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世界があるのではなく、自分が世界を作っている。 脳科学編

哲学(竹田青嗣先生やニーチェ)や歴史学(ユヴァル・ノア・ハラリ)、行動経済学・心理学(ダニエル・カーネマン)同様、脳科学的な観点からも「世界は自分が作っている」らしい。どの学問も突き詰めていけば、同じような仮説になるというのも、とっても不思議です。

以下「進化しすぎた脳:池谷裕二著」より。

◼️世界は脳の中で作られる

人間の目は100万画素しかなくて大昔のデジカメと同じぐらいの粒度しかない。しかも30分の1秒単位の細切れの画像しか知覚できないから、ノイズの多いかつ細切れの画像しか脳に届かない。

脳はこの限られたインプット情報を意味のあるものにするため、認識装置(後述のワーキングメモリ&可塑性)が一貫した画像として脳が判断する(汎化という)。その蓄積が新たな記憶となって更新され、数年間は海馬で保存され、そのあとは大脳皮質で保存されているらしい。

池谷氏曰く
「まず世界がそこにあって、それを見るために目を発達させた、というふうに世の中の人は思っているけど、本当は全く逆で、生物に目という臓器ができて、そして、進化の過程で人間のこの目が出来上がって、そして宇宙空間にビュンビュンと飛んでいる光子(フォトン)をその目で受け取り、その情報を解析して認識できて、そして解釈できるようになって初めて世界が生まれたのではないか(進化しすぎた脳127頁より)」

ただ「こういうふうに見えているのは人間が勝手にそう見えているだけ」と池谷氏が言っているのですが、「人間」というよりも「自分自身」がそう見えているだけで「他の人」がどう見えているかは本来的には他の動物と同じで自分は知りようもない。ただ人間同士は、お互いのコミュニケーションによって相互了解した結果の「そうに違いない」という確信があるだけです。

哲学的には、自分の関心や欲望に応じて目から入った情報を選別し、認識していくので「自分が見たいものしか見えていない→世界は自分(=脳)の欲望と関心に相関して分節されている」という感じになります。

したがって整理すると、ノイズの多い細切れの画像は、全て取り込まれるのではなく脳の欲望と関心に応じてピックアップされて汎化(認識)され、自分の世界像に組み込まれるという感じです。

◼️なぜ人間は色が認識できるのか

これも面白い。色、つまり可視光線は電磁波の一つ。網膜にある電磁波を感知する細胞が3種類あって、それは赤色の電磁波(555ナノメートル)、緑色の電磁波(530ナノメートル)、青色の電磁波(426ナノメートル)。3つの電磁波の組み合わせた結果、たまたま人間は色を認識できるようになったのです。

というか、3つの電磁波が認識できたこともホモ・サピエンスが生き残ってこられた適応化の一つの要因ということ。

例えば紫外線(1〜400ナノメートル)を認識できる細胞が網膜にあったらまた別の世界観になっているはずですし、コウモリには人間に聞こえない音「超音波」による世界観。マダニは嗅覚、触覚、温度感覚だけの世界観。みなインプットツールによっても世界感は全て異なる(が私たちにはこれを原理的に検証できないという点もポイント)。

この辺りはユクスキュルの「生物からみた世界」に詳しい(既に購入済)ので、これから読み進めようと思っています(以下、読後の書評)。

◼️意識とは「表現が選択できること」⇄「ワーキングメモリ」&「可塑性」
カーネマン的には意識的思考、つまりシステム2の働きが意識。主に前頭葉にあるのではといわれています。システム1は反射的に物事を判断していきますが、システム2は、意識的に表現を選択していきます。

「システム1(反射)は自動思考、システム2(意識)は手動思考」

手動とは意識自身がその都度判断していく=選択していくこと。これが意識の特徴。では何を判断材料にしているのか、それは短期的には短い時間情報をプールしておくワーキングメモリと、これまで内面化してきた可塑性(虚構とか、因果律)。

でもこれはシステム1でも同じなんではないかと思います。システム1も「ワーキングメモリ」は不要ですが「可塑性3=過去の記憶」に基づき反射的に判断しているのではと思いますが、その辺りは不明です。

こうやってみていくと、

哲学でいう「価値」は、脳科学的には「可塑性」

のことなんですね。

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