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アルファベットと合理的配慮

なんだかとても気持ちが疲れる1日だった。
仕事での調べもので英語ソースを読まなければならなかったが、アルファベットを使う人たちは、あんな小さな文字をよく毎日読めるなと思いつつ、休憩時間にふと見てしまった障害者関連の記事に憤りを感じた。

アルファベットを使う人たちは、毎日読み書きをしているから、文字が小さくてもなんとなく字面で読めるのだろう。私たち日本人が、既知の単語と前後関係で、たとえ書き間違いがあっても補完しながらきちんと日本語の記事が読めるのと同じだ。
そして、漢字が漢字圏以外の人の苦労を考慮せずに作られ、読み書きされ、読み書きに困難を抱える人がいても使い続けられるのと同様に、アルファベットもまたそれを使わない人・使えない人のことは関係なく使われ続ける。

私の周囲にはディスレクシア(識字障害)の人はおらず、その困難さは想像しがたい。それでも、そのような障害を持つ人たちと関りを持つ機会を得た場合、私は読み書きができるという「特権」を持つ者として、真摯にその人たちにどうしたらよいかを尋ね、建設的にコトを進める努力をするだろう。

合理的配慮の基本理念はそういうことではないかと思う。
世の中はマイノリティに良いように出来ていない。それは仕方のないことでもあり、否定することはできない。おのずとマイノリティがマジョリティに”合わせる”ことを強いられる。
しかし、マジョリティは努力を強いられずシステムを謳歌することが出来る特権を持っているのだから、マイノリティを補完する義務を負っていると私は思っている。
私は身体障害者だが、目が見え、耳が聞こえ、読み書きもできる。その点において彼ら・彼女らにとっての「健常者」である。彼ら・彼女らからの配慮の要請があった場合、まずは相手に尋ね、何ができるか、何ができないか、できないことをできるように補完する仕組みはないか、一緒になって探す義務を負っている。

アルファベットと合理的配慮を一緒に語ることはできないが、少なくともアルファベット文化の人たちが我々に門戸を開いてくれる必要がある。もしも、アルファベットで書かれた情報を自国から出さないという決議が実行されたなら、いくら我々日本人がアルファベットの情報にアクセスする努力をしても目的は叶わないのだ。そして互いに協力すれば、アルファベット文化は拡大するはずだ。

今日の記事に締めはない。「こうすべきだ」と言うこともできないし、ただただ心が疲れる。

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