見出し画像

他の人より、だいぶ長かっただけ…?(前編)

自己紹介というか、回顧録的なnoteが続いていますが、、
書き出したら自分のアタマを整理する意味でも面白くなってきたので。今回も「旅」にまつわるnoteを綴ろうと思います。

「本気で目指していた冒険家を、なぜ諦めたのか」という話になります。

-  -  -

冒険家を目指していたぼくが、人生を賭けて成し遂げたかったことは、大きく3つあった。

1. 単独徒歩で世界一周
2. 北極海を単独徒歩で縦断(北極点に立つ)
3. 南極大陸を単独徒歩で横断 (南極点に立つ)

 *2. 3.:無補給を目指して。実現可能性の有無はわかりませんが。。

(ちなみに、これら3つをすべて達成した人類は、冒険家を目指していた20年以上前も、そして今も、ぼくが知る限り、まだ誰もいない)

大学を1年間休学して、北〜中〜南米大陸をバックパッカーとして旅したのは、これらを成し遂げるための感覚的な経験を積みたくて、その第一歩としての行動だった。

小学5年生くらいから、ぼくは冒険家になることを夢見て、中学に入ると本格的に行動し始めた(詳しくはこちら)。植村直己さんの存在を知ったことが一番大きかった。『青春を山に賭けて』がバイブルだった。高校の留学時はもちろん、国内外の旅に出るときは、お守りのように必ず携えた。文章を暗記するくらい、飽きることなく、幾度となく読み返した。

画像1

本気で目指していた冒険家をーー
なぜ、ぼくは諦めたのか。

「若気の至り」と言ってしまえば、それだけのことなのかもしれない。小学生が野球選手を夢見て、小学校を卒業する頃には忘れてしまっているように。夢見るその気持ち=若気の至りが、他の人より、だいぶ長かっただけの話なのかもしれない。

-  -  -

最初のきっかけは、「落合老人」との出会いだった。
40年近くにわたって世界各国を旅し続けてきた落合老人は、当時バックパッカーの間で名を轟かせていた。

ブラジルのサンパウロにある「ペンション荒木」。薄暗い、あの部屋で。そんな彼に出会えたことが嬉しく、同室だったぼくは、ある晩無邪気に言った。「羨ましいですよ、落合さんが。ずっと旅してきて。良い人生ですよね」と。

長い沈黙。落合老人は、黙った。
ようやく口にした言葉は、ゆっくりと、ひと言ひと言を噛み締めるように、
「寂しい人生だった。こんな人生、勧めないよ…」
小さな声で、そう、吐き出したーー

25年以上経ったいまも、落合老人のその言葉と、あのとき見せた彼の表情は、鮮明に覚えている。

冒険家とは違うけれど。生涯を旅に費やしてきた落合老人は、これからぼくが歩もうとしている人生の果ての姿に映った。

「彼のような人生は歩みたくない」
心のどこかで、その思いが、少しずつ肥大していった。

画像2

南米から1年の旅を終え、帰国したぼくは、大学4年に復学した。
旅に出る前の計画では、復学〜大学卒業後は、徒歩による世界一周に向けて、いよいよ本格的に準備を進める、というものだった。資金は、仕事の内容など問わず、アルバイトでも何でも、とにかく割の良い仕事を掛け持ち、数年間ガムシャラに働いて貯めようと考えていた。だから、通常であれば就職活動に励むタイミングだっだが、これといって就きたい仕事もない。落合老人と出会ったことで肥大していく憂慮を心の中に隠しながら、卒業にはゼミと卒論が必須だったため、まずは勉強に勤しんだ。

大学では文化人類学を専攻した。いや、そもそも文化人類学を学士として学べる大学を選んだ、と言ったほうが正しいかもしれない。「文化とは何か」「人間とは何か」という問いを、世界の民族を通じて知るその学問を専攻したのも、やはり冒険家を目指してのことだった。その学びは、必ず冒険家に生かせると考えたからだった。

文化人類学の研究手法は、フィールドワークを主体とする。研究対象とするエリアに自ら入り、聞き取り、採集・調査し、文献にまとめる。

卒論で、ぼくは文化人類学の中でも、「観光」にフォーカスした観光人類学なるものを取り上げた。中南米を旅しながら、強く感じたことがあった。中南米には、未開社会と称される、昔ながらの伝統文化を頑なに守り続けている民族が多数存在するーーガイドブック等では、そのように紹介されている。しかし実際は、程度の差こそあれ、どこの未開社会も見事に観光地化され、観光客はツアーバスで気軽に未開社会を訪れることができる。未開社会に生きる民族たちは、観光客相手の民芸品作りに精を出し、土産物として販売。子どもたちは、写真に撮られるたびに「はい、モデル代のお金ちょうだい」と稼ぐ状況にあった。
「この状況下で、果たして彼らは、外部=観光客から受けるモノやコトをノイズとして排除し、伝統的な文化を守り続けることができるのだろうか?」
その疑問を、卒論というカタチで、アウトプットしたいと考えたのだった。

画像3

ときは、1995年。オウム真理教の事件があった年。サティアンと呼ばれる多数の出家信者が居住し、サリン製造などの拠点となったのが、山梨県にある上九一色村だった。

それまで上九一色村は、富士五湖を有し、富士の麓に広がる豊かな自然を自文化として捉え、村民は生きてきた。が、オウムの事件をきっかけに一変、「上九一色村=オウム」という“まなざし”が向けられることに。観光客という野次馬が、全国各地からひっきりなしにやって来た。
「彼ら村民は、どんな気持ちで生活しているのか? それでも生活源となる観光客を受け入れざるを得ない現在の状況は、彼らが長年持ち続けて来た自文化に、どのような影響を与えているのか?」

ぼくは、卒論のフィールドワーク先として、上九一色村を選んだ。上九一色村に何度となく足を運び、村民から、役所の方々から、さまざまな話を聞いた。オウムに対する嫌悪、容赦ない観光客のマナーの悪さ。一方で、オウムをきっかけに村へやって来る観光客は数倍にも増え、観光収入は圧倒的に増加したという現実。それらを客観的に卒論にまとめた。

いわゆる、取材をして、原稿にまとめるという作業。それまで、それほど興味を持っていなかった一連の作業が、卒論をきっかけに、面白く感じるようになった。興味対象となる人から話を聞き、その情報をベースに自身の言葉を織り交ぜながら文章=ひとつの作品にまとめ上げ、公に発信するという行為が、単純に好きになった。

どうせ働いて金を稼ぐなら、それを仕事にしよう。そうだ、編集業に就こう。そう思い立ち、卒業間近の2月に、ある編集プロダクションの就職先が決まったのだった。

画像4

某生命保険会社の会報誌の制作に携わった。私物化とは言わないものの、その誌面を活用し、毎号「旅」や「冒険」を舞台に活躍する人たちにフォーカスする企画を立て、憧れの方々を数多く取材した。

河野兵市さん、賀曽利隆さん、白石康次郎さん、野口健さん、熊沢正子さん、蔵前仁一さん、小林紀晴さん…

「なぜ旅に出るのか。なぜ困難な冒険に挑むのか。その経験は人生にどのような影響や糧を与えるのか。読者に伝えたいメッセージとは…?」
彼らの想いを聞き出し、誌面を通じて読者に届けることに、ぼくはすっかり引き込まれた。彼らの声を届ける裏方(編集者)としての役目に、惹かれるようになっていったのだった。

なかでも、蔵前仁一さんと小林紀晴さんに取材することができたのは、ぼくにとって価値のあることだった。なぜなら、冒険家を諦める、もうひとつのきっかけになったからだ。

両者は、いわゆる旅行作家として、当時を一世風靡した。それまでの旅行作家は、藤原新也さんを筆頭とした、非日常である「旅」を通じて感受した思いや考えを思想的に表現する、これはぼくの勝手な解釈だけれど、ある種の宗教にも近い、啓蒙を含めた、非常に“マジメ”な作品が多かった。

それが、蔵前さんの登場により、たとえばインドを舞台にした紀行は、それまで「生と死」を問うような内容が主だったものが、蔵前さんは、それをユーモアに昇華させ、オモシロオカシク描写した。バックパッカーという人種に対して、それまでどこか思慮深く捉えるところがあったのを、蔵前さんは「ごく普通の人が、たまたま長い旅に出てしまった」人種として、誰もが気軽に足を踏み入れられるマジョリティーの領域として、初めて表現した人だったように思う。

小林さんの登場は、ぼくにとってーーデビュー作『アジアン・ジャパニーズ』は、さらに衝撃だった。

それまでの旅行作家は、自身で旅した経験と心情を、自らの言葉で表現するのが常だった。それが小林さんは、自身の表現は最小限にとどめ、旅先で出会った旅行者たちを主人公に、彼らが見せた心情と吐き出した言葉を写真と文章で客観的に表した。彼らが小林さんに見せた素の姿を通じて、読者に「旅とは」「人間とは」を問いかけた。

画像5

冒険家として、収入源のひとつとして考えていたのは、モノを書くことだった。しかし、蔵前さんと小林さんの作品を知り、それがあまりに安易で軽率な考えだったことに気づかされた。取材を通じて彼らに出会い、心を揺さぶられるコトバを聞いたことで、呆気なく、打ちのめされた。圧倒的なクリエイティビティと表現力、無二の文章力。脱帽した。モノ書きとして、仮に彼らと同じフィールドに立ったところで(比較するのもおこがましいのだけれど)、勝ち目などなく、良くて二番煎じの模倣で終わるのが想像できてしまった。「旅」や「冒険」の世界で、ぼく自身が何か表現したいと思うなら、彼らにその意図を伝え、執筆=アウトプットを依頼したほうが、よっぽど生産的で完成度が高く、目指すモノに近づけるのではないか、と。

-  -  -

落合老人との出会い。蔵前仁一さんや小林紀晴さんとの出会い。そして、自分自身が冒険家(あるいは旅行者)として、その世界の当事者になるのではなく、彼らの考えや想いを自分がディレクションするメディアを通じて広く伝える役目=編集者として関わっていきたいという気持ちの芽生えーーそれらが「冒険家」を諦めた理由ーーなのだと、いまなら冷静に答えられる。

画像6

が、しかし。
実際のところ、簡単に割り切れるものではなかった。子どもの頃から冒険家になることを夢見て、ひたすらに行動してきたのだ。別の、異なる道を歩み始めるためには、「もう旅はいい。もう十分だ」と、ぼく自身の中で、そう結論づける必要があった。そうしないと新たな先へは進めないーーそんな強迫観念さえあった。

「もう一度、長い旅に出よう。冒険家を目指す旅ではなく、抱き続けた『夢』に、自分自身で落とし前をつけるために。冒険家に区切りをつけるために、もう一度、旅に出よう」

編集プロダクションに勤めて2年後。
ぼくは、もう一度、長い旅に出た。

↓↓ 後編はこちら ↓↓


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?