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【読書感想文】明日のわたしが、このものの中で眠っている

 最近わたしは思う。わたしがここに立っている、ここに立って目前にある景色を、わたしは、見ているのではない。読んでいるのだ。わたしが目にするものは、わたしの思考を絡めとりながらわたしの中へ入り込んでくる。目にしたものと、それに絡まった思考は、わたしがなにか思ったり感じたりすることによって、再び目前に戻される。景色は、はじめは景色だけであったものが、今はわたしの目を通しながら、わたしの思考と共にある。目前にあるのは、思考や感覚などわたしの一部が含まれている景色だ。

 それが、世界を読むということなのではないか。そして、なにかを見るとはそういうことなのではないかと思うのだ。

 先日わたしは、以下の記事でこのようなことを言っている。

以下わたしの記事からの引用

見るってなんだと思いますか。目の前にりんごがあったとして、それを目でとらえたときに、これはりんごだなって思うことでしょうか。それとも、それをりんごだと認識したうえで、このりんごはよく熟していて赤いなあ、などと思うことでしょうか。


 どうやら、わたしは見ることに関心があるようだ。そのうえ、見ることを通して対象についてどう考え感じるのかにも興味がある。それらの興味関心の根底には、わたしが作品をどう見るのか、という問いがふくまれているようにも思えるし、わたしが世界をどう見るのか、を探求したいのかもしれない。

 大学一年生のときに、クラスという制度が存在した。そのときの担任の先生がよく、「他人を見れば自分がわかる」ということを強くおっしゃっていた。まさしくそうなのだろう、と思う。見ること自体に自分の思想が含まれているからだ。自分の目にうつる他人は、ほんとうの、そのままの他人ではない。自分の感じ方や考えの入りまじった他人だ。わたしは背が高く、体つきもがっしりとしていて、スポーティーな男性を見ると、絶対に「絶対に仲良くなれない」と思ってしまう。

 そして、自分がわかる(あるいは自分が見えてしまう)対象は他人だけではないんじゃないかとも思うのだ。わたしは大学へ入ってから、他人の作品展に行くたびに、作品を見て感じたことをnoteにまとめている。今まで、多くはないけれど、いくつもの作品を体感してきた。その中で、作品も自分を映すものなんじゃないかなと思う。

 佐々木正人『新版 アフォーダンス』(岩波科学ライブラリー)を読んだ。この本を読む前に、わたしは柏木博『デザインの教科書』や後藤武他『デザインの生態系――新しいデザインの教科書』で「アフォーダンス」ということばと出会っていた。もう少し深く、アフォーダンスについて知りたいと思ったわたしは、大学図書館でアフォーダンスに関する本を調べ、その中で一番ページ数が少ないこの本を手に取った。『新版 アフォーダンス』を読むことに決めたのは、ページ数が少なかったから、というなさけない理由からである。

 133ページ。

 とにかく濃い133ページだったし、133ページの間わたしはどこかにタイムスリップしていたような気分だ。わたしの目はまだまだ若い。わたしはまだまだ何も知らない。そんなわたしに、この本は新しい世界の見方を教えてくれた。

 私たちは「眼だけで見ているのではない」、「耳だけで聞いているのではない」、また「皮膚だけで触っているのでもない」。

 この言葉は本のほんとうにはじめの部分、プロローグに登場するものだが、まさにこの本の結論じゃないかと思う。

 わたしは世界と対峙するとき、全身のあらゆる感覚、視覚、味覚、臭覚、聴覚、触覚で世界を感じとっている。(アフォーダンスの中では、これらの感覚に基礎定位を加えた五つの感覚を「知覚システム」と呼んでいる。)

 人によってものの感じとり方はさまざまだと思う。この本はこうも言っている。

 環境の中の情報は無限である。それを探索する知覚システムの組織も生涯変化しつづける。知覚システムは、どのような環境と接触してきたかによって異なる個性的なものであり、情報の豊富さに対応するように分化し続けることで固有性をもつ。しかし、個性があるだけではない。包囲する情報はだれにでもアクセスできる可能性をもっているので、どの知覚システムにも共通性がある。知識を「蓄える」のではなく、環境に触れて、「身体」のふるまいをより洗練されたものにし、さらに多くの奥深い環境の意味に触れることができるようにしてゆくこと。それが発達することの意味である。

 感じ方というのは、いまからわたしがどんな環境と触れていくかによって、どんどん変わっていく。それを発達と呼ぶかはわたしにはわからないけど、一年前のわたしの感じたことと、今わたしが感じること、明日わたしが感じることは全部違うのだ。

 他人でも作品でも、なんでもいい。とにかくなにか「もの」を見たときに、わたしは今は何も感じなくても、いつか何かを感じることができるかもしれない。そして、同じものを見ても、そのときどきのわたしによってなにを感じるかは違ってくる。それってすごいおもしろいことじゃない?ってわたしは思うんです。何かを感じる瞬間があったら、それを書き留めるかなにかして覚えておいて、あとで見返したりなんかしたら、絶対おもしろいに決まっている。わたしは去年兵庫県立美術館に具体美術をみに行ったけど、そのときは「は?なにこれ?」と思うだけで何も感じなかった(もちろんは?という疑問を感じた、とは言える)。わたしはそのとき何も感じなかったことがふしぎで、頭にひっかかって、具体って何がおもしろいの?と今でも考えつづけている。おもしろいと思った作品の何倍も、おもしろくないと思った作品について考えている。それがまあ、おもしろい。

 でもいつか何かを感じる可能性が、わたしにも具体それ自体にも秘められている。「アフォーダンス」はそう教えてくれる。具体は、わたしに何かを感じられるのを待っている。今でもずっと。

 成長するのってすごく楽しみだなあと思う。年をとることが楽しみでしょうがない。今とは違うものの感じ方ができるようになるってことだし、今よりいろんな世界を味わうことになる。いろんなものと触れていきたいな。アフォーダンスはそう思わせてくれる。触れて触れて、まだものが持っているけどわたしが掘り出せていない感覚を、触れて触れて、感じて知っていきたいんだ!って元気が湧いてくる。

 アフォーダンスは環境の事実であり、かつ行動の事実である。しかし、アフォーダンスはそれと関わる動物の行為の性質に依存して、あらわれたり消えたりしているわけではない。さまざまなアフォーダンスは、発見されることを環境の中で「待って」いる。



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