喫茶店で「不自由」を脱ぎ捨てる。
みなさん、「お茶をする」という行為は、すきですか。
私はすきです。
それも、「ひとりでする」のが特にすきです。
おしゃれ~なカフェや、クリームましましのフラペチーノもいいけれど、私はとにかく「喫茶店」が大好き。
「カフェ巡り」に興味はない。
「喫茶店巡り」が好きなんです。
最近は雑誌なんかでも「純喫茶特集」なるものが組まれ、嬉しいと同時に「ああ・・・」という複雑な溜息が洩れたりもします。
良さげな喫茶店とは、住宅地にひっそりと店を構え、人口密度が低く、入店の扉を開けるのにドキドキし、客でありながら入店するに躊躇を覚えつつも、「ふらりと」入る。このルーティンそのものを、私は愛しているのです。
雑誌に載ってしまえば、住宅地だろうが人は押し寄せ、煙草が吸いたくても可愛いお洋服を着た隣席の女の子たちに遠慮をし、「雑誌で一度見たから」と年季の入った扉を易々と開けてしまう。
お気に入りの店が載ってしまった日には、悲鳴に近い嗚咽を吐き出してしまいます。うえええええぇ。って感じです。
カフェのようにガラス張りになっている喫茶店は少なく、「外からは見えない」というところも好き。
扉を開ければそこは別世界。「入らないと分からない」世界が広がっています。
ある日、外出先で仕事を終えて直帰。時刻は17時。いつもよりだいぶん早い帰宅時間です。駅から自宅までぷらぷら歩いていると、小さい喫茶店が目に入りました。
普段なら駅に着くのが早くても19時だから、いつもはシャッターが閉まっています。「こんなところに喫茶店あったのか」と、存在すら知らなかったのです。
仕事を早く終えた解放感、漂うコーヒーの香りに誘われて、いざ入店。そこに広がっていたのはまさに「別世界」。外観からは想像もつかないほどの奥行があり、木目調で薄暗い店内は昭和を連想させました。
私の外見は「ひとりで、ふらりと喫茶店に入る」には似つかわしくないらしく、純喫茶の店主にはいつも驚いた顔をされます。これが結構悲しいもの。最近は悲しみより行きたい熱意が勝つので気にしないのですが、「若い女がひとりで入る」ことは、喫茶店で働く人たちにとって、そんなに珍しいことなのでしょうか。
この時入った喫茶店のママは、開口一番「あら、若い人が来てくれて嬉しいわ」と言ってくれたから、悲しみを感じずに笑えたことを覚えています。
お店は本来17時までらしいのだけど、昔の常連さんが来たから今日は特別に開けているそう。カウンターの真ん中にどっしり座る「昔の常連さん」らしきオジサマも、朗らかに笑いながら私を迎え入れてくれました。
コーヒーとパウンドケーキを頼んで、煙草を吸ったあとには、常連さんの話し相手になりました。こういう出会いも喫茶店ならでは。人の話が「めんどくさい」時にはスタバやドトールに行けばいい。仕事で疲れた体に、「私を知らない人」との会話が、心地よく染みこんでいく。
毎日顔を合わせる仕事の同僚、私をよく知る友人、家族、恋人・・・
「あなたって、こうだよね」と知ってもらっていることって、時に安心であり、時に盲目であり、時に不自由。
初めて会う人と他愛のない話をしている時、私は何者でもないことを思い出せる。OLじゃないし、高校の友達じゃないし、娘じゃないし、彼女じゃない。全てを脱ぎ捨て、身軽なテンションで生きていく。
私にとって喫茶店は、そういう場所です。
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