘を受けたといいます。同時に日本とこれほどまでに文明の差があることにも憂慮します。
そして渋沢はフランス陸軍大佐と銀行員が対等に商談を進める現場を目のあたりにし、日本に足りないものはこれだと確信したそうです。渋沢にはかつて代官から御用金を一方的に迫られ階級制度を重んじる幕政に対し憤慨した過去があります。国民が平等で、役人だからといって威張ることがない現実を見た渋沢は、この考え方の違いによって文明と経済力に大きな差がついてしまったことを肌で感じました。

慶応3年10月、一つのニュースでパリに衝撃が走ります。慶喜が大政奉還をしたという新聞報道でした。同行していた日本人やフランスの士官も信じていなかったそうですが渋沢は日本に来る前から既に察知していたことです。日本から正式に連絡がきたのはその3カ月後でした。
渋沢には確かな先見の明がありました。幕府が崩壊した際に滞在費が送金されなくなるのでは、と考えていた渋沢は西欧の金融制度を学び、フランスの公債証書と鉄道債券を購入し既に資産運用をしていたのです。また西欧の経済界を視察するなかで、いつでも生金と引き換えられる紙幣の流通とその紙幣を集めて営利事業をする銀行に国家繁栄の鍵があると考えました。

新たな舞台へ

大隈重信 / 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

大政奉還の約1年後、渋沢は帰国しますが今さら函館で幕府軍として戦う気も新政府に媚びる気もなく途方に暮れます。そして渋沢は駿河(静岡藩)に向かい謹慎している慶喜と再会します。そのまま駿河で生涯を送ろうと思った渋沢は商法会所を設立します。商法会所ではほかの地域で米を買い付け、同時に藩内の茶や漆器などの物産を販売する商いのほかに商品を担保に資金を貸し付ける銀行的な機能も兼ね備えた業務を行っていました。西欧で知識を得た渋沢は、商売は自分一人では大きくすることはできないので個々の財産を集めて大きな事業を行う元手にする、という共力合本法を提唱していました。現在の株式会社制度のような考えです。実はこの商法会所もその合本法により設立させたものでした。

こうして静岡藩で事業を始めた渋沢でしたが、まもなく大蔵省の重要人物から大蔵省租税司正という役職を任命されます。その人物こそ後に内閣総理大臣も務めることになる大隈重信であり、渋沢を再び表舞台に立たせることになります。ですが当初渋沢は静岡藩での事業、慶喜への想い、そして税制についての知識がないことから辞退の意思を告げていました。
しかし、いつもは相手の話を聞いて懐に入り大局的に説明をする渋沢も今回ばかりは大隈が上手でした。新しい時代をつくるなかで何もわからないのは皆同じ。静岡藩に留まらず日本という一国を変えるために今は才能ある人材を集めることが急務である。そう言った大隈は、さらに慶喜への配慮も忘れなかった。そして渋沢は大蔵省へ入省することを決意します。そしてここからはのちに歴史に名を残す人物が立て続けに登場します。

渋沢は早速、改革のための新局設立を提案し改正掛を新設しました。この時「日本郵便制度の父」前島密や「日本造船の父」赤松則良も改正掛に登用しています。そして全国測量を企画し租税の改正を推進していきました。明治4年には大蔵卿に大久保利通、大輔に井上馨が就任し、渋沢は大蔵大丞という役職に就きました。
立ち上げ直後で曲者揃いの大蔵省。当然さまざまな問題にも直面します。伊藤博文がアメリカから持ち帰った会計法を渋沢が採用すると、得能良介がそれに反対。手を上げた得能が免官処分となる事態が起きています。そして陸海軍の費用や各省からの支出が求められるなか廃藩置県が行われ大蔵省の仕事は増加。歳入が追いつかないなかで財政問題に無関心の大久保へ権力が集中し、不信感を募らせた渋沢は今一度考えを巡らせます。この大蔵省を支えることよりも自分が果たすべき役割があるのではないか、と。金融事業には特に意欲的だった渋沢ですが自らも制定に携わった国立銀行条例の公布後まもなくして辞職しました。そして井上馨とともに大蔵省を去った渋沢は西欧で学んだ国家繁栄の鍵となる銀行を立ち上げます。こうして渋沢は実業家として真骨頂を発揮していきます。

(広報 原)

2022年9月号 第3部

【参考】
国立国会図書館「近代日本人の肖像」
PRESIDENT Online「ビビる大木、渋沢栄一を語る」
東洋経済ONLINE「日本資本主義の父 渋沢栄一とは何者か」
埼玉県深谷市「近代日本経済の父 渋沢栄一」
渋沢栄一記念館ウェブサイト
公益財団法人 渋沢栄一記念財団ウェブサイト

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