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美味しくいただく

村上龍のエッセイ『すべての男は消耗品である。』だったか、こんな場面がでてくる。

別れ話をしている男と女。村上龍はそのどちらか一方の、あるいは二人と知り合いのようだ。


女は泣きながらステーキを口に運ぶ。
そして、女が言った。
「このステーキ美味しい。ねぇ、龍さんも食べてみて」
女には勝てない。

確かこんな内容だった。
別れ話などという、シビアな場面において、ステーキを泣きながら美味しいという、そういう女性の強さを見て、彼は驚いたのだった。

私がその本を読んだのは、多分10代の後半だったような気がする。
大人の女性なら、みんなそうできるものなのかなと思った。

そして、もうひとつ、子供ながらに思っていたことがある。
女性の意地というやつだ。
別れる相手に、弱みを見せたくない、別れることなんて何ともない、そういう意地を見せつけてやっているのだと想像した。


私の味覚は完全にその時の「気分」に支配されている。
心配事がある時や、誰かとうまくいかない時、どんなに美味しいものでも美味しいと感じなくなる。
食欲さえ失われる。
一方で、とても良い気分の時は、白飯にふりかけをかけただけでも、ご馳走のように感じる。

良い素材のもの、手間をかけたもの、心を込めて作ったもの、それぞれが美味しい。
その「美味しい」は、個々人の相対的なものでもあり、また、何かの基準をもってすれば絶対的に美味しいのだろう。

それだけではなくて、美味しく食べようという気持ちが、食べ物を美味しくさせるということを、その女性は知っていたのではないかと思う。
こんな状況でも、いや、こんな状況だからこそ、目の前の命を美味しくいただこうとしたのではないだろうか。

この冬、私の心はずっと沈んでいて、美味しいものはいただいたが、本当の意味で味わってはいなかった。
美味しいものを、ただ美味しいと思っているだけで、そこに幸福感をあまり感じてはいなかったのだ。

今、その幸福感を取り戻したいと思う。
懸念事項が多少解決されたものの、何か大きな変化があったわけではない。
ただ、もっと解放されたい、前に進みたいという気持ちは高まっている。
路上に咲き乱れる小さな春の花たちに、生命力を感じさせてもらったせいかもしれない。

愛する人が平和に包まれて、私が平和に包まれていればそれで良い。
何も変化がなくても、あなたが幸せでいればいい。
そんな心の平安もまた、食べ物を美味しくさせる。


美味しいものを食べるのではなく、美味しくいただこう。

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