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アメリカ旅行記 バーで軽躁?になる 強迫、双極症 闘病記【14】

ガソリンスタンドでのバイト

前回述べたように好きな女性を追ってガソリンスタンドで働き始めました。女性とはほとんど毎日一緒に勤務しました。給油をしたり、一緒に洗車したりしました。バイトは大変なこともありましたが、好きな人と一緒なので楽しい時間でした。

その女性とはよくふざけあっていました。度が過ぎて「強い男」に怒られることもありました。仲はとてもよかったのですがどうしても付き合うことは出来ませんでした。
その女性は一緒に働いている正社員の男性が好きなのでした。私の恋は叶わなかったのですが、ほぼ毎日会ってしゃべれるのでそれなりに満足していたのだと思います。

強迫症、双極症

病気もその頃は割と落ち着いていました。強迫症は相変わらずでしたが、落ち込んで寝込むというようなことはほとんどなかったと思います。
こういった落ち着いたときに自分の病気と向き合い、何らかの対策をしておけば良かったのだと思います。

カウンセリングも受けていました。カウンセラーは私が「強い男」の中でやっていけるか非常に心配していたそうです。私の「暴露療法」がうまくいくことを願っていたと後日言われました。

授業にもちゃんと出ていました。文学部の友達とも遊びました。
私の人生の中では比較的落ち着いた時期だったと思います。

バーで

恋愛はうまくいかないなあと思っていた私は夜の街に通っていました。ある日バーで旅行の話になりました。私はあまり旅行をしたことがありませんでした。他の人から若いのだから旅行に行った方がいいよと言われました。話を聞いている内に突然アメリカに行こうと思い立ちました。アメリカに従姉妹がいることを思い出したのです。

渡米準備

それから従姉妹に国際電話をして段取りをしました。アメリカ行きについてはカウンセラーは止めませんでした。むしろ気をつけて行ってらっしゃいという感じでした。治療が全然進まないので、他文化に触れることにより何かが変わることを期待したのかもしれません。

私は旅行に向けてテンションが上がっていきました。うつ状態で落ち込むことも少なくなってきました。何でも準備をすることが苦手な私ですが、その時はうまく出来たはずでした。

渡米

滞在は10日の予定で出発しました。初めての海外なので緊張と興奮がない交ぜになっていました。アメリカ内での移動の際に飛行機が激しく揺れて、生きた心地がしなかったのを今でも覚えています。飛行機から降りたときにものすごい開放感がありました。誰も知っている人がいないので、何をしてもいいのだという解き放たれた感覚がありました。

空港には従姉妹と旦那さんが迎えに来てくれました。そしてレストランに連れて行ってくれました。その時にチップのマナーを教わりました。そして泊まるところを聞かれたので、ユースホステルに泊まると言いました。従姉妹夫婦は街中にあるユースホステルは危ないからと言って普通のホテルに連れて行ってくれました。

しかしそのホテルではJCBカードが使えませんでした。調べが甘かったのです。ホテル代は従姉妹が払ってくれました。これではいけないと思ったので、次の日から自力でユースホステルに泊まることにしました。準備不足でした。

次の日からは一人で観光に向かうことにしました。私は英語が出来ないのと、生まれつきの方向音痴で大変苦労しました。人に道を聞いても、しゃべるのが早すぎて中々聞き取れません。やっとの思いで目的の公園に着きました。私は開放感を満喫しました。誰も知っている人はいないのです。周りの人に気をつかうこともいらないし、他人の目を気にすることもないのです。自由だと思いました。

私は日本にいるときは人の目を気にしすぎていました。人からどう思われるかを気にしすぎていたのです。
自分で勝手に自己イメージを作り、それにとらわれていたのです。

ポリスに呼び止められる

開放感に浸って上気した私に警察官が近づいて来ました。ポリスです。銃をぶら下げていました。なんだろうと思っていると、ちょっと来いと言われました。言っていることが分からないままついていきました。そしていろいろ聞いて来ました。私はしゃべるのが早くて何を言っているのか聞き取れませんでした。

すると近くにいたおばさんが片言の日本語で通訳してくれました。助かりました。その日の朝に韓国人が密入国したらしく、その人を探しているということでした。私は韓国人と間違えられたのです。パスポートを見せると納得してもらえたようで解放してくれました。
片言の日本語のおばさんに感謝を伝えました。危ないところでした。しかしこれは危ない旅の序章に過ぎなかったのです。

中心街へ

ユースホステルは街の中心部にあったので私は街をぶらぶらすることにしました。普段は人混みが苦手なのですが、日本ではないと思うとそんなに苦になりませんでした。
そして私の方向音痴が災いして行ったらいけないと言われている通りに出てしましました。そのことを後で従姉妹に言うと、殺されてもおかしくなかったと言われました。その時は開放感に浸っていたので身の危険など感じていなかったのです。

寿司屋

その後、街を歩いていると声をかけられました。日本人でした。そんなに日にちが経っていなかったのですが懐かしく感じました。私は普通に会話できることに感動しました。
その人は寿司屋の店員で「中に入って食べていかないか?」と誘われました。私はお金をあまり持っていないことを告げるとおごってくれました。

そしてこの後どうするかと聞かれたのでユースホステルに戻るだけだと答えました。そしたら飲みに行こうと誘われました。見るからに「強い男」だったので断るわけにはいきません。そして一緒に近くのバーに行きました。

バーで

私はお酒を飲んでどんどんテンションが上がっていきました。その人はバーの常連だったらしく周りの人としゃべっていました。そして私をみんなに紹介していきました。そこで私はギャグをやりました。高校のハンドボールの試合以来です。

そうしたらめちゃくちゃうけたのです。そしてクレイジーと呼ばれることになりました。そうしたらテーブルに座っている夫婦に呼ばれてそこでもギャグをしました。またうけてお酒をもらいました。

それを見ていた寿司屋の店員さんはこの日本人は薬物をやっていると周りに紹介していました。そうすると周囲の人は納得していました。そのぐらいテンションが高かったのです。

クラブ

それからクラブに行きました。私は日本ではクラブに行ったことがありませんでした。にもかかわらずそこでもはしゃいでしましました。私は帽子をかぶっていたのですが、それを取られてみんなで投げ合って私をからかいました。私が一生懸命に取り返そうとしているとまたそれがうけて盛り上がっていました。

日本人はクレイジーだとみんなが言っていました。寿司屋の店員さんはそこでも薬物中毒なのだと説明していました。その次の日もまた寿司屋に行きました。おごってもらえるので味を占めたのです。そうして夜になると遊んでいました。

軽躁なのか気質なのか

今から考えるとアメリカに着いてから軽躁状態だったのでしょうか。開放感は軽躁によるものだったのでしょうか。
バーやクラブでの行動は明らかにいつもの私ではありませんでした。うつ病で治療を受けている人の行動だとは思えません。前述べたように高校時代にも明らかにハイテンションになることはありましたが、それ以来です。

ところがその「元気」は3日と続きませんでした。寿司屋から帰った翌日、ユースホステルで落ち込んで寝込むことになったのです。

果たしてアメリカでの一連の出来事は軽躁のエピソードなのでしょうか。軽躁の基準である4日という期間は続いていません。またアメリカという異国の開放感という環境の要因もありました。しかしバーやクラブでのはしゃぎぶりは、うつ病出苦しむ人の行動としては考えられないと思います。

果たしてこの時の行動はどう考えたらいいでしょうか。私の生まれつきのお祭り男の気質と考えられるでしょうか?それとも双極症の軽躁と考えられるでしょうか?

帰国してカウンセラーに渡米の顛末を話しました。よく生きて帰ってきたと言われました。
日本に戻ってからはそんなにテンションが上がることもなく、人の目を気にし過ぎている自分に戻りました。

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