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どうやらロマンチックが足りていない

"急いでいる時、曲がり道で衝突する事で起きる偶然の出会い"

そんな話では一切なくて、ある程度決まった事の繰り返しでは随分と退屈で、そりゃ気付けば桜も散るって誰かがぼやいていた。

無論、色恋沙汰の話じゃない。
あと高嶺の花子さんは存在しない。


ふと最近思う。
"自分の頭では到底想像できない事象 = ロマンチック" なのかもしれない。

今まで「なんであれしたんだろう」とか「思い切ってたなあれは」みたいなものって、その成否とは関係なく、総じてロマンチックだったんじゃないかと思う。

逆にそういった事がないと似た人間ばかりが世に溢れて、まさしく右向け右の日本人が量産される世紀末が生まれてしまいそう。

虚しくも人の想像力には限界がある。


けれども想像の範疇を超える事象を前にするとわくわくする。

未知という危険性と探究心で撹拌された脳内は、脳汁が出るとかそんな騒ぎではなくなる。

暴力的に言ってしまえば、"見えない景色や知識を獲得したいという開拓心だけで文明は発展してきたし、それは現代の自分達にも十分通用する表現で、時にそれは鈍くて重い痛みを与えてくる。

結局は単純に人間の"エゴ"でしかない。
僕らの生命活動はエゴの上に成り立っている事を忘れてはいけない気がした。





果たして日常の中に溶け込むロマンチックって何なんだろうか、少しラフに考えてみた。


・読書

本や雑誌を購入する時は、出来る限りネットではなく本屋に赴く。

装丁や帯を担当している著名人、特集の内容などそこに赴く事で得られる直感的な発見や遭遇もロマンチックだと言える。

まあ村○春樹はジャズの知識を延々と垂れ流しながら、女を抱きがちだけども。

陳列された棚を眺めながら衝動的にデザインだけで購入に至るケースもあるけど、内容は8割型好みじゃない。
けど2割にロマンがあるよね、あるある。


・洋服(ファッション)

上記同様、洋服も例に漏れず必ず実物を見て吟味する。様々な特徴をもつ古着屋で、古着をディグるのも飽きない。

あと誰かのスタイルやトレンドに左右されず、かつ自分らしさの出る着こなしが大好きだ。
良いと感じるオリジナルの物差しを使う喜びはとても大きい。


時々の気分や聴いている音楽で構築されたファッションを纏う事で人はどんな自分にだってなれる、その可変性自体がロマンチックじゃないだろうか。


ファッションは一番身近な自己表現でそれを捨てる事は一生出来ない。

※あまり関係ないけど、気に入ったアイテムにフォーカスしたファンション的な記事をnoteで書きたいなとずっと思ってる





偶然の発見や出会いを大切に、今を楽しく生きていければそれが人生の意味や価値に直結する。

たくさんのロマンチックを経て大人への歳月を重ねて、たまにはバカやって笑えれば十分かな。

以上、ロマンチックが足りてない貴方(自分)へ。


それでは良い夜を。

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