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46 与えることと受け取ること(ケーススタディ)

<初めに>

私は以前より与えることの重要性を繰り返し述べてきた。
記事7925262728 参照)

特にお金持ちになりたい人、さらに絶対的幸福(記事44参照)を得たい人はそうすることをお勧めする。

いつの時代も世間はこう言う。

人生は才能! 

努力こそ大切!

学問・学歴が重要!

気配りが大事!

誰よりも先に自分をアピールしろ!

時流に乗れ!

・・・等々

だがそれらを実行すると本当にお金持ちになったり幸せになれたりするのだろうか。

努力が報われない事例は掃いて捨てるほどある。

学歴は一種の身分証明にはなるが、高学歴難民という言葉が出ているくらいで、学歴があっても貧窮に苦しんだり犯罪に手を染める人もいる。

気配りが空回りしている人、アピールし過ぎて煩がられる連中も多い。

時流に乗っているつもりでも何も積み重ねてこなかったため、気がついたときには取り返しがつかない人生になった人もいる。

社会経済的に成功して豊かになる人と失敗して貧窮に苦しむ人

真理追求・覚醒への道を歩み続ける人と過って道から外れる人

その違いはなんであろうか?

やはり私の答えは一つで変わらない。

与えているかどうかである。

真にスピリチュアルな生き方をしている人は「今、この瞬間」を生きているが、偽スピリチュアリストはそれを「今さえよければいい」と都合のいい解釈をして身を崩す。

偽スピリチュアリストの見分け方は簡単である。

聖者のように振る舞い美しい言葉を語るが、人類救済のためと称してお金の寄付を求め、隠れてそれを自分の生活費や遊興費に使っている。

<見返りを求めるということ>

多くの人が陥るケースは、与えるという行為には見返りを得るという目的が常に影のようにつきまとっていることである。

真の成功者の「与える」という行為には見返り、リターン、下心というものが一切なく、その影すらない。

与える人生は自助努力、他人への献身、意識覚醒が促され、目に見えない高次元とチャネルができる道である。

目に見えないところから様々なメッセージや援助が与えられるから、謙虚に感謝してそれをいただくことで人生は充実していく。

一方、金銭や物を受け取るだけの算盤を弾き続ける人生は、意識が眠り物理的世界しか感知できない状態が続く。
そして高次元のチャネルが断たれて低次元のアストラル界とチャネルが構築されてしまう。

受け取れて嬉しいと感じるのは、生活保護が受けれて嬉しい、ホームレスが大晦日の炊き出しが貰えて嬉しいというものとなんら変わりはない。

つまり徹底的な他人依存の人生を歩むことになる。

冒頭に述べた、才能、努力、学問、学歴、気配り、自己アピール、時流にのる、
それらを駆使しても成功しない人々は見返りを求めすぎているということが原因に挙げられる。

受け取ることは与えることの副産物でしかなく、天からの授かりものとして感謝して受け取り、その一部または全部をさらに他者に分かち与えることが重要である。

「才能」を自分だけの欲望のために使う人
「努力」はするが自分の利益のためだけで人のためにそれをしない人
「学問」を極めても世に出ず閉じこもって学習をし続けるだけで社会に還元しない人
「気配り」は単に処世術、組織内遊泳術として自分の地位を守るだけに用いる人

このような人は与える人ではなく奪い受け取る人である。
多少なりとも社会経済的安定は得られるが内的平和、絶対的幸福には辿り着けない。

「人のため世のため」という言葉は道徳臭がするので個人的には好きな言葉ではない。
実際、義務感や強制感で行ったり偽善者が自身の下心を隠すために用いられることが多い。

だが、あくまでも自発的に喜びを伴って「人のため世のため」に才能、努力、学問、気配りなどの行為をするならば、それは与える行為となる。

つまり与える行為にも愛の純度、意識の高低の違いがある。

大切なのは行動の動機、意図である。

慈善活動やボランティアや寄付を実践している人にも何らかの下心、利権狙いで動いている胡散臭い連中は本当に多い。

そういう人々は愛を与えているという自己アピールに余念がないが、目の前に困っている人がいても、誰も見ていなかったり、または金にならないと分かれば無視して何も助けようとしない。

彼らは名誉または金になる善(?)しか為さないのである。

善は人知れずまたは匿名で行うのがよい。

それは、エゴの常套手段である「世のため人のため」という言葉を使う機会を与えないために非常に有効な手段である。

下心、利権、売名狙いで慈善行為を行う連中は必ず実名でアピールするからである。

<私自身の過去を振り返って思うこと>

これまでの人生を振り返ってみると、私、ヌートピアンは何の才能もなく大した努力もしてこなかった。

人への気配りも不得意。自分をアピールする、時流に乗るなんて最も苦手で上手くいった試しはない。

そんな私がそこそこの社会的地位を築き、今では野村総合研究所の定義でいうところの超富裕層にカテゴライズされている。

私が行ってきたのは

寄付、長期投資、真理探求

ただそれだけ。

寄付活動はユニセフへの寄付から本格的にスタートして25年になるが、その前に絶滅の危険にある動物保護や盲導犬育成支援を行っていた時期から数えると30年になる。

ユニセフへの寄付は、無職・無収入の時代にも止めることなく続け、収入増に伴い寄付先もどんどん増やしていった。

投資については最近、日本株にシフトしつつあるが、米国株を中心とした長期投資を続けてきた。

個別銘柄の投資は25年、投資信託デビューから数えたら30年になる。

投資もお金が倍になるとかそんなことは求めなかった。ただAmazonやApple、Teslaという企業を愛しただけだ。

そういう気持ちでないと、同じ一つの銘柄に10年、20年というスパンで持ち続けることはできなかっただろう。

真理探究、瞑想は始めて40年になる。

その成果の結果かどうか知らないが「絶対的幸福」を体験している。

まだ道半ばの修行者であるが故に常時「絶対的幸福」を感じているわけではないが、人より幸せの沸点が低いようで、ちょっとしたことで幸せを感じることが多くなった。

瞑想はただ集中すればいいということではない。

成功法則でよく言われる...

「お金持ちになっている自分をイメージする」「成功している自分をはっきりと心に描く」

それらは瞑想ではなくサイキックの領域である。

神の計画に適った願いの実現のためにそうするならまだしも、我欲でそれを行ったら実現したとしてもこんなはずじゃなかったと思う結果を迎えるだろう。
(サイキック領域については記事414243を参照)

瞑想は自己放棄である。

自分を神に捧げる行為である。

見返りを求める瞑想は瞑想ではない。


昨年から日本の神様との交流も始まったが、私から求めたものではなかった。
傲慢かつ失礼な言い方になったら謝らせていただくが、神様の方から私に声をかけてくださったのだ。
記事20

投資、瞑想、寄付

これらのベースは全て「与える」ことで見返りは求めなかった。

見返りを求めない行為は全て「与える」行為であり、高次元からの祝福があることを私は理解した。

私はその与えることの重要性を繰り返し述べてきた。

つまり、読者のみなさんに向けて私のできることとして、成功のための重要な秘密の開示と解説は既に実施済みである。

経済的に豊かになりたい人、絶対的幸福を得たい人は私の過去の記事を是非読んでいただきたい。
(記事も全て無償で提供されている)

与えるというと、子供の頃たまたまTVで観た「若草物語」の洋画を思い出した。劇中に三女ベスとローレンス老人の交流のシーンがあったが、そのシーンに子供ながらに感銘を受けた(ここでは詳細は割愛。映画を観てほしい)。

若草物語(1949年)

私は当時から不器用で人付き合いが苦手だったせいか、気難しいローレンス老人に未来の自分を投影して観ていたのかもしれない。
与えることの美しさを教える古き良き映画であった。
(案外、このときの感銘した気持ちが私の心の中に与える種が植えられ、それが芽となり大きく成長したのかもしれない)

<愛を語ることと愛を実践することの間にはギャップがある>

スピリチュアル系の人の多くが私同様に与えることの美しさ、愛の尊さを語っている。

どこのブログやSNSでも読むだけでうっとりするような記事で溢れている。

だがそれらの多くはお花畑を歩いているというか、どことなくふわふわした感じで現実味が伴っていない記事も多い。

おそらくは筆者自身が十分に与える経験をしておらず、本に書かれていることをただ引用しているだけだからかもしれない。

愛の実践は口で言うほど簡単なものではない。

自分のエゴ、社会のエゴとの戦いに勝利しないと愛は実践できない。

それらに打ち勝つためには愛だけでなくエゴの分析、研究も必要である。

従って私の説明が時に辛辣になるのをご容赦いただきたい。

願ったら翌日、翌週にそれが実現したというような体験談もよく見かけるが、短期的な願いで実現するものは小さいものばかりになる。

意識レベルの向上においても経済的繁栄においても、大きな飛躍を得るには長期にわたる継続、蓄積が必要である。

さて、ここまで与えることが重要だと書いてきたが、上述したように、現実社会で実際に与える行為を行うことは簡単ではない。ちょっとした摩擦すらある。

与えることがいつでも感動を呼ぶとは限らない。
(映画やドラマではいつも感動のお花畑ですがね)

与える側のハートと受け取る側のハートが感応して感動が得られるのは稀であり、むしろ与える行為は人間のエゴの観察、エゴに対する理解の場になり、時には問題提起のきっかけとなったり、現実的な社会の仕組みを改めて知る機会になる。

もちろん、映画のような感動が得られないのは、私、ヌートピアンの未熟さが原因であることも否定しない
(ここまで偉そうなことを言うだけ言って最後に言い訳するなってか)

そのようなややほろ苦い実例を私の経験から二つ紹介してみよう。

<事例1 国連系難民保護団体への寄付>

先日ある駅前を歩いていたら、街頭募金を呼びかけている若い男性達がいた。

ユニセフかと思ったらそうではなかった。

話しかけるとよく間違われますとのことだが、ユニセフが子供のための支援団体であるのに対して、その団体は難民保護を中心とした団体とのことだった。

賛同できる内容だったので、今回はちょっと奮発しようと思い千円札を取り出して募金箱に入れようとした。

ところがその瞬間、

ちょっと待ってください!
これは募金箱ではありません!

該当募金を呼びかけていたその男性の一人が、そう言いながら私がお金を入れようとするのを遮った。

長年生きてきたが、募金を募っている人から募金を遮られるなんて生まれて初めての経験である。

私は怪訝に思い、人が寄付すると言っているのになぜ遮るのかと尋ねた。

彼らが言うには、私が募金箱と思ったものは箱の形をした宣伝用のパネルに過ぎず、彼らは現金の寄付は受け付けていないと言う。
(この時点で理解不能)

そして一回だけの寄付ではなく、毎月定額で継続できる寄付をするようにと訴えて、私にクレジットカードを出してここに登録をしてほしいと、タブレットを差し出してきた。

そしてこのタブレットの画面に従い、本名から住所からクレジットカードの番号を書かそうとする。

私が思うに、一回きりの現金による寄付も、毎月定額の寄付も、どちらも慈善の志として優劣はない。毎月は無理だけど一回きりなら寄付できる人も多いはずだ。あなた方はそのような気持ちを否定するのですか? と私は問い糺した。

そのとき、タイミングよく通りすがりの女性が私と同じように募金箱と勘違いしてお金を入れようとした。
彼女もやはり男性から遮られ、毎月の定額寄付をしてほしいと依頼され始めた。

その女性は毎月は経済的に苦しいのでと、頭を下げながらばつが悪そうにして後退りし、せっかく寄付しようとしたお金を引っ込めて去っていった。

今の見たでしょう。私が言う通り、皆さん誤解していますよ。
この箱はどう見ても募金箱に見える。これは罠、囮なのですか?
人の善意を否定してまで毎月の寄付が欲しいのか、一回だけの寄付も受け付けるべきだ、と私は迫った。

写真は本文と関係があります

ヌートピアン様のご意見は上に伝えますが、これは決まりだからと言って、一回きりの寄付を頑として受け付けない。

この団体は◯◯なのか?(品は悪いが◯◯は侮蔑語)

と私は思った。

だが、その1秒後、反省した。
(ゼロ秒で反省できたら私は覚者である)

口は出すが金を出さないじゃクレーマー扱いされるだけだから、口を出すなら金も出すことにした。

文句を言うからには毎月の定額寄付には応じますよと言って、私は彼からタブレットを奪い登録手続きを始めた。

だがトラップも仕掛けた。

そちら様も街頭募金大変かと思いますが、ちなみにご自身では毎月おいくら定額寄付をされてますか? と尋ねた。

その男性は、即座に私は三千円しています、その隣の男性も即座に、私も三千円しています、と即座に答えた。
(返事に躊躇したら偽善者認定しようとしたが、その目論見は外れた)

そうですか、まあ一回きりより毎回お金が入れば勧誘する方もラクですよね。
一度捕まえたら私も食べてくださいと言いながら他のカモが毎月やってくるなんて、ネギ背負ってタレまで塗って来るカモ以上ですね、
などと話しながらタブレットを操作していた。

彼らは狼狽えながら、いやー決してそんなことはなく、何たらかんたらと言い訳にならないことを言いながら、彼らは深々と頭を下げた。

そして、ヌートピアン様この度は本当にありがとうございます、いただいたご意見は必ず上に伝えますのでと繰り返し言い続けるのを、私は聞きながらその場を去った。

その時は、彼らは自ら寄付していることだし、きっと悪い人ではなくむしろ善人の範疇なのだろうと思った。

だが後日ネットで調べたら以下の募集がなされているのを知った。

彼らはボランティアでも職員でもなくただのアルバイトのようだ。

これでは本来の目的である難民支援につながらない。アルバイトの主目的はバイト料を得ることだからだ。

成果級がプラスされる仕組みでは毎月定額の寄付をさせた分、彼らの儲けも増えるので必死で勧誘するだろう。
難民のためではなく自分のバイト料をより多く貰うために。

穿った見方をすれば、彼ら自身も毎月寄付をしていますと言っていたが、聞かれたら三千円やっていると答えろ、とマニュアルができているのかもしれない。
(真実は知らない。ただの推測である)

こうして難民支援のための寄付金はどんどんバイト料として抜かれる。

それでも残ったお金は難民保護に使われるだろうが、その支援活動は私たち寄付する者の愛は届いても国連関係者の愛はないから届かない。

国連はウクライナ紛争やガザ地区のパレスチナ人保護に無力であり続けているが、見返りを求めない無償の愛を捧げるならば、世界中の紛争に終止符を打てるのではないだろうか。

だが、一番寄付金を集めた者が経済的に潤い出世していくシステムであればこれからも改善はされないだろう。

<事例2 神社の修繕に対する寄付>

私は真理探求を続けながらずっと無信仰でいかなる宗教団体からも距離をおいていた。

それは今でも変わりはないが、一昨年の9月から日本の神様から声をかけられて神社に参拝するようになった。

昨年の7月頃だったが、その神様の中でもイチキシマヒメから縁があることを知らされ、小さな女の子たちの援助をしてほしいと言われた(記事36)。

当時の記事の補足になるが、そのメッセージは今も続いていて、最近も小学生の女の子が二人、私に向かってくるヴィジョンを見せられた。

その代わりというわけではないが、私の金運はイチキシマヒメがサポートしてくださっていることも教えられた。

イチキシマヒメは弁天様でもあるから、お金に関するサポートもお仕事の範囲のようである。

以前の記事に書いた通り、イチキシマヒメは非常に美しい女神様だが実に質素な作業着または学生服の姿で現れる。御姿を通じて労働、学問の尊さを伝えられている。

私の場合、長年、ユニセフを通じて小さい子供たちへの寄付をしてきたし、プランインターナショナルジャパン、ワールドビジョン、かものはしプロジェクト、日本雲南聯誼協会等を通じて、特に恵まれない女の子の生活費、教育費の寄付を継続していたから、神様の目にとまった? ということなのかもしれない。

実際、私からイチキシマヒメを呼んだわけではない。私は自分の守護天使にコンタクトとろうとしたら降臨されたのである。

ここでその降臨については、前回記事45に述べたような本格的な降臨ではなく、記事36で書ききれなかった簡単な背景、エピソードを二つ述べておきたい。

私はとある県の神社に参拝した。
当時は市販の神社巡りの本に従って機械的に神社を巡っていただけだが、その神社はイチキシマヒメの妹神である(姉神という説もあり)タギツヒメを祀っていた。
イチキシマヒメが降臨されたのはその1週間後だった。

なぜ直接参拝したタギツヒメではなく姉神のイチキシマヒメが降臨されたのか、私は今もってわからないが、どうも姉妹神ということもあるから高次元ではネットワークができており、人間側の意志と行動、それに元からあった神との縁や高次元の計画に従って全てが整うようである。

もう一つのエピソード、これは最近知ったことである。

私は降臨と書いたが、私自身の意識レベル、霊格では神々の降臨などとんでもなく、その器ではないようである。

そもそも、日本の神々は絶対神GODではないが、高次元でも特に高い次元に存在する高級神霊であり、降臨したくても低波動の三次元に降りるには数々の条件を突破しなければならない。

高級神霊である神々も肉体を持たない限りそれは難しく、高次元で策定された人類の霊的進化の援助計画を遂行するには肉体を持って実際に転生するか、現在肉体を持っている我々人間に手足となって行動してもらうしかないようである。
(参考:記事35

私に降臨していただいたイチキシマヒメも直接の降臨ではなく、どうも神々の代理人という方が中継してくれたようである。

というのも、その代理人は私の瞑想中に現れて
「私は神様の代理人の〇〇です」と
自己紹介してくれたからである。

その代理人の方の名前はここでは明かさないが、この世の身体を持たない、高次元にいる女性である。

高次元に存在する神社の禰宜、巫女のような役割をされているようである。

このような方が働いて取り次いでくれるから、私も日本の神々と交流できているのである。感謝。

さて、余談が長くなってしまったので事例に入る。

都内で弁天様、イチキシマヒメを祀っている神社に参拝した時のこと。

そこでは神社の境内の建物をあちこち修復しなければならなかったので、寄付金を募っていた。

普段の御朱印は500円だが、その神社の拝殿、本殿の修繕へ理解ある方には5千円で受け付けるとのことであった。

私はこれまで語ったようにイチキシマヒメと縁があることを自覚していた時期だったので、その時も寄付込みの5千円の御朱印をいただくことを申し出た。

五千円の御朱印

社務所では年配の女性が応対してくれたが、5千円差し出すと、それではお名前をここに書いてくださいという。

あ、私ここの氏子でないので誰も私のこと知らないから特にいいです、と断って名前を書かなかった。

でも修復に賛同され寄付される方のお名前を出すのにも必要ですので、ぜひ、と言われる。
(神社によくある、捨十萬圓、壱萬圓、伍阡圓という難しい旧漢字で書かれた金額毎に寄付者の名前が出ているアレのことらしい)

そんな掲示は要りません。でも寄付受付の記録がないとご迷惑をかけてしまうのであれば、と言って「〜区在住 匿名希望」と書いて渡したら、なおも困った顔をされた。

では領収書を切りますから、と言う。

それも要らないです、と言ったらもっと不安な顔をされた。

あなた何のためにお金出すの? と宇宙人を見るような顔をする。

この神社が修復されるなら参拝者も喜び、神社側の皆さんも喜び、そして何よりもイチキシマヒメ様がお喜びになると思いますので。それ以外に寄付をする理由があるのでしょうか。

私はそう言ったら、その方は心の中で私の言葉を反芻するかのようにしばし沈黙してから、頭を下げられた。

寄付者として名前がパネルに書き出されて掲示されないと立場がない人もいる。

よくある商店街の自営のお店の主人とか、付き合いが悪いと言われかねないし、店名が掲示されると宣伝効果もある。五千円なら安い効果だろう。

ましてや領収書があれば店負担にできるし、上限はあれど店側も税務上経費で落とせるからありがたいということだ。

その後、別の厳島系の神社へも鳥居修復のため5千円を匿名、未掲示、領収書不要で寄付したが、同じやりとりが繰り返された。

そこではさらに、今後修復後の改築祝いの式典とかあればぜひ参加させていただきたいのですが、と尋ねたら、最近はコロナとかもあって式の後、宴席とかないんですよ、と言う。

こちらがまるでお酒目当てであるかのような言い方である。みんなで祈りたかっただけなのに。

神社の参拝者、関係者の間には

いろいろな大人の事情というものがあるようだが、イチキシマヒメの御心は如何に?

そのような見返りばかり求める参拝者に果たして金運を授けたいと思われるだろうか。

経済的成功や精神的な平和は誰もが求めるが、求めるアプローチをもう少し見直したほうがよいのではないかと私は思う。

以上。

これにて今年の投稿はおしまい。

皆さん、この1年間ありがとうございました。

2024年もよろしくお願いします。

ヌートピアン

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