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荒木マスターと深井さんと渡邉さんの対談が刺激的で衝撃的で、1週間経っても未だに余韻として脳内に残っているって話


金曜日は1週間のVoicyを振り返る


先週の金曜日は、荒木博行のbook cafeの、
三者対談回を取り上げた。

全3回のうちの初回である。

今回は残りの2回の対談から得た気付きを取り上げ、
私の中の気付きや学びを書いていきたい。
(全3回の対談を添付する)


◼️答えのない問い


3回を通して


今回の対談テーマは、三者が持ち回りとなり、
荒木マスター→Takram渡邉さん→COTEN深井さん
という順番であった。

最初の荒木マスター回のことは、
先週の金曜日につらつらと書いたので、
今回は残りの2回について書いてみたい。

多様性や結婚や子育てなど、
なかなか答えの出ないテーマで、
とても興味深く拝聴させてもらった。

私自身、縁も因もない釜石で暮らしている中で、
色々と考えさせられた次第である。

多様性や地域での子育てなどは、
過去noteでも語っているので添付してみた。

私なんぞの浅はかな考えではあるが、
お時間あればお読みいただけると幸いである。


◼️家族という言葉


深井さんの問いから考えてみた


シェアハウスや、拡張家族など、
様々な形が、日本各地に存在している。

今回『家族の形』を考えるにあたり、
こんな記事を見つけたので添付してみた。

本当に様々な『家族の形』があるなぁ、
と学んだひと時であった。

深井さんは民法のあり方など、
法律で規定される家族に問いを投げかけていた、
と記憶している。

今回noteに書くにあたり、聴き直していないため、
9月25日と26日に聴いた記憶をたよりに書いており、
私の記憶や解釈によっていることを、
あらかじめことわっておく。

さて話を戻そう。

『家族』という言葉をどのように捉えるのか、
そうしたことを考えさせられた次第である。

私の感覚として、多くの日本人が想像する、
『家族』の形は同じようなもので、
特に釜石などの地方では『家族』のイメージは、
ほとんど同一のものになりそうである。

そこには『家族とは〜であるべき』とか、
『親とは〜であるべき』とか、
そうした『べき論』がありそうかなぁなんて感じる。

多様性の観点から言えば、
そうしたイメージを抱くのも自由であり、
個々人が色々な形を模索しながら、
生きやすい世の中にしていけば良いと思う。

問題になりそうなのは『べき論』は、
大抵の場合は『あるべき姿』から外れた場合に、
排除や排斥といった行動に繋がるということだ。

そういう意味で、3回の対談は全て繋がっている、
という評価をした渡邉さんの発言は最もだと感じた。
(いつものようにツイートしてみたので添付する)

添付してみて…添付するほどのツイートではないな…
と思い知らされたが…そのまま放置してみる。


◼️家族の形かどうかはわからないが


釜石にも様々な形がある


釜石で患者さんと接していると、
様々な形があることに気付く。

『家族』と捉えるかは人それぞれであるが、
ここで紹介してみようと思う。

釜石に限らず、どこにでもいると思うが、
婚姻届を出していないが同居している方は多い。

愛人関係だの何だの言われるが、
そうした形があっても良いと思う。

実際、高齢者同士で同居しており、
お互いの世話をしながら生活している人は多い。

他に思い浮かんだのは、
長屋に住んでいる人のことだ。

独居女性が長屋に住み、
お互いがお互いとゆるく繋がりながら、
時に世話をしたりして暮らしている。

そんなの家族ではない、
と言う人もいるかもしれないが、
家族ととらえても良いのではないか、
と私は思ったりもする。

法律の観点はさておき、私が今回思ったのは
『家族ってゆるい繋がりなのではないか?』
ということである。

究極のことを言えば、自分以外は他人であり、
自分ではない人のことを真に理解できない。

『家族』とか『肉親』とか『血の繋がり』という
文脈があるから、他人である家族に対して、
色々と要求し、その結果閉塞感に繋がる。

そんなことを考えさせられた次第である。

まぁ色々と書いてきたが、
だからこうした方がよいとか、
そんなことを言うつもりはない。

ただただ、こんなこと考えたよ、
という記録として書き記しておきたい。




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