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44スピリチュアルとサイキックの違い(D領域-ハート・スピリチュアル編)

<D>ハート・スピリチュアル領域

この領域は、エゴに支配されず、サイキック能力に頼らず、愛を生きる人の領域であり、意識の覚醒、悟りに至る可能性を秘めている。

ただし、この領域(D)では意識の覚醒を目指す人々の割合は多いものの、覚醒はごく少数の人にしか訪れない。

なぜかというと、意識の覚醒はエゴの消滅を意味するので、エゴが激しく抵抗して覚醒を妨げるからである。

ましてやエゴ・ノンサイキック領域(A)、エゴ・サイキック領域(B)の大多数の人はエゴと一体化したまま一生を終える。

領域(A)、領域(B)の人からすれば、ハート・スピリチュアル領域(D)の人は変人と思われることもある。

神々、内なるハートの声に従う人は損得勘定を超えた行動をとることが多く、理解し難いからである。

<エゴの観察または自己同一視ー怒りのエゴの場合>

自分のエゴを客観的に観察することは、覚醒に向けた重要な内的ワークである。

エゴを自分自身から切り離してエゴを観察していけばエゴは弱まっていく。

領域(A / B)の人は自分の内にいるエゴを自分自身と思い込んでいるのでこのような観察をしようと思わない。

私たちがエゴの誘惑に負ける度に、エゴはそのときの私たちの感情や言動を養分として成長し、私たちはますますエゴが自分自身であると思い込むようになる。
(悪い習慣をやめられないのはこれが原因)

従ってエゴを自分から切り離して客観的に観察するのは簡単ではない。

たとえば「怒り」のエゴがあるとする。

ハート・スピリチュアル領域(D)の人であれば、誰かに怒りが湧き起こったらー意図的または自然にーその僅か1秒程度遅れてそれを客観視して観察する。
0秒であればその人は既に覚醒している

さらに、相手が悪いと思える理由はたくさんあれど、自分の言動にも原因があることを認めて理解し受け入れる。

そしてそれを十分に感じてから、それに執着せず手放す。

エゴ・ノンサイキック領域(A)、エゴ・サイキック領域(B)の人々の多くは、「怒り」が起こったらまずは我慢しようとする。
(即爆発する人はただの社会不適応者なのでここでは論外とする)

我慢はエゴの抑圧で、沸騰した熱湯の蒸気を上から蓋で密封するようなもので、「怒り」の逃げ場を塞ぐ行為である。

「怒り」を我慢していると、心の中で相手からされたことを何度も何度も心の中で反芻してしまい、それらはエゴの養分となる。

「怒り」の炎が燃え盛ったまま蓋を閉め続けるならば、いずれ爆発する。

その結果、言い争い、破壊行為、失職、経済破綻、暴力等を生む。

それをもし爆発させずにさらに我慢を続けるならば内に向かい、適応障害、依存症、鬱などのメンタル障害、さらに様々な病気の要因になる。

人から酷いことをされ怒りが爆発して自暴自棄になったり病気になる一方で、自分に酷いことをした相手が平然として幸せに暮らしているのをみれば、神も信じられなくなるだろう。

このような悲劇を避けるにもハート・スピリチュアル領域(D)の生き方が推奨される。

<相対的幸福ー領域(A / B)の幸福>

幸せには二種類ある。相対的幸福と絶対的幸福である。

相対的幸福は他人を必要とし、他人に勝ち、他人から賞賛されることで感じられる幸福である。

(相対的幸福の例)
出世競争で多くのライバルに勝って高い役職についた。権限を駆使して思う存分交際費も使えるようになった。
出来が悪い甥だが入社したいというからコネで採用してやり親族から感謝された。

だが仕事そのものは激務でストレスフル。周囲からの依頼もキリがない。そもそもこの仕事は一流有名企業だから入っただけだ。本当にやりたいことは絵を描くこと。だが休日も接待ゴルフ。その絵を描くことすらままならない。

(相対的幸福の例2)
高学歴で将来性抜群のAさんは大人気で彼を狙っている女性は多かった。でも結局、彼と付き合うことになったのは私。他の女性から羨望、嫉妬の眼差しを受けるのは心地良い。来春いよいよ式をあげる。

でも、今はなぜか心がざわつく。
私はAさんのことを本当に好きなの? 
相手の家は何かと小言が多そうだし息が詰まりそう。

これらの二つの例はベタな例だが、その後の人生はあらかた察しはつくだろう。

エゴ・ノンサイキック領域(A)、エゴ・サイキック領域(B)の人々は概してこの相対的幸福を求める傾向にあるが、ハート・スピリチュアル領域(D)は絶対的幸福を求める。

相対的幸福がいつも不幸にとって替わることを知っているからである。

<絶対的幸福ーハート・スピリチュアル領域(D)の幸福>

絶対的な幸福は他人を必要としない。
他人はどうあれ自分の内面で感じられる幸せである。

絶対的幸福は、覚醒・悟りへのプロセスにおける副産物でもある。

だが絶対的幸福を文章で解説するのは難しい。

それは外見に表れないため自ら経験することでしか理解できないからだ。

一つ言えることは、絶対的幸福を得ている人は幸せの沸点が低い。

ほんの僅かなことを嬉しく感じられる。

個人差はあれどいつも至福感があり、何も起こっていなくてもいつも太陽の光を浴びているように暖かい気持ちでいられる。

至福感があるから誰に対しても優しくなれる。

怒ったり、批判をすることは少ないので人から好意を持たれることが多い。

自分が幸せでないと人を幸せにできない、というのは一つの真理である。

<絶対的幸福を得るために>

絶対的幸福はほんの少し意識のあり方を変えるだけでよい。。

以下の8項目は絶対的幸福を得るための有効な方法である。

難しい修行や荒業を想定した人にとってはあまりにも平凡過ぎる内容に思うかもしれない。

だが、誰もがそのありきたりのことができないから世界中で問題が起こり続けている。

そうはいっても、よりチャレンジしたい人向けに( )内を用意した。だが、無理せずできるところから実施していただきたい。

地球人全員がこれらの一つでも二つでも実践したら世の中の争いは一瞬にして止むはずだ。

1 自分の中の思考を観察する
(過去を後悔したり思い出に酔う、または未来を夢見たり心配している自分の思考感情を観察する。覚者は過去や未来ではなく「今」を生きる」)

2 瞑想する
(思考はエゴのお喋り。それが静まるとき真の静寂が訪れる)

3 神を愛し全てを委ねる
(様々な階層から見守ってくれている方々ー神々と呼ばれる高級神霊、守護天使等の存在に気づいた人は、ごく自然にそれらの方々にも日々、感謝を捧げる)

4 あらゆる人の中に神を見い出し愛する
(好きな人や親しい人だけでなく、そうでない他人や酷いことをする人に対しても神を見出す)

5 感謝する
(ありがたいことだけでなく試練にも感謝する。たとえば崖から落ちて大怪我をしても、過去のカルマが解消されたとしてその事故に感謝する)

6 許す
(自分を裏切った人間も愛し許す。彼らは無知で視野が狭かっただけ。盗みを犯した人は他にお金を得る手段を見つけられないほど酷い環境に育ったかわいそうな人たちで、そうするしかなかった。そのように理解できれば、許す気持ちが出てくるようになる)

7 与える
(相手のエゴではなくハートが必要とするものを与える。たとえば勤勉で秀才だが経済的事情で大学に進学できない学生に入学金を出してあげる、働きもせず借金を申し込んでくる者には拒絶する。どちらも「与える」行為である)

8 見返りを求めず今与えられている仕事、使命に真摯にとり組む
(給料以上の仕事をすると損だと思うなら相対的幸福しか得られない。自発的に、もらうお金以上の仕事をすればするほど、コップに一滴ずつ水がたまりいずれは溢れ出すように、絶対的幸福が溢れ出す)

<絶対的幸福の波動の恩恵>

絶対的幸福の波動は高次元の波動である。

周囲の人々もその高い意識の波動を浴びれば大いなる恩恵を受けることができる。

ハート・スピリチュアル領域(D)では優秀な人が多いが、仕事が抜群にできるわけでもなく積極的に仕事をしているわけでもないのに、どういうわけかいるだけで周囲を明るくポジティブにさせる人も多い。

普段から困ったことが起こればその人に相談したくなるし、解決に至らずともその人に悩みを打ち明けるだけで心が安らぐ。

そのような人は明らかに絶対的幸福度が高い=意識が高い人である。

もちろん優しいだけではなく、時には厳しいことを言ったり行なったりする。どちらにも共通していることは損得勘定を超えた無償の愛である。

意識レベルの高い人から放射される高波動のエネルギーや愛は、受け取る側のハートに届きやすく、受け取る側の意識レベルも上がる。

ヘレンケラーとサリヴァン先生の出会いは有名だが、教育指導を通じて師のエネルギーが教え子のハートに届き、生徒の意識レベルを著しく高めた例である。

<選択と判断ー領域(A / B)>

エゴの領域(A / B)は高次の援助も守護天使のメッセージを感知できないから、自力で全てを選択して判断しなければならない。

人間は不完全な存在であり、自力だけの選択、判断には大きなミスがつきまとう。

ましてやエゴに支配され欲まみれであれば、目先の欲望が優先され、長期的な展望や俯瞰的なものの見方ができなくなる。

たとえば、年月を要する長期投資よりはすぐに結果が出るパチンコや競馬などのギャンブルを選択しがちで、人生は失敗の連続になる。

もちろんエゴ領域(A / B)といっても能力や才能に恵まれていれば社会的、経済的に成功する人も多い。

だが全ての行動は損得計算、打算、不安、恐れ、功名心といったエゴに基づき、他人は全て敵か競争相手とみなすから、裏切られたり、騙されたりしないよう何重にも索を張り巡らすので、選択肢が膨大となり、それら全てに対応しようとするから疲弊する。

エゴが介入すると状況が複雑化するので、選択の判断そのものがさらに難しくなる。

そしてどの策を選ぼうと、それは全体と調和せず一人よがりの選択であるから、いくら成功しても心から喜んでくれる人はいない。

賞賛するのはおこぼれにあずかろうとするお金目当ての利害関係者だけである。

<選択と判断ー領域(D)>

ハート・スピリチュアル領域(D)にかなう生き方をしていると、選択も判断もシンプルになっていく。

エゴの領域ではエゴのパワーである自力が必要だが、ハートの領域では自分自身は無力でよい。

自己=エゴを放棄して無力になることで、高次元の神々に導かれ始める。

もちろん選択や判断がシンプルになると言っても、実際面ではこの社会においては選択や判断の結果が重要な影響を及ぼすことも少なくない。

だがその選択と判断は、考え悩み抜いて行うのではなく、出会うもののうち、自分が一番抵抗感がなく、愛を感じるものを淡々と選び受け入れることで、最善、最適な選択となる。

ハート・スピリチュアル領域(D)は策略を用いず無理もしない。

目の前に起こる事象は全て神が与えてくれたものだという確信があるからである。

つまり

あなたがそれを選ぶ前に、神があなたを選んでいる。

その事実そのものに感謝し、ハートが感応するものを選ぶだけでよい。

<人生はゲーム>

若い人は知らないかもしれないが、昭和の頃、ゲームセンターにカーレースのゲームがあったのを覚えているだろうか。

車がバーで固定されていて、描かれた道路や風景がローラーで動くだけのシンプルな構造だが、ハンドルを左右に動かすだけで車が走行しているように見えるあのゲームである。

ハート・スピリチュアル領域(D)の視点で観ると、人生はこのゲームに似ていることがわかる。

自力で前に進む必要は全くなく、道の方から勝手にやってくる。

道路が分岐している場合、良い道だと思うなら進路を変え、今のままで良いと思うならまっすぐ走るだけ。

無理しなければならないことなど一つも起こらない。

道から外れたら減点されるが致命的なことは何一つ起こらない。

実際の人生も同じである。

たとえば新型コロナにでも感染したら、それは不幸ではなく災難でもない。

ただ普通に仕事を休んで養生すればよい。
そして元気になればまた仕事を再開すればよい。

深刻に考えず、できることを当たり前に淡々と行えばよい。

その結果、発熱しても数日で治まり、仕事の繁忙期ではないから休んでも迷惑はかからなかったなど、不幸中の幸いといった現象が起こる。
むしろ良い休養になったと思えば良い。

だがエゴに支配された人なら、熱が引いても不安は引かず、後遺症を恐れ、やみくもに他の医者の診断を受けて自ら薬漬けとなり体調を悪化させるかもしれない。

心配、悲観、後悔、怒り...

そんなネガティヴな感情を持つから運命はこじれる。

運命は思い通りに行かないと思えば思うほど、損をしないようにと人生を利己的な感情で突き進み、得になりそうなものは他人を押し除けてでも自分のものにしようとする。

そして人生という名のゲームの中で与えられる選択肢だけでは物足りなくなり、他にもっといい道がないかとハンドルを振り切りゲーム台自体を故障させてしまう。

または人生でのミスをゲームのミスのように捉えることができず、再トライできるのにもかかわらず致命的だと思い込んで絶望して自殺する人もいる。

もしあなたがスピリチュアルに生きようとするならば、何が起ころうとそれはあなたのために用意されたものであり、あなたが自ら探し出す必要は何もないということを理解すればよい。

そして動揺せず、抵抗せず、淡々と自分に訪れる出来事のうち、自分にふさわしいと感じたものを選ぶだけでよい。

道を誤っても、元の道に戻れる機会は何度も訪れる。

人生はゲームと同じで、失敗から学ぶことでより経験値を高めてよりハイレベルなゲームにもチャレンジできるようになる。

そのようにして私たちの人生はさらに充実していく。

人間の力など小さなもので神の前では無力に等しい。できることは可動域の範囲でハンドルを操作するだけ。

だがそれだけで、ゲームの車のようにポジションは常に安定し、周囲の環境の変化、運命の変化に抵抗せずそれらを楽しむことができる。

進める道を歩みなさい、見える風景を楽しみなさい、すれ違う車に笑顔で応えなさい、一緒の道をずっと一緒に走る車はあなたと縁があるね、と人生は無言で教えてくれる。

この地球での転生が一回のゲームであり、私たちの身体はゲームのキャラクターにすぎず、永遠のものではない。

今与えられているキャラクターは最初から強い場合もあるが、ハンディキャップがあることもある。でもその方がやりがいがあり面白いし、腕前が上がりやすい。

カルマを作ってしまえば、来世のどこかでその解消の機会(事故や災難に会う機会)が与えられる。

でもそれ自体をなくすための懺悔や善行の機会も十分に何度も与えられる。

全ては神の配慮で全ては最適な時期に与えられる。

全てがOKなのである。

<ゲームの終わり>

そして人生ゲームという仮の世界のキャラクターもいつかは終わりの日が来る。


それを操作する魂、ハートは永遠の存在であるが、ゲームをもう一回やろうと思ってもうコインはもうないかもしれない。

だからこそ一回一回のゲームを楽しまなければならない。

ゲームの目的は勝ち負けではなく楽しむことだからだ。

批判、怒り、嫉妬、怠惰などに心を奪われていてはもったいない。

私たちが人生ゲームに勝とうが負けようが、いずれにしても宇宙全体の経験値が増えていく。

それ自体が高次元の世界にとっての恩恵となり、神の計画も果たされていく。

そのためハートの声を聴き、神を愛することで、高次元の存在から人生のヒントを授かることもある。

そうなればよりスムーズにゲームは進み楽しくなる。

人生ゲームの目的は勝つことではなく楽しむこと。

それが分かればサイキック能力など必要なくなる。

そんな能力に依存しないと得られないものなどないということが分かるからである。

そうなればゲームを卒業する時期も近い。

全ては与えられている。

全てがOKなのである。


読んでくれてありがとう。

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