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2021年8月の記事一覧
ひかりみちるしじま(11)
戦前・戦中に戦争を防ぐための拠点たりえず、学生の身分のまま戦場に追いやった「学徒動員」の歴史を反省して、大学は戦後、「平和と民主主義の砦」として生まれ変わった、と私たちは教えられていた。
しかし、それは虚妄の言葉だった。ベトナム戦争への日本政府の加担を大学関係者は手をこまねいて見ているだけだった。むしろ反戦運動をする学生を処分したりした。そうした処分などに対して、学生たちは大学当局(理事会、教
「ひかりみちるしじま」(12)
食事中も排便中も、常に監視されている独房生活は、半年近く続いた。四六時中監視され、行動の自由を奪いつくされた生活は、それまで思うがまま自由勝手に生きてきた私にはとてつもなく不快で苦痛だった。一時は、長期に自由を奪われた生活が続けば、自分は死んでしまうだろうとまで思いつめた。勿論、死にはしなかった。死んでしまうかもしれないと考えたことが、拘禁状態が続いたことによる精神的な錯乱だったのだ。
やっと
「ひかりみちるしじま」(13)
1969年の12月に開かれた第1回の裁判は、傍聴に来ていた学生たちがヘルメットをかぶっていたため、「ヘルメットを取りなさい」という裁判官の命令と、学生たちの「これは我々の闘う意志の象徴だ」との主張が争って騒然となった。怒号のとびかう法廷を廷吏が走り回り、結局裁判は開かれることなく「休廷」が宣言された。
1970年から実質的な裁判が始まった。その頃の「公判雑記」と題したメモがある。自分の中に浮か
「ひかりみちるしじま」(15ー最終回)
1970年2月、突然予告なく現れた母との一夜が明けた。9時前に私が目覚めると、暖房設備のない部屋はすっかり冷え込んでいた。毛布1枚にくるまって寝たはずの私に昨夜母に提供した掛け布団が掛けられていた。
母はもう起きて服を着替えており、敷布団は畳んで部屋の隅に片付けてあった。確か、昨夜は午前2時頃まで横になったまま話をしていた。その内、私は実家の夢を見ながら眠りに落ちていった。せせこましい自分の部