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『ケアするのは誰か?』を読んでは独り言

読み散らかした本達
頭の中を通り過ぎる言葉達
その存在を少しでも留めておきたい

ということで
読んだんだか読んでいないんだか
積んだんだか積んでいないんだか
と言った本達の中から
1冊取り上げて
ゆる〜りと書き記していきたい

本日は、こちらの本を読んで独り言を呟く

まだ読み始めたばかりの本書
翻訳者の岡野八代の
訳者まえがきより以下の文章を取り上げたい

トロントは、人間関係に限定してケアを捉えるエンゲスターよりもさらに広いケアの定義をしているが、まずここでは、ひとが人間社会でひととして生きるために必要な、他者からの応答全体を想像しておけばよいであろう。ただ、エンゲスターの定義の後段で明らかなように、現在のわたしたちが、とりわけ、健常者で、生存するために直接必要な自分自身へのケア以外の活動ー職業、学業、あるいはまさに他者に対するケア活動ーに携わっているものである場合、ケアをめぐるある困難が浮上する。それは、ケアを、ケアすることCaringと能動態でのみ捉えると、わたしたちは例外なくそうしたケアを受け取ってきた者でもあるにもかかわらず、多くの場合、どのようにケアされてきたのかを、すっかり忘れ去っているということ、また、そうであるからこそ、そのケアを受け取るひとたちを他者化してしまいがちであるという困難である。したがって、ケアとは何かを注視することは、あたかも、社会のなかで誰にも迷惑をかけずに自立的に存在しているような感覚についても自省することを迫るだろう。もし、わたしたちが、自分の選択、あるいは努力によって、現在の地位や、現在の健康を維持しているように思い込めるとしたら、そうした生きる力をどこから、いったい誰に与えてもらったのだろうか。そして、そうした自問のなかで思い浮かべるひとたちは、いったい誰で、どのような社会状況の中でケア活動を担ってきたのだろうか、と。

ジョアン・C・トロント 岡野八代 . ケアするのは誰か? .白澤社 ,2020 ,10p

長い文章を引用してしまった
引用する必要があったのか
本来の引用について考えると
どこからかツッコミを受けそうで
心配でもあるが…

さてさて
私事であるが
周りでメンタルの不調を訴える方が
多くなっている印象を受けている

それはなぜなのか?

そんなことを考える毎日である
前回の『生きることとしてのダイアローグ』
にも通じることではあるが
人という存在が
他者からみえにくくなっていることが
精神を蝕んでいるのではないか?
そんな世迷言を考えている

どういうことかというと
おそらく日常生活において
何かしら会話したり
仕事において
コミュニケーションを
とっていたり
そんな毎日だと思うが
その際に言葉を発する人が
言葉を受ける人から
その存在を認められていない
あるいは大切にされていない
とまるでモノのように
扱われてしまっていると
感じているのではなかろうか

冗長な文章で
何を書いているか
わからなくなっているが
要するにケアされていない
と感じていることが
精神に支障をきたすのではないか
と思うのである

もちろん
その程度や頻度や量によって
ということではあるが
日々の暮らしの中で
全く大切にされていない
と感じてしまうことが
あるのではないか
そんな妄想をしている

こうして書いている自分も
相手にそう思わせていないか
日々頭を悩ましているが
そこを考えるためには
引用した文章にもあるように
まずは自分がどんなケアを
受けてきたのかを
認識することからしか
始まらないのだと思っている

自分が受けてきたケアを振り返り
自分が発する言葉に気をつける
前日のバフチンの話で言えば
他者を声なき客体と
見なすような言葉を
無意識に発していないか
振り返ることしかできない
そうすることでしか
発する言葉を自分で制御できないのではないか
そう感じる毎日である

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