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ナチスは「良いこと」もしたという主張は、歴史的事実の検証によって否定できない

社会民主主義者、ナチス、共産主義者が一緒に楽しそうに歩いている様子を描いたオーストリアのビラ(1930年代)。「そして彼らはお互いに理解し合えている(仲間である)ことに気が付いた」

※追記

本記事を書き上げた後実際に本書を読んでみたのだが、前政権から引き継いだ政策だから(引き継ぐという判断をしたにもかかわらず)良いことをしていないだの、ろくに良いとされる政策が実際には悪かったことを証明ができておらず、挙げ句の果てに難癖がつけられなくなると「2万人の女性を救ったのは確かに良いことだが、家父長制的干渉主義によるかもしれないから悪いことと言えないか?(明らかに良いことだけど、悪いことだと言いたい、でも上手く言えないのでとりあえず保留にします)」などと主張してすらいる。はっきり言って、最低限の厳密性や論理性が要求される分野の学部生であれば、このように破綻した、稚拙で杜撰な主張をすることに羞恥心と自己嫌悪を覚えることだろう。学問や知性といったものを貶めたいのであれば別だが。
本記事において以後記述する際に想定した水準にすら至らないお粗末な内容の本なので、良識ある読者にとっては、史学屋が身の程を弁えず規範的議論や論理的誤謬の正当化をするとどのような醜態を晒すのかや、炎上してしまう程度の発言を熱心に擁護しようとして素人向けの本を書いてみても同程度の品質のものしか出力されないといった、反面教師としての意味であれば少しは有用かもしれない。そうすることで、なぜ一般的に人文系の学者、特に史学と文学の人間は思考がナイーブであると見なされがちなのかが垣間見れるだろう。
学生の読者は、たとえ自分野に(史学のように)論理的な素養が全く要求されないのだとしても、どのように論証するべきか程度の教養は学んでおくことを勧める。せっかく大学に入ったのならば、入学時よりも知性を劣化させて卒業するようなことがないように努めるべきであろう。

【なぜ、ナチスは「良いこと」もしたという主張は、歴史的事実の検証によって否定することはできないのか?】

 自身が炎上した事件から「ナチスは良いこともした」への反論を、一つ一つ検証を試みるという内容の本がどうも巷では話題なようだが、これは、目標設定の時点で破綻した、どこか無為に終わりそうな試みであるという印象を覚えるのではないだろうか?

⚫︎論理的誤謬

 ここではまず一番致命的だと思われる論理的な問題に限定する。そうすることで、実際にこの著作を読んでいない人であっても明確な間違いについて語ることができる。なので、この点に関する批判意見に対して「本の内容を読めば正しいことがわかる」で黙らせようとするのは、一部の主体的に何かを考える能力が欠如したmoronならともかく、大半の理知的な人には悪印象を与えることだろう。外部のアカデミシャンからも揶揄する声が出るのはこのためである。
 また、なぜ私がこんな記事をわざわざ書くのかというと、文脈を無視した引用RTをしてきて非常に苛立ったのもあるが、著作の内容の幾つかは読者の画像付きツイートで確認しており、その箇所についてもナチズムの否定・反省としては致命的なものがあるためであり、これについては後ほど触れることにする。

 「ナチスは良いこともした」という主張を否定するためには、「ナチスは何も良いことをしなかった」ことを示す必要があるのだが、これは事実上証明することが不可能である。というのも、全てが間違っていることを示そうとすると典型的な帰納的誤謬に陥る一方で、「ナチスは良いこともした」という主張自体は何らエビデンスや実例を提示する必要がないからである(「エビデンスの欠如はそうではないエビデンスがあることにはならない」という、かの有名な格言を思い出して欲しい)。
 例えば、カラスが黒い証拠を幾万と並べても白いカラスがいない証明にはならなず、白いカラスが一羽でも観測されれば「カラスとは黒い鳥である」という命題は否定される。一方で、「白いカラスも存在する」と主張することは、白いカラスが発見されるまでの間周囲の人々から狂人扱いされる苦痛が伴うかもしれないが、少なくとも間違った主張をしているとはいえない。
 よって、「ナチスは良いこともした」と主張することは、どれだけ論者が正しいエビデンスを示せないとしても、常に正しい主張である可能性があり、また価値判断や感情表明に関わる領域なのだから、主観的事実を考慮するならば九分九厘正しい主張となるだろう。
 一方で、「ナチスは良いこともした」を否定するとなると、たった一つの反例で覆されてしまうため、どれだけエビデンスを提示しようとも、常にその命題が間違っている可能性を持ち続ける。そして前述のとおり、「ナチスは良いこともした」という主張を否定するには、明示されてすらいないものも含むその全ての根拠や事例を否定しなければ正しいことにはならないのだが、我々は明示されていない根拠を事前に全て予知し否定することはできない(もしもできるのならば、このような至極くだらない主題ではなく、もう少し有価値な主題について語るべきではないだろうか?)ため、「ナチスは良いこともした」の否定は、原理的に正しい主張になることはない。少なくとも、具体的な歴史的事実を検証するだけの史学というディシプリンの営為のみによって反論するのは事実上不可能であると言っても差し支えないだろう。

 私のとても狭い個人的知見によれば、このような懐疑主義的な立場は特に科学哲学において一般的なものであり、D.Stoveのようにある種の帰納的推論の正当性を擁護する主張も存在するものの、こうした立場は必ずしも広く支持されているわけではない。

 もしもこの論理的問題の解決を成し得たのであれば、ナチズムを擁護するくだらない連中の言説を個別に「ファクトチェック」する(それ自体は何も反論にならないのだが、歴史学的には何かしらの価値があるのだろう)よりも、こちらの栄誉をありがたく頂戴し、学術史にその名を刻む方が遥かに実りがあることだろう。また、もしも「ナチスに良いところは何もない」ことを示せてないのであれば、かつて炎上したことは全く正当な理由であったことをわざわざ著作を出してまで認めたことになるのだから、当然そのようなことをなさってなどいないはずである。

 なので、方々で行っている「著作を読んでから反論してください」は単なる詭弁となる。「ナチスは良いこともした」例として馬鹿なナチ擁護派に挙げられたものを全て反論しても、残念なことにその主張の誤りを証明できない(そうしたい気持ちはとてもよく理解できるが)。

⚫︎田野氏擁護派の能川先生による、なぜ田野氏が反論に失敗したのかのありがたい説明


 面白いのは田野氏を擁護しようとする人間であっても、その批判の内容を理解してしまうと逆に批判の正しさを認める主張をせざるを得なくなるようだ。

「ナチスの政策に良いものなんてない」という主張を字義通りに、厳密に全称否定命題として口にしているひとなんているんだろうか?

 もしも厳密な全称否定命題ではないのであれば「ナチスは良いこともした」論者や田野氏の批判者と全く同じ主張をしていることになる。つまり、著者らを含めた全ての人がナチスは「良いこと」もしたと認めているか、少なくとも反論することはできない(私を含む大半の批判者の立場はこちらだろう)と考えていることになる。

そもそも「ナチスが行ったこと」として記述可能な事柄など無数にありそのすべてを把握することなどナチス研究者にだって不可能だろう

なので「ナチスは良いこともした」の否定は事実上不可能であり、田野氏は結局のところ炎上への反論を何もできていない。つまり、能川先生はその簡潔にまとめられたツイートひとつで暗に批判は正当であると認めていらっしゃるのであり、この明晰さには流石に脱帽せざるを得ないだろう。

 逆にいえば、【ナチスは「良いこと」もした】への反論という、できもしないことをできたと言い張ってる(ように見える)から批判が起きたのであり、例えば本のタイトルが「検証 ナチス擁護論は正しいのか?」ならば全く批判は起きていなかっただろうと思う(少なくとも自分は疑問に思ったり、批判しようとすらせずに受け入れて流していたはずだ)。

⚫︎なぜ田野氏への批判が起きたのか?

 田野氏への批判が巻き起こるのは、炎上した「ナチスの政策に良いものはない」という全称否定命題への批判を、著作内の史学的検証の妥当性への批判とすり替えた(なので彼は誤謬への批判に本を読めと反論する)上で、大半の論者が共有している「ナチスは悪を為した」という自明の事実を、あたかも自分の批判者は否定ないし歴史修正することを意図していると捏造するからであり、そうして詭弁を重ねていくと主張は支離滅裂となり更なる批判を招く。

 この程度の誤謬やレトリックに簡単に騙されるのが史学系や文学系学部を出ている人に多いのは、単に教育を受けたり独学する機会や習慣に欠いていたというのもあるのだろう。
 読む本の中で1番知的と言えるものが歴史書や文学書という類いの人種にとって、何かを思考したり、分析するという能力を獲得するのはとても難しい。

 つまり、「ナチスは良いこともした」と言いたがる人がいるのではなく「何も良いことをしなかった」を証明したと言い張る態度が批判・嘲笑に晒されているのであり、田野氏がレッテルを貼っている客観的だの感情的だの以前に最低限の知的誠実さがあるかどうかの問題でしかない。それを批判者はナチス擁護論者かのように印象操作する詭弁で逃げているのだからお話にならない。
 例えば、「アメリカは原爆を落として民間人を虐殺した」はどうだろうか?確かに倫理的な悪ではあるが、これを理由に米国の大戦時での立場が悪であったとはならない。「ナチスが悪であった」や「"西側の"連合国は正しかった」という事実を支持するのに、「全てが悪かった」や「全てが正しかった」という事実上証明不可能かつ間違っている可能性が高い主張をする必要はどこにもない。ましてやそのために原爆投下を正当化したり、意地になってその全てを否定するのは、ナチを擁護する連中と同程度に愚かであり、害悪だとすら言えるであろう。

 それに、後述するが、氏は個人や集団の価値判断の違いが伴う善悪の区別や基準というとても難しい問題にて、まさにナチ自身がやったような、動機から結果の善悪を恣意的に決定するという誤ちを犯している。 
 もしもこれを根拠として、「ナチの動機は悪なのでナチのやった政策の結果は全て悪い」とした場合、「あいつらはユダヤ人/資本家/反革命なので、その結果がどれだけ良いことに見えても悪である」とする迫害の論理を認めることになるし、またその逆の「私はナチ/マルクス主義の信奉者なので、(主観的には)ナチ/マルクス主義の動機は善であり、如何なる帰結をもたらそうとその結果は良いことである」も成立してしまう。そして、その思考こそ全体主義者が悪を実行した原因のひとつであるとだけ述べておく。

 一連の論理的誤謬は反エビデンス主義や反客観主義の基本的な論拠のひとつであり、実際にはエビデンスの提示によって否定可能な主張に対しても適用するという典型的なモット&ベイリーの誤謬で溢れている。
 科学者たちが、政治的党派性に燃える勉強熱心な批判者たちによるこの手のモット&ベイリーの誤謬の相手──世間では科学コミュニケーションなどと呼ばれていたりする営為──をするのに悩まされている中、奇しくも適切に利用した主張が、恐らくは彼らほど知的ではないであろう者たちによってなされ、それを高等教育を受けたはずの人間が必死に否定しようとして論理的誤謬に陥いるという一連の流れは、卑俗なfarceの如き様相を呈している──何せ、この場において最も正確な発言をしているのが、「ナチスは良いこともした」とのたまうような連中なのかもしれないのだから。

【革命的正義と「善と悪の戦い」という名のフィクション】

⚫︎なぜ彼らは無理な反論をしたがるのか?

 さて、瑣末な誤謬などよりもよっぽど興味が惹かれるであろう問題は、なぜこのような反証不可能な主張を、ある種の必死さを伴って否定しようとする人間が現れてくるのかという、その動機の方であろう。

 そもそも、ある思想・政権・体制に(部分的に)良いところがあろうが無かろうが、それが為す重大な悪や制度的リスクを否定する根拠とはならないので、たとえ反証不可能な主張をされようと、他に正当な批判が可能な点が幾らでもあるのだから、至極どうでもいい問題である、というのが普通の認識だろう。では、一部の人間にとって、何がこのような無謀な振る舞いを駆り立てているのだろうか?

 前世紀において、マルクス主義を代表とする左翼主義者の知的・政治的努力の数少ない成功例の1つが、自分たちがナチズムとは真逆の存在であるという印象を大衆に根付かせることができた、というものである。これには、ナチズムの悪はナチズム自体、より広く右翼・ナショナリズム・民族主義に固有のものであり、非左翼的な現象であったという党派的な自己弁護を意図した主張を伴うことが多かった。

 21世紀に生きる我々にとって、これが如何に的外れな主張でしかなかったのか、もはや誰も否定できないだろう。左翼の定義とは極めて党派的なものであり、その人が支持する思想によって多様に変化する。
 例えば、新自由主義やリバタリアニズムであれば、自己所有権の制限や統制経済を左翼的であると考えるだろう。なので、彼らの中には福祉国家をも全体主義的・社会主義的であるとみなし非難する者もいる。また、コミュニタリアンや保守主義であれば、結社の自由の制限を左翼の定義とみなすだろう。それ故に、保守主義者たちは社会自由主義(いわゆる「リベラル」)がジョン・ロックのいうlicense(大事な概念であるのだが、訳者や版によって「放恣」や「放縦」など様々であり、決まった邦訳があるわけではないようだ)を拡大しようとする動きの中に全体主義者の犯した過ちの一端を見出するのだが、こうした見方は米最高裁判決にも影響を与えている。

自由とlicenseを巡る問題についてはこちらが詳しい。

 また、現在の研究では、国民国家とナショナリズムの形成には多様性があり、例えばドイツでは統一的なドイツ人というエスニシティがナショナリズムの根源にあるが、英国では偶然同じ王の支配地域にいた者同士が王権を制限するために協力関係を結んだところから始まる。
 人種(民族)主義においても、例えばレース(人種)コンシャスネスのような、一種の人種主義が社会正義として主に左翼によって受け入れられている一方で、右翼はブラインドネス規範を支持しているなど、人種主義は左右や「善悪」と密接に関連付けられるわけではない。
 まして、マルクス主義者が集団として、体制として何をやらかしたのかは、ナチスの悪と同様に今更語るまでもないだろう。

⚫︎マルクス主義の従属的思想としてのナチズム

 イデオロギーに関してはどうだろうか?ナチズムとマルクス主義の類似性を指摘する研究は数多く存在し、特に世間の大半の人にとって馴染み深いのはハイエクの『隷属への道』とポパー『開かれた社会とその敵』だと思うのだが、ここでは日本ではあまり知られておらず、新鮮味を覚えるであろうイタリアの哲学者Augusto Del Noceの明晰な分析を幾つか例としてあげておきたい。

 ナチズムとは、エルンスト・ノルテ曰く「革命に対抗する革命」である。この表現は、共産主義という敵対者に思想が完全に従属し、それに対抗するための革命を意味するものだと理解できる。言わば、階級を人種に置換した一種の自然主義的デカール(転写画)である。
 ナチズムは、ド・メーストルが当時の反革命主義者たちに対して、絶対に避けなければならない例として指摘した「逆向きの革命」を体現していると言わざるを得ないだろう。
 一方でファシズムは、「逆向きの革命」の代わりとしてマルクス・レーニン主義を超える20世紀の真の革命として自らを提示しようとした──そうすることが、ロシアよりも文化的・文明的に成熟した西洋世界に適していると考えたからである。

 ナチズムに関しては、ファシズムとの関係── ナチズムはファシズムの極端な形態であると言われているが、これはかなり曖昧な分析である──よりも、その正反対にある共産主義との関係を強調すべきだと考えている。つまり、ナチズムがその意図しない結果に至る段階で、共産主義の特徴を真逆に、しかし完全な対称性を持って再現しているという事実に注目すべきだということだ。
…反革命が罹りやすい致命的な病気であるとド・メーストルが考えていたこと、つまりは「逆向きの革命」をナチズムが完璧に実現しているように見えることはすでに述べた。なので「対称性」について簡単に触れておこう。
 ナチズムでは、あたかも真理の基準が共産主義の各カテゴリーをその正反対のものに置換するかのようにすべての論理が展開していくが、それでもなお、マルクス主義の全く同じ唯物論的観点の中にある。したがって階級は人種に、ブルジョワはユダヤ人へと置換される。それ故に、歴史はアーリア人とユダヤ人の死闘として解釈され、悪が敗北するか勝利するかの決定的な段階に至っているのだと主張する。

『わが闘争』の反ユダヤ主義的な文章が、普遍主義的かつ宣教的な色彩を帯びているのは決して偶然などではなく、プロレタリア革命の普遍的な使命と全く同じ考え方なのである。
 未来を強調するマルクス主義に対抗して、ナチズムは過去を強調している。世俗化されたマルクス主義の終末論が完璧な社会を終末の時に置くのに対して、ナチスの神話はそれを歴史という過去の前に置く。
 ナチスの革命は、革命に対する革命という形ではあったが、純粋な形でこれまで実現されたことのなかったアーリア人の姿を満たす新しい人間の実現を目指していた。これこそが、ナチズムが自らを【革命】と呼びたがった理由である。

 ナチスのボルシェビズムへの憎悪は、一見すると反動的に思えるかもしれないが、実際は旧世界への革命的憎悪を伴ったものであった。ナチズムにとって自然と反自然のアンチテーゼは不可欠であり、その根拠は、人間は自然の法則に逆らおうとする唯一の生物であるということである。したがって、マルクス主義の歴史主義に対して、ナチズムは最も急進的な自然主義をもって対立する。
 そしてこれは、階級と人種の対立の意味をすべて説明できる、最も適切な表現かもしれない。

 ファシズムは、共産主義への従属的対立構造において、革命のレーニン主義段階に相当する。代わりに、ナチズムは、この従属的対立構造におけるスターリニズムと相関する現象である。
 スターリンによって、マルクス主義は西側に対する東側の反西側への拡大という歴史の動きを逆転させる道具となった。そして、その脅威に晒された最初の国がドイツである。

 ナチズムは、マルクス主義につながるあらゆるものからドイツの伝統を解放しようとする試みとして生まれた。ここでいうドイツの伝統とは、ドイツの政治的優位を正当化することにつながったものを意味する。
 マルクス主義は、ヘーゲルがギリシャ的な思考で考えた哲学をヘブライ的精神で再考したものであるため、ナチズムの反共主義は反ユダヤ主義と密接な関係にあり、(ヘブライ的精神と密接に関わる)聖書的な思想の全面否定はキリスト教との断絶につながる。
 それ故、人種差別主義的な新異教主義、神話的認識への明確な回帰、主人となる人種と隷属する人種の対立などが中核となり、マルクス主義への、また全体主義への絶対的な完全従属構造が生まれる。
…つまり、事実として、ナチズムは哲学史におけるマルクス主義の位置づけについて、非常に重要な教えを伝えているのである。世俗的なドイツ思想において、マルクス主義の純粋な否定は…その伝統全体の否定をも意味する。

 マルクス主義者や「リベラル」と呼ばれる人々が何を言おうとも──彼らは自分たちの恥ずかしい親戚を認めたがらない──ファシズムとナチズムは(互いに全く異なるものであり、そのまま同化できるものではないが)近代の否定ではなく、近代の正当な子息である。

 彼らもまた、神の非存在、あるいは少なくとも神の無用性を宣言したイデオロギーのひとつであり、世俗化の一段階なのである......彼らは、「進歩主義者たち」が私たちに信じ込ませようとしているような、反近代文化がもたらした誤ちではなく、同じ近代文化の中で生まれた誤ちなのだ。

⚫︎ナチズムは「悪との戦い」を自認する|ナチズムの思想的同胞としてのマルクス主義とフェミニズム

 ナチズムとは、一般的に言われているようなニーチェ的な善悪の超越ではなく(だからこそニーチェはナチを嫌悪していたのだろう)、むしろ自らを善とみなし悪との対決を志向することで道徳による動員を行う思想であることに、その恐ろしさとおぞましさがある。いわば、極めて主観的な(客観的には悪と言わざるを得ない)善を為すことで巨悪を実現した例の一つなのである。そして、悪との戦いによる悪の行使は、普遍的に見られる問題でもある。

 アーリア人vsユダヤ人の対立という物語は、元ネタであるプロレタリアvsブルジョワというマルクス主義の物語や、ナチズムと同様にマルクス主義を元ネタにした女性・ジェンダーvs家父長制というフェミニズムの物語と同じ構造を持つ。
 不当に虐げられ従属や搾取を強いられたとされる属性の被害者意識を煽ることで、社会を支配しているとされる属性を、罰するべき加害者として攻撃する集団的な怒りのエネルギーを資源として動員する。これほどまでにこの物語が人気を博しているのを見ると、被害者意識と悪への道徳的感情の爆発ほど容易く政治的に利用しやすいものは存在しないのかもしれない。
 こうした道徳的感情の爆発と被害者意識の増幅による攻撃的な振る舞いという点に着目すると、「ナチスにも良いところもある」という主張を前にして、どうしてもこれを批判しようと「ナチスには良いところは全くなかった」という主張をしてしまう人間は、これらの論理的問題を考察したり、別の充分成立し得る批判を考える人間よりも、ナチズムの信奉者の心理状態のそれに近い。

 忘れてはならないのが、ユダヤ人にしろ、ブルジョワや「マジョリティ男性」にしろ、その大半は悪をなすどころか政治的にも社会的にもなんら影響力も権力も持たない普通の人間に過ぎず、これらの属性への不正や加害行為は、どれだけイデオロギーや道徳的感情によって「善」であると認識していようと、ナチスによるユダヤ人への迫害が悪であるように、悪である。
 「多様性」や「女性」などの、集合に対して適用すべき概念を個人に適用するという初歩的な範疇誤謬を行う人間が、受けた教育の程度に依らず一定数現れるものだが、ナチズムやマルクス主義・フェミニズムなどに共通する論法の場合は、全ての階級や属性に見出すことができる(より正確には捏造することができる)悪を、特定の個人や存在すらしない架空の藁人形を例として、一部の攻撃したい属性や階級に一般化させるという逆の誤謬を行っている。

実際の敵は誰なのかを視覚化した例。ブルジョワ階級への攻撃は決して搾取やレントシーキング・リスク転嫁といった経済的悪の解決とはならない。

 ユダヤ人への迫害が不正でああったことは言うまでもない。マルクス主義者たちがブルジョワ的・反革命的などとみなしたものへの攻撃がもたらした悲劇と悪への反省と理解は、少しずつではあるがなされつつある。
 将来「マジョリティ男性」なる属性への不当な攻撃と不正、迫害が反省される頃には、愚か者たちは新たなスケープゴートを見つけて彼らをいたぶることに励んでいるのだろうか?それとも、希みは薄いが、本当にナチズムや全体主義の悲劇から教訓を学び、人間本性に由来するであろうこの負の連鎖から、人類は克服することができているだろうか?

⚫︎敵対党派の悪に対する非難は、自身が為す悪の隠匿に利用される

 ナチズムやマルクス主義の負の歴史が示すように、悪とみなした対象への攻撃は、その行為に伴う悪や不正・誤ちを覆い隠すために利用される。20世紀においてなされたような、マルクス主義を含む全体主義全体ではなくナチズムのみを対象とした過剰な批判と悲劇的な殺戮の宣伝は、結果的にマルクス主義者や我々自由主義国家のもたらした悪や虐殺を隠匿する役割を果たしてきた。

ハンガリー蜂起の鎮圧とアルジェリアでの共産主義者の残虐行為疑惑を比較したアルジェリア戦争(1956年)のポスター

 アジアの共産圏で起きた飢餓と虐殺、東欧における弾圧、アフリカや中南米の社会主義政権がもたらした飢えと社会崩壊など、多くの犠牲者が党派性と「善意」によって見捨てられ、否定されてきた歴史を、21世紀においても繰り返すべきではないだろう。

⚫︎結果の善悪は動機の善悪によって判断することはできない

 悪は善を意図した行動だろうと、悪であると自覚していない行動だろうと悪である。同様に、善は(客観的)悪を意図したり、善を意図してない行動の結果だろうと善である。動機を根拠とする善悪論は、自身や自党派が悪を行使し、その悪を擁護する文脈で利用されてきた。

 共産主義の理想が、あるいはナチズムの理想が、主観的にはどれだけ正しく良いものだとしても、その帰結が悪であれば相応の非難や罰を受ける必要がある。もしもこれが擁護されるのであれば、それこそが悪のひとつであると言えるだろう。そして、なされた善が、主観的にはともかく──忘れてはならないのは、ナチスもマルクス主義者も、どちらも自身を善の側であり、倒すべき悪と対峙することで、より良い場所へと到達できるのだと考えていた──客観的には悪に基づいていようと、あるいはそれが善であると認識していなかろうと、その動機によらず善であり、これを否定することは前述の悪を肯定するものであり、やはり悪や不正と見なされ得るだろう。
 なぜならば、帰結の判断でさえ統一的な見解をおこなうのは難しいのだが、動機の善悪ともなるとより一層恣意的なものにならざるを得ないからである。

⚫︎なぜリバタリアンは万人にとっての善に見えるパンデミック対策を悪であるとみなし抵抗したのか?

 例えば、リバタリアンや新自由主義者であれば、分配的正義やラディカルな平等主義を(善による動機に基づく)根拠に自己所有権を制限したり、過度な市場への介入で流動性を損ねたり経済的衰退を招くことを、その動機と帰結の両方に対して反対するだろう。そして、仮に帰結としてどれだけ万人にとって良い結果が得られるのだとしても、その社会において自己所有権や言論の自由を制限ないし廃止されるのだとすれば、やはり彼らはそれを拒絶するだろう。
 というのも、自己所有権の欠如は個人の抑圧と国家や共同体への従属と密接に結びつく。そのため、このような形で一時的に善を動機とする善や正義の実現と呼べそうなものが本当に達成されるのだとしても、その先にあるのは抵抗する手段も保護もなく無防備に晒されたまま一方的に弾圧と迫害を受ける数多の犠牲者たちの姿であるのだから、彼らはどのような合理的な理由があろうとも、頑なに自己所有権の制限を拒むだろう。

 米国にて、マスクの着用やワクチン接種の"義務化"に抵抗するリバタリアンが多くいたのはこのためである。彼らには、「パンデミックの抑制により人命を助ける」という一面的な善を隠れ蓑に、自己所有権や自由意志を抑制し、特定の規範に全ての人々の行動を拘束しようとする全体主義的な悪を為そうとしているように見えていたのである。
 一部のリバタリアンにとって、医学的には価値のある強制的なパンデミック対策は「悪しき動機」「悪しき政策」となり得たという例からも、何が善か悪かをメタ的に判断する難しさが垣間見れるだろう。

 よって帰結における善悪の判断と、動機や信条における善悪の判断は別のものとして分けて考える必要がある。また、その実現の過程で何を認め、何を制限するのか、そうした判断は長期的には何をもたらすのかについて慎重に扱う必要がある。こうすることで、異なる思想・価値判断を持つ他者との建設的な対話が行えるようになる。

⚫︎状態(属性)や動機による善悪の判断は恣意的にならざるを得ないため、それに基づいて行為(帰結や結果)の善悪を判断することは、全体主義への道となる


 その意味で、著作内において「ナチスは良いことをしなかった」と主張する根拠として動機を決定的な判断材料としている──ナチスの良いとされる政策(家族政策における免除と支援)は、ある悪しき動機に基づく(人種主義など)ので、実際には良いところはない──という点で、悪の擁護、あるいはそれ自体が悪であり、全体主義的だとみなされる見解だといえる(『検証 ナチスは「良いこと」もしたは本当か』p7 「はじめに」における家族政策に関する記述を参照)。
 というのも、その人の属性や状態によって善悪や罪か否かを決めようとする態度こそが、まさにナチスやマルクス主義者が、革命的正義の実現のためにおこなった虐殺・弾圧・迫害という諸悪の原因の一つなのであり、こうした全体主義による悲劇と惨劇への反省を行うことが全くできていない証左となるからである。そして、私がわざわざこの記事を書こうと考えた理由でもある。

革命的正義の下では、最終的に何をしたかではなく何者であるかによって裁かれる。
亡命者や富農、ユダヤ人、反社会主義者、人民の敵、資本主義の走狗など、いずれの場合も、罪はその人の行為ではなく存在の状態にある。

Man's Second Disobedience

 なぜイデオロギー分析や実際に行われた悪の要因の研究という建設的な議論ではなく、「ナチスのやったことは全て悪い」という破綻が目に見えている命題の正しさを証明しようという無為な活動に走るのかを考えると、ナチズムとマルクス主義(あるいは同じ構造を持つ、マルクス主義の敗北以後に流行った後継思想であればなんでも)の対称性(前者の後者への従属性)による同族嫌悪や、20世紀の左翼主義者と自由主義者たちによる自身の為した悪への注目を逸らしたり、恣意的に相違点を強調した、それ故に何ら反省やメカニズムの解明に寄与しない自己弁護を目的とする党派的攻撃と非難が慣習化されたからだと考えられる。
 そうした非難の多くは正当なものであろうし、当時はまだナチ信奉者の復活は想定される危機であり、それにより杜撰な主張や党派的自己弁護が黙殺されてきたのかもしれないが、21世紀の現代であれば、あらゆるイデオロギー・党派・体制であっても悪やジェノサイドを起こし得ることを前提とする研究や考察が必須となる。なぜならば、こうした全体主義のもたらす悪や迫害、自由の抑制は、今まさに我々の住む自由主義社会でも刻々と再現されつつあるからである。

【イデオロギーと暴走のメカニズム】

 これらの問題において建設的な議論を行いたいのであれば、イデオロギー分析、集団的暴動や弾圧、迫害、ジェノサイドなどが発生するメカニズムに関する研究や考察が必須となる。
 前述したDel Noceやその引用内にて出てきたエルンスト・ノルテらの研究が有名だが、他にも様々な検証は存在する。その中には今日至るところで見られる問題もあるだろう。確かにナチやマルクス主義ほどのわかりやすい悪──一度に何百万人も死ぬ虐殺や飢餓など──ではないかもしれないが、そこにはかつての全体主義の一端が垣間見れる。それは、私たちは口にしているほどには、ナチズムやマルクス主義といった全体主義者の行った悪の本質を理解していないことに起因する。
 幾つか今日の問題において参考となる引用を紹介するが、本記事の主題から逸脱し過ぎているため、最初に要点のみを書く。

 我々が生きる自由民主主義社会を含め、凡ゆるイデオロギー・体制・社会は弾圧、排斥、ジェノサイドなどの悪を容易に引き起こし得ることを認め、ある思想に内含する害悪の解明にはイデオロギー分析が必須であり、異なる思想間に見出される共通項は同様の問題を引き起こす(例:全体主義の確立には自己所有権の制限に加え結社の自由の制限が重大な役割を果たすなど)可能性があることに注意する必要がある。また、以下のような最近のジェノサイド研究を参照し、虐殺を引き起こす重要なイデオロギー的基盤は、必ずしも特別な政治的目標や憎悪にあるわけではないことを認識する必要がある。

 そのため、自由主義社会が憎悪や悪の肯定を表向きはしない(実際は自覚できていないだけなのだが)ということが、将来においてジェノサイドや迫害その他の悪の実行を行わないという根拠とはなり得ない。悪の否定と悪の実行は全く矛盾しない。
 例えば、言論の自由の抑制はどのように起こるのか?なぜ我々は時に論敵や不快な人物を排斥しようとするのか?安全な空間を求めたり、社会正義を実現しようとしたり、加害者や悪を倒そうとするなど、一見正しくて善に思える行為がどうして悪に変貌するのか?社会正義は本当に善を成し得ているか?我々の考える善は本当に正しいのか?「善と悪の戦い」は本当にそのような構図なのか(同じように悪との戦いに興じたナチスと同じ誤ちに陥ってないか)?といった議論は、全体主義だけでなく、我々自由主義社会でもら今まさに発生しているクリティカルな問題である。

 正しいと思っていた信念が実際には間違っており、解釈によっては害悪の原因となることは、あらゆる思想で見られる現象である。
 また、ナチスやマルクス主義者が自分たちの行いは善であると考えていたように、イデオロギーや思想には、自らの攻撃や加害行為、悪の実行を善であり正義であると誤認させる強い力が隠されている。「善と悪の戦い」という認識は、もしかしたら単なる幻想に過ぎず、その行き着く先は、過去に似た構造を採用したイデオロギーや思想・信仰と同じく地獄であり、自分たちが悪を為しこの阿鼻叫喚の惨劇を生んだという罪だけが重くのし掛かる悲劇として幕を下ろすかもしれない。

【異端と排斥|安全な空間を求めて迫害する】

集団が教義によって定義されるときはいつでも、異端者が現れる恐れが生じる。その教義がどれ程不条理なものであろうと、それがメンバーシップの証となるのであるならば、批判から保護されなければならない。そして、それが不条理なものであればあるほど、より激しい保護が必要となる。

私たちのほとんどは、虚偽の告発を受け入れることができるが、批判が真実である場合には、それを口にした者を急いで黙らせようとする。このようにして、最も暴力的に保護されているのは、最も脆弱な宗教的教義となるのである。

もしあなたがイスラム教徒の主張が「平和の宗教」であるということをあざ笑うなら、あなたは最大の危険を冒すことになるだろう──イスラム教徒は、平和に疑問を抱く者を"黙らせる"ことで、平和への献身を証明してきたのだから。

しかし、今日の大学では、学生たち、そしてその中でも特に政治的に活発な学生たちは、排他的な集団という考えに抵抗する傾向がある。彼らは特に、自分たちが受け継いできた文化に関連した区別──性別や階級、人種、性別とその志向性、宗教とライフスタイルなど──を拒否すべきであると主張している。
すべての古い区別の前に大きな「NO」の標識が置かれ、代わりに「無差別」のエートスが採用された。

しかし、この一見オープンな心の広さは、それに反する者を黙らせるために、その支持者を鼓舞している。
ある種の意見、すなわち、禁じられた区別をする意見は、異端となる。マイケル・ポラニーが「道徳的逆転」と表現したように、古い形式の道徳的非難が、かつての支持者に反して更新されるのである。このように、訪問講演者が「禁断の区別」をする者と診断された場合、古い形態の威嚇の支持者であることを理由に威嚇を受ける可能性が非常に高い。 

…ジェメイン・グリアが直面したのは、自己選択の道徳の新しい予期しない拡張により、私たちは、自分自身のために自身が何であるかを決定することができる人間を否定した場合、罪であることを知らされることであった。
「…トランスジェンダー」問題をめぐる騒動は、アイデンティティ政治の一般的なカテゴリーに入ってくる。それははあなたが何を考えているかではなく、あなたが誰であるかについてである。
なので、間違ったことを考えたり、間違ったことを言ったりすることは、人種差別的な虐待や職場でのセクハラに相当する攻撃的な行為とみなされる。

これを批判することは、彼らが誰であるかを決定するそれらの「実存的な選択」において、彼らの最も深い部分において、他の人々を制約することである:それは侵略の行為であり、単なる"主張"ではない。故にそうした言説は罰せられなければならない。

ここでは、宗教的な共同体における異端の検閲に相当するものを見ることができる。
異端者は、メンバーシップに依存する前提を崩すことで共同体を脅かしている。共同体のために、彼は"黙らせ"られなければならない。

すべてのアイデンティティが自由に選択される非会員制の共同体において、客観的な区別を信じる異端者は、スンニ派の神殿にいるシーア派と同じくらいの脅威である。
彼は暴露され、処罰され、可能であれば"黙らせ"なければならない。したがって、無差別という倫理は、宗教的差別の倫理と同じように、言論の自由への攻撃として終わる──すなわち、異端者を恐れるがために。

このことは、私たちが扱っているのは、永続的な解決策がないほどに深い人間の本性の特徴であることを示唆している。非所属とは、所属と同じように、アイデンティティを形成する重要なスタンスである。
結果として生じるアイデンティティを脅せば、あなたは暴露され、恥をかかされ、可能であれば物理的に沈黙させられなければならない。

しかし、新しい種類のアイデンティティの最も顕著な特徴の1つは、彼らが自己犠牲のジェスチャーを通じて異端者を迫害することである。
犠牲者となりそうな人たちが、「攻撃を受ける」機会を得て、自分たちの脆弱性を表に出すことができると考えると、最初の殉教の瞬間があらわれる。
伝統的な教育は、他者に攻撃を与えないことについて多くを語っていたが、現代の教育は、他者を攻撃することの技術について、もっと多くのことを語ることに割いている。
これは、私の経験上、「ジェンダー・アイデンティティ」が問題になっているときに、行動、言葉、制度、習慣、さらには(客観的)事実にまで腹を立てる方法を生徒たちに示すという、ジェンダー研究の成果の一つである。
…今日の学生たちが大学内の運動家に唆されることで──そしてまたしても「ジェンダー研究」は運動の最前線にある──注意深く育てられた彼らの脆弱性が危機の「引き金」を引くことのない「安全な空間」を要求するようになる。

…正当化するのは難しく、哲学的な議論と同様に私の経験から生まれたものであるのだが、検閲なしに公平に真実を求めることができ、一般的な正統派の意見に反対する者に課せられる罰則もない制度は、現在許可されている意見を統制することによって達成できるものを超えた社会的利益であるというのが、私の信念である。

私は、世界全体で普遍的に成り立つような、意見の表現を制限する法律や慣習、マナーがあるかもしれないことを受け入れることはできる。宗教や性風俗、自分と相反する"誠実さ"を表現することになったときに、表面上は穏やかに行動しなければならないことを受け入れることもできる。

しかし、もし大学が真理を指向した議論においてその使命を放棄するならば、私たちは私たち全員が利益を得ることができる大きな利益を失うだけでなく、研究機関としての大学を失うことになる。

…20世紀の全体主義運動が戦争や大量虐殺を始めたとき、大学が最初の標的であったことを思い出すべきである。
ロシアの共産主義者や無政府主義者の学生支部やドイツのブラウン・シャツの行動は、1968年5月のフランスの学生革命家によって、そして今日の多くの学生活動家によって繰り返された。

確かに、私自身の大学での経験は、この点では全く心強いものではない。私たちの大学では、学生が即興で課した検閲と、弱小な組織が容認した検閲以外には、あまり多くの検閲が行われていないように思う。
しかし、大学には罰則なしには簡単には破れない正統性があり、その罰則は学問的・学術的な理由ではなく、イデオロギー的な理由で課せられることは、長い間紛れもない事実であった。

文明化された社会では公の教義が存在し、大学はそれに、どれだけ不正なものでも従うことが求められているのは事実である。しかし、我々の場合、その正統性を生み出したのは大学自身である。
現在教えられている人文科学の中に、知られざる、疑う余地のない前提として隠されている左派リベラル的な世界観は、市井のコミュニティでは決して正統なものではない。

しかし、それに同意するかどうかは別として、それに準拠することは、賢明なキャリア・ムーヴメントとなる。しかもそれは、学生の間に出現している非帰属の共同体を支持しているし、支持されてもいる。

左派リベラル的な世界観は、全体的には、そのグローバルな装いをしているからといって、世界のより広い状況に関心を持っているわけではなく、私たち、つまり西洋の遺産に関係しているのである。それは自己批判の練習であり、歴史、文学、芸術、宗教など、あらゆる事柄において、性、人種、階級、志向などの区別に依存して、自分たちの優越性を偽ったイメージを作り出してきた文明の明白な道徳的欠陥を示すためのものである。
ジェンダー研究は、西洋社会における女性と同性愛者の待遇については辛辣な言葉を浴びせてくれるが、イスラム教における女性と同性愛者の待遇については慎重になり見過ごす。結局のところ、イスラモフォビアの容疑をかけないことが彼らにとって重要なのである。

大学はイスラム教徒だけでなく、他の弱者や疎外されたグループにとっても「安全な空間」にならなければならない──それ故にブランディーズ大学がアヤン・ヒルシ・アリに提供された名誉学位を撤回するように強制するキャンペーンが成功したのである。彼女はイスラム教についての真実を語っていたので、イスラム教徒の学生にとっては脅威であり、大学が学生に提供する義務のある「安全な空間」への侵略となった。

私も大学が安全な空間であることを望んでいる──しかし、現代の差し迫った問題について合理的な議論をするための安全な空間としてであるが。
今日の世界では、イスラム教の自警団や政治的正しさの思想警察を怒らせることを恐れて、グロテスクな虚偽が絶えず繰り返されている。

私たちはイスラム教の本質、その神聖なテキストや指針となる神話、そして世俗的な社会におけるイスラム教の法的地位について自由に議論することはできない。例えば、ムスリムにとって背教は死を意味し、姦淫は石打ちの刑を意味するというのは本当なのか、あるいはサィード・クトゥブが言ったように、世俗的な法律や国家はコーランに対する冒涜を意味するというのは本当なのか、といったようなことである。

これらのことを議論しないことで、私たちはムスリムの同胞である市民に対して、彼らが本当に持っている唯一のコミュニティに彼らが溶け込むための道を開かないという、大いなる奉仕活動をしているのである。

また、性、性別、指向など、政治的な正しさを定義する象徴的な問題についても、自由に議論することはできない。私たちは完全な相対性の世界をさまよっているが、絶対的な命令──これに言及してはいけない、これを笑ってはいけない、そしてすべての不確実なものの前では黙っていなければならないなど──に縛られている。

これらすべてにおいて、私たちは、ある物事が本当に重要であり、それが真実であるからこそ重要なのであって、それを善良な人々の集団が信じたり、他の集団がそれを強制することを決めたからというだけではないという感覚を失いつつあるのである。もし大学が何かのために立っているとすれば、それは確かに、私たちの暗闇の中での指針となり、真の知識の源となる真実の考えのために立っているのではないだろうか?

Free Speech and Universities

【政治的正しさとスケープゴート】

政治的正しさは、表面的には女性やマイノリティ、ゲイ、トランス・セクシュアルといった被害者のために立ち上がる方法のように見えるが、実際には被害者を作り出すための装置である。
政治的正しさとは、私たちの伝統的な生活様式に組み込まれた階層や区別を否定しようとするものである。政治的正しさに囚われた人々は、周囲に感じられる憎しみや拒絶の種を撒いた者を探し求めるようになる。

実際に怒らせたかどうかに関わらず、彼らは怒ることにとても長けている。
彼らは、非難する相手の議論に触れることを避け、ある発言に腹を立てると、それを犯罪に仕立て上げるために文脈を全く無視することを躊躇しない。裁判官、検察官、陪審員として、疑う余地のない正義の代弁者を気取りはじめる。彼らの目的は、敵対者を公衆の面前で屈辱的な目に遭わせることでその相手を威嚇することである。
ナチスや共産主義者の手法を真似だかのように、彼らは恐怖によって自分たちの世界観を押し付けようとする。

これは、学生たちが自分たちが聞きたくない議論をする人たちの「プラットフォーム」を否定するときに見られる。
人種差別、性差別、ホモフォビア、イスラムフォビア、トランスフォビアなどのレッテルを貼る──そうすることで、例えばティム卿は研究室が男性のものであるという見解を擁護しているかのように見せた──ことで、彼らが古くて疑わしいと考えている慣習を守ろうとする人を黙らせようとしているのである。

…問いかけることのできない疑問は、化膿した傷のように、心の中に疑念を抱かせる。このようにして、政治的正しさは和解の代わりに恐怖心をかき立てるのである。
…これらの"イズム"や"フォビア"という造語は、複雑な問題をあたかも議論の余地のないものかのように擬装するために利用されてきた。そうすることで、一つの視点、つまりは政治的に正しい視点だけが公に告白されるのが許されるようになるのである。

さらに、政治的正しさは思想犯罪を扱うため、告発と罪の間のギャップを縮めることができる。政治的正しさの世界では、無罪の推定はなく、ターゲットへの渇望があるだけだ。

しかし、私はその責任を政治的正しさだけに求めるつもりはない。魔女狩りで表面化する人間の条件には、はるかに深くて耐久性のある特徴がある。
それはスケープゴートと呼ばれる特徴である。

フランスの哲学者ルネ・ジラールは、自然な社会では、人々がお互いの力や財産に匹敵するものを得ようと努力し、優位に立とうとするために強力な競争が行われると主張した。
このような社会は、ジラールが「模倣的欲求」と呼ぶ、ある人が他の人から受けた報酬を享受したいという欲求によって引き裂かれる危険性がある。

解決策は、内なる敵を見つけることである。
社会秩序に実際には属しておらず、それ故に社会秩序に復讐する権利を持たない者を見つけるのである。そのような人は、暴徒によってすぐにいかなる保護をも剥奪される。
かつてであれば、黒魔術、近親相姦者、親殺し、天涯孤独、王であると僭称したなどの理由を"見つけて"告発されるかもしれない。

彼らはオイディプスのような汚染源であり、都市から追放されるべき存在である。彼らは平気で殺されたり、見殺しにされたりする。
彼らに対抗することで、私たち善良な市民は自分たちが受けた犯罪の復讐をする…彼らは生贄となり、我々の手で殺されることで、彼らのような悪意ある存在から放たれる汚染を取り除くことができる。

この物語は何世紀にもわたって人類の手で繰り返されてきた。
それはオイディプスの物語であり、キリストの物語でもある。

中世の千年王国運動の騒乱や17世紀マサチューセッツ州の魔女狩り、何世紀にもわたるユダヤ人迫害の物語でもある。社会の絆が弱まり社会的な信頼が相互の疑念に変わると、脅かされた一体感を取り戻すために、スケープゴートのメカニズムが舞い戻ってくる。

その一例が、コーランを冒涜した罪に問われ、命の危険にさらされたパキスタンのクリスチャン女性、アーシア・ビビの事件である。
ヒステリックに彼女を告発する人々のテレビ映像は、日常生活では考えられないほどの団結力を示している。

彼らは彼女の血を求めて叫ぶ、それは彼らの一体感の糧となるからだ。

ジラールは、キリストが自分を十字架に釘付けにした人々のために『父よ、彼らをお赦しください、彼らは自分が何をしているのか知らないのです』と祈ったことで、スケープゴートのメカニズムから抜け出す道を示したと考えた。
しかし、キリストの例がスケープゴートを終焉させたという証拠はほとんど存在しない。

私たちも社会的な恨みに襲われたときには、スケープゴートに頼ることがある。排斥されているという感覚、理想的な帰属共同体を求めて社会の外をさまよっているという感覚、これは現代の身近な経験である。
そして、政治的正しさは、非難を行うための近道を提供し、不満を敵に向け、その敵を破壊するために集団で行動するための一つの形である。
政治的正しさに支配された社会は、分裂の原因が自分たちではなく他の誰かにあることを示すことで、分裂を癒すスケープゴートを探し求めている。

では、このような仕組みが訪れた場合、どのように対応すればよいのだろうか?

…物事を考える習慣のない人は、簡単に文脈から文章を取り出して思想犯罪を発見したと錯覚してしまう。それは彼らの問題であって、私の問題ではないと私はいつも思っている。

私たちは、告発者に対しても平和的に話さなければならない。
罵声を避け、「イズム」や「フォビア」を浴びせられてもそれを受け流し、自分の本当の欠点を告白し、捏造されたものを強固に否定しなければならない。

最も重要なことは、真実を尊び、政治的正しさを無視することである。政治的正しさとは、私たちの対立を解決するものではなく、対立の究極の原因となるものなのだ。

The witch-hunt culture

【マルクス主義・フェミニズム・脱構築|非合理主義的思考の分析】

現在の非合理主義的な思考様式(例えば、マルクス主義、フェミニストの認識論、脱構築)には共通のパターンがある。いずれも世界についての我々の思考がある種の条件付けを受けているために、 世界が本当に存在しているように捉えることはできないと主張しているのである。

マルクス主義者は階級的地位が思考を決定すると主張する。なので、不幸にも「ブルジョア」に分類されてしまった私たちには、マルクス主義の弁証法の複雑さを把握することは期待できない。(もちろん、この理論が正しければプロレタリアとその自称指導者の思考も階級的に決定されるのだが、どういうわけかマルクス主義者はこれを脇に追いやっている)。
フェミニストの認識論者も「ジェンダー」を「階級」に置き換えて同じような議論を展開しているが、脱構築主義者はマルクス主義者やフェミニストの認識論者たちのさらに一歩先を行く。彼らは、言語はその性質上すべての人にパラドックスと矛盾をもたらすと主張しているのだ…これらの特徴をまとめると、結論は観念論的であり、前提はトートロジーであり、全体は仰々しい言葉で装飾されている。

例えば、マルクス主義者の主張は「我々の思考は我々の階級的立場によって条件づけられている 」であるが、この文は単なるトートロジーであり、「我々の階級の構成員の思考は我々の階級の構成員の思考である 」と読み替えることになる。
この場合、私たちの思考が真実であるかどうかについて何ら導かれるものではない。あるいは、それは不特定多数の経験的仮説に過ぎず…階級的に決定された思考が現実を覆い隠していることをどのように証明するのか、全く自明ではないのである。

What You Always Wanted to Know about David Stove

【Woke思想の行く末】

今日、Woke運動は真実という概念そのものに疑問を投げかけている。千年王国時代の熱狂とアメリカのピューリタニズム、毛沢東の暴徒支配と超リベラルの文化戦争が混在する中で、デュランティ(ソビエトの飢餓による虐殺の報道を捏造した)の隠れたニーチェ哲学に呼応するものがある。

デュランティのような積極的なニヒリズムは、おそらくごく少数派に限られているのだろう。デュランティが共産主義を利用したように、キャリア戦略としてWoke運動を利用する者もいるだろう。無知で誤った教育を受けたWokeの大衆は、自分たちが未確定の新しい社会を形成できると実際に信じているのかもしれない。デュランティと共通するのは、普通の人間に対する侮蔑である。

ここで、30年代の左翼とのもう一つの違いが浮かび上がってくる。共産主義は、その嘘と犯罪を含めて、普遍主義的な運動であった。
これとは対照的に、Woke運動は崩壊しつつある自由主義社会にほぼ限定されている。この数ヶ月のデモは、宗教改革後の西洋を越えて深刻な反響を呼ぶことはほとんどなかったし、キャンセル文化は英語圏にほぼ限定されている。

東方正教会、イスラム社会、アジアとアフリカの大部分、そしてヨーロッパの少なくとも半分にほとんど存在しないこの運動は、グローバルな現象とは言いがたい。米国を震源地とするこの運動は、本質的には、かつて自由主義的だった文化圏における痙攣であり、彼らは自分自身とその歴史に目を向けることによって、自らの優越性に対する奇妙な感覚を主張している。
この種の文化は、他の時代や場所に真剣に関心を持つことはほとんど期待できない。『Mr Jones』のような映画は、超リベラル派の内向的な偏狭さを乱すことはないだろう。しかし、見て何かを学ぼうとする人にとっては、警告として計り知れない価値がある。

ソ連の共産主義は、何よりも西洋化運動であった。確かに、ピョートル大帝の上からの近代化など、ロシアの歴史に先例はあったし、ロシアらしい終末論的な政治を表現していた。しかし、レーニンがアメリカ式の生産方式を好み、スターリンが猛烈な工業化に執着したように、ソ連の計画は常にロシアを西洋の近代国家にすることだった。
この実験は、莫大な人的犠牲を払って失敗した。ロシアは今やユーラシア国家であり、西側との差異によって自らを定義している。習近平の中国とは異なり、ロシアはソ連型の政党国家であるため、逆説的に西欧的である。何百万人ものウクライナ人を餓死させた目的が近代ロシアの建設であったとすれば、彼らは何のためにも死ねていないことになる。

Woke運動も同じような破局に直面している。その価値観が超自由主義的になるにつれて、かつて自由主義的だった社会は、より恐怖に支配されたと権威主義的なものとなっている。希望に満ちた政治的プロジェクトのために真実の観念を放棄することは、単に不道徳なだけでなく、うまくいかないだろう。

A cautionary tale for today’s ‘woke’ movement

【正義という名のファッション】

【「正義」は魅力と同じくらい流行の問題である】
とパスカルは「パンセ」に記している。17世紀の数学者であり神学者であったパスカルの見解の真理は、現在、十分に裏付けられている。

正義の要求がこれほどまで明らかに流行に流されることはめったにない。正義は法制度ではなく、社会全体の属性と見なされることが多くなっている。
同時に、正義は個人よりも集団に負うべきものであると信じられている。このような状況下では、人々が属しているとみなされる集団が流行っているかどうかですべてが決まる。

中国政府によるチベット文明の破壊は続いているが、チベット人はもはやアラモードではない。また、中東のキリスト教徒への迫害を言及に値すると考える論者はほとんどいない。ヤジディ教徒については、Isisによる大量虐殺の対象であるにもかかわらずもはやほとんど語られることがない。

…不正の犠牲者として認識されることは一種の特権となり、進歩的な意見の変遷に従って、有利なグループには与えられ、その他のグループには否定されるようになった。

社会正義の要求には、ある種の恣意性がつきまとう。おそらくこの理由から、SJW(社会正義戦士)は批判に対して不寛容なのだろう。アメリカでは、絶望したアパラチアの労働者階級は中流階級の学生デモ隊よりも配慮するに値するかもしれないと主張する人は、白人至上主義者として非難され、その意見は弾圧される。
個人や集団が受ける不正の程度や種類が異なるという指摘は、反動的な思考として否定される。有力な権力構造を転覆させれば、不正は単純に消滅する。このビジョンに疑問を呈する者は、間違っているというだけでなく、悪である。

問題は、社会正義の要請が本質的に相反するものであることだ。社会の財を平等と能力に従って分配することは、実際には単なる競争関係ではない。
実力と平等は本質的に相反する価値観である。最近の多くの研究は、西欧の自由主義社会が主張する能力主義は、実際には詐欺的でないとしても、せいぜい部分的に正当化されるに過ぎないという、正しい主張をしている。
しかし、能力主義の基準で完全に公正な社会は、平等主義の観点からは極めて不公正であろう。ある種の不正は他よりひどいかもしれないが、社会正義の要求がすべて完全に実現されるような世界は想像できない。

市場が非難されるのは、所得や富の分配が部分的にランダムであるためである。しかし、遺伝子の分布も同じである。もし、人間の運命のランダム性を修正しようとすれば、L.P.ハートリーの『Facial Justice』(1960年)のようなディストピア世界に行き着くかもしれない。そこでは、「容姿に恵まれすぎている」人々が、外科手術で自分の容姿を変えることが奨励される。

逆に言えば、教育の機会における著しい格差は、それが実力で弁明できない限り容認されるということである。1830年代、メルボルン卿は、ガーター勲章を最も好きな称号として挙げた。

平等主義の思想家たちは、今日、同じような路線をとっている。文法学校による能力による選抜は、進歩的な意見の大部分によって否定されている。親の収入で選抜される学校に子どもを通わせることの方が、より不愉快ではないと考える人はかなりいるようだ。

よくある批判に反して、これらの人々には偽善の兆候がほとんどない。偽善には自己認識が必要だが、彼らにはその証拠がほとんどない。自分の子供に高い教育を受けさせるのは、実力主義の弊害に対する良心的な反感を表しているのではないだろうか?

子供を私立学校に通わせる平等主義者、あるいは社会的選抜制のある公立学校のある地域に家を買うほど裕福な人は、間違いなく自分の子供の人生のチャンスを大多数の人のそれとは逆に積み上げている。しかし、進歩的な両親を持つという幸運を否定される子供がいるのだろうか?

悲劇につながらない場合、社会正義の追求はすぐに喜劇に変わってしまう。このままでは、社会的正義を追求すること自体が無意味なものになってしまう。
それは、F.A.ハイエクの主張であり、彼の大著『自由の条件』で強く打ち出され、その三部作の第二巻『法と立法と自由』で改めて強調されたものである。

市場のプロセスは自然発生的なものであり、その結果として生じる所得と富の分配は、公正な分配のいかなる基準にも一致しない。市場は才能や努力だけでなく、運にも報いる。適切な時に適切な場所にいることは、能力や美徳と同じくらい、誰の運をも左右するのだ。

自由市場を擁護するのは、その優れた生産性であって、権利や正義の理論ではない。同じ理由で、ハイエクは、公平のために市場の配分を修正する試みに反対した。後期の著作では、ジョン・ロールズの正義論に共感を示したが、それは、ロールズが、正義とは人々が値すると考えるものに応じて再分配することであるという考えを否定したためであった。

ロールズや平等主義的な左翼と同様に、ハイエクも能力主義の理想を否定した。80年代に彼と話したとき、彼はしばしば、自由市場が善き人生についての信念に関係なく運営されているという事実が、彼にとっての利点の一つであると述べていた。
しかし、その代償として経済が停滞することになる。ある種の道徳的無関心が、経済の継続的な進歩には必要だった。

ハイエクは、自由市場の非道徳性を讃えるにあたって、経済学者で風刺作家のバーナード・ド・マンデヴィルの影響を受けている。
彼は…富の創造と繁栄の原動力は、キリスト教が悪徳として非難する欲求や衝動であると主張した。

社会正義は本質的に対立する価値観を呼び起こすものであるため、確かに蜃気楼のようなものである。しかし、ハイエクのリバタリアン的理想である、市場が何のコントロールもなく運営される社会秩序もまた然りである。
ハイエクが、その生涯を通して、市場の機能不全によって自由主義体制が繰り返し一掃されるという政治的惨事からほとんど学んでいないことは驚くべきことである。

ナチスは大規模な経済的混乱に乗じて政権を獲得した。ルーズベルトの介入主義とイギリスの社会民主主義は、世界恐慌と第二次世界大戦中の完全雇用の経験に対する反応であった。

ハイエクは、政府の経済介入は自由主義的価値観への脅威であると考えこれに反対した。しかし、歴史のメッセージは、自由主義体制を覆す最も確実な方法は市場を解放することだ、というものである。

ハイエクの死後の出来事は、この教訓を裏付けた。エリツィン時代の無政府資本主義がプーチンの権威主義を生み、共産主義後の欧州のポピュリスト政権が誕生したのも、市場経済への移行で旧共産主義者が最も利益を得るケースが多かったからである。

資本主義がその生産性のみによって正当化されるならば、資本主義が生み出す富から利益を得られない人は、市場システムを支持する理由がないことになる。
自由市場体制が安定するのは、多かれ少なかれ途切れることのない成長をもたらし、ほとんどの人々がそこから利益を得る場合だけである。資本主義が貧困から保護する最低所得を例外とするならば、ハイエクは自由市場が生み出す所得の分配へのいかなる介入も拒否したのである。しかし、彼がロールズに首肯したように、市場の結果を変える政策は、功利的な考え方や道徳的な見返りを提供する必要はないのである。

 社会の多くの部分が長年にわたる経済成長の恩恵を受けられなかった現在、人々を困窮から守るだけでなく、より高度な対策が必要である。目標は、すべての人に適切な経済的安全性を確保することでなければならない。
そのような政策は、社会正義の理想を呼び起こす必要はない。

 …分配的な問題に対するリベラルの先入観は問題の一部である。必要なのは、明らかにポストリベラルな考え方にシフトすることである。安全保障と共同生活の必要性は、個人の自由と同様に説得力のある価値として認められなければならないし、社会正義という曖昧なビジョンよりも、住みやすい社会の首尾一貫した姿を描き出すものでなければならないのだ。

この変化は、自由主義社会が受け入れるには大きすぎるかもしれない。市場が生み出す不安から人々を守るには、全体的な経済成長をある程度抑えることが必要かもしれない。そして、長期的な減速は、影響を受ける人々の間で高いレベルの連帯を必要とする。
過去の社会民主主義国はいずれも比較的閉鎖的な社会であり、多民族を公言してはいるが根本的な多文化主義ではない。実際には、多文化主義もアノミックな個人主義も大差ない。

多くの人が共同体の間に挟まれ、共通の生活様式を持たずに取り残されている。しかし、だからといって、多くの人が個人主義の道徳的貧困から解放されることを切望しているわけではない。多くの人が今よりもっと安全な生活を望んでいるが、好きなように生きる自由を犠牲にしてまで望むものではない。

…これらの問題に対する考え方を変える最大の障害は、社会正義の考えを持ち、それを推進する熱意である。ほとんどのSJWの目標は、社会を修復したり改善したりすることではない。むしろ、既存の社会秩序を転覆させることを望んでいる。したがって、社会正義を追求することが、実際には社会的分裂を引き起こすとしても、彼らは平気でいられる。革命前のレーニンのように、彼らは「悪いことは良いことだ」と信じているのだ。

しかし、歴史に鉄則のようなものがあるとすれば、革命の後にはアンシャン・レジーム(旧体制)よりひどい不正が行われることである。フランス革命は、ヴァンデの農民に対する戦争(1793-1796年)を引き起こし、10万人以上の命を奪った。
ロシア革命では、あまり知られていないが、タンボフ地方の農民の反乱(1920-21年)があり、これと同じかそれ以上の人数が死んだ。アメリカ独立戦争も例外ではない。イギリス統治下で入植者の拡大から保護されていた先住民にとって、それは無上の災厄であった。

しかし、歴史は「Woke」にとって何の教訓にもならない。革命は不正を拡大させるだけだと受け入れることは、彼らの人生の意味を破壊することになる。社会正義運動は、事実や推論の間違いに基づいているのではない。それはカルトであり、その主な受益者はSJWたち自身である。 

ここでパスカルに戻る。彼はより崇高な正義が存在すると確信していたので、人間の正義の観念の移り変わりを冷静に見ることができた。
そのような信念を持たず、代理の信仰なしに生きることができないSJWは、世俗的な千年王国、善と悪の戦い、それに続くはずの想像もつかない世界という一連のファンタジーに意味を見出そうとしている。

The deluded cult of social justice

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