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45 スピリチュアルとサイキックの違い(E領域-ハート・スピリチュアル+降臨編)

<E>ハート・スピリチュアル+降臨 領域

真摯にスピリチュアルな生き方をしていると、サイキック能力を持たないにもかかわらず、科学では証明できない事象、普段出せない能力や行動力が顕現する可能性がある。

ハート・スピリチュアル+降臨の領域(E)は、ハート・スピリチュアル領域(D)の人々のうち、(たとえ一時的であっても)高次元の存在が降臨された人の領域である。

ここでいう「降臨」とは、高次元の神々が自らの意思で人々に恩寵、慈悲を与えるために、特定の人物を通じてその愛、光、力を現すことである。

降臨された人物がサイキック能力を含む各種能力や行動力を発揮したように見えるが、彼ではなく、彼を通じて高次元の存在が行っている。

そして降臨される人はその降臨自体を一切コントロールできない。

私たちが好むと好まざるとに関わらず、高次元の意思により降臨は起こるべき時に起こる。

<降臨の分類>

1)奇蹟
降臨を受けた人が、この世において物理的にあり得ない事象を体験すること

2)偉業(離れ業)
降臨を受けた人が、普段の技能からはあり得ないパフォーマンス(偉業)を行うこと

3)啓示・神示(神託)
降臨を受けた人が、神のお告げを直接授けられること

いずれのタイプの降臨も、私たち人間にとっては驚きや感動が与えられ、多くの人々が目撃すれば伝説として語り継がれ、降臨を体験した人はその後の人生が変わる。

そのエネルギーは非常にポジティブであることから、降臨の主体は高次元の存在(仏教における仏、神道の神々のような高級神霊、キリスト教における天使クラス)であることがわかる。

人霊や自然霊、低級霊もコンタクトしてくる場合もあるが、これらの存在は上述したような高いエネルギーを発揮できないので今回のテーマ対象外とする。

この三つのタイプごとに以下、考察する。

(1)奇蹟

大規模な事例としては「ファティマの聖母」が挙げられる。これは神示の事例でもある。

有名な事件であるので説明は割愛するが、聖母に会った3人の子供は、その意識レベルがハート・スピリチュアル+降臨領域(E)だったということになる。

他にも各宗教で語り継がれている奇蹟はいくつもある。

個人的な奇蹟も、小規模であるから歴史には残らないが、これまでも数多くあったことと思われる。

私個人の経験は⑶の啓示が殆どで、奇蹟と言える例は記事19に記したケースくらいしか思いつかないが、確かに人生が変わった。

(2)偉業

科学、芸術、音楽、スポーツ、政治、分野に制限はないが、普段は平凡で注目されない人物が、突如、才能や集中力を発揮して驚くような偉業を成し遂げることがある。

歴史に残る全ての偉業が降臨によるわけではなく、人類のエゴによるものが多いが、降臨によるものもある。

以下は、降臨がなされた可能性が高く、考察の例として掲げる。

[考察1] オリンピックの起源

・古代オリンピック 降臨された神 ゼウス神(以下も同)
・近代オリンピック 被降臨者 提唱者クーベルタン男爵
・第一回ギリシャ大会のマラソン 被降臨者 優勝者スピリドン・ルイス

ゼウス神


古代ギリシャにおいて神々が降臨され、競技会を行えとの神示があり競技会が始まった。
(オリンピックの起源)

近代オリンピックはクーベルタン男爵の呼びかけによって始まったが、それも神々の意思が働いており、男爵自身が降臨を受けた。
(偉業というよりは神示だが)

クーベルタン男爵

第一回オリンピックは古代ギリシャの理念を復活される神事であり、古代オリンピックの起源であるギリシャの首都アテネで開催された。

ところが、その開催国ギリシャは伝統ある陸上競技で優勝を逃し続けたため、国全体が失意の最中にあった。

競技種目の中では一番権威があったマラソンに、国王・国民が一体となって最後の期待を寄せた。

それはエゴや欲ではなく、純粋なるハートの願い、ギリシャの神々に捧げる祈願であり、神々を動かした。

そのマラソンでは全く無名でノーマークだったギリシャのルイスが優勝し国中を熱狂させた。

勝負事にはビギナーズ・ラックというものがある。プレイヤーが初心をもって行うときは、慣れないこともありエゴの介入がないから、目に見えない力が降りやすい。

そして最初は勝ててもそれが持続できないのは、当人の慢心や欲が出るからである。
初心を持ち続けることがいかに大切か。

余談だが、古代ギリシャにおいては、アテネやスパルタなどの各国が戦争に明け暮れていたが、オリンピック開催中は「聖なる休戦」に入りそれを守った。

オリンピックは神々に捧げる神聖な儀式であったから人間同士の醜い争いで血を流すことは避けなければならなかったからだ。

ところが、近代オリンピックになると逆に戦争のたびに大会が中止に追い込まれた。

ゼウス神の神示、近代のクーベルタン男爵の理念は無視され、オリンピック本来の意義からすれば、まさに本末転倒である。

古代オリンピックも末期は腐敗して開催されなくなったし、近代オリンピックもご戦争のたびに中止になるだけでなく、商業化が進み金を生むことがわかると、逆に国民が反対しようが開催を強行するようになる。

2021年開催の東京オリンピックでは一部の国民から反対の声が上がったが、その国民の反対は崇高な理念に基づくものではなく、政府批判の道具として用いられただけであった。

代表選手たちはこのオリンピック参加のために何年も長時間のトレーニングを重ねてきたが、それにもかかわらず、オリンピック反対を叫ぶ人々は、選手たちに参加辞退を迫った。

そこには選手に対しての敬意もなければ思いやりも配慮もない。

あるのはただ自らのエゴを満足させるという目的だけであった。

1964年の最初の東京オリンピックの成功は日本国民として誇らしく思った人が大勢いたが、今ではゼウス神の降臨の影響力は影も形も無くなった。

降臨の影響は長く残るとはいえ、人間のエゴが入り込むことによってその恩恵は徐々に失われていく。

[考察2] 69連勝

・日本の国技としての大相撲
(降臨された神 タケミカヅチノオオカミ、ノミノスクネ)
・双葉山の69連勝
(被降臨者 双葉山、降臨された神 同上)

相撲の神様と称される程の大横綱である双葉山が69連勝を遂げたのも、日本の神々の意思が働き降臨された。

横綱 双葉山(太刀持 名寄岩、露払 羽黒山)

相撲は神事であるから横綱になるほどの力士はいずれも何らかの高次元の意志が働く。

なかでも双葉山は特別だった。

連勝中はどれだけの精神鍛錬を重ねてプレッシャーを跳ね返す程の平常心を保つ努力を重ねてきただろうか。

谷風や雷電をはじめとした、江戸時代の強豪力士の連勝記録は引き分けや不戦勝、預かり無勝負、さらに休場も間に挟みながらの記録であり、横綱が負けそうになったら行司が間に入って引き分けにすることもあった。

当時は大名のお抱え、つまり勝負にもスポンサーの意向が働いたのだ。

これでは降臨の余地はない。

双葉山の69連勝はそれらが一切なく、不戦勝すらない完全無欠の連勝記録。

これは神々の降臨がないと無理な記録と思われる。

戦後の大鵬、北の湖、千代の富士、白鵬などの戦後の大力士をもってしてもその記録には届かなかった。これもまた神々の意思が働いていた。

ちなみに、オリンピックの項目でも触れたギリシャ神話のゼウス神は、この日本大相撲に深く関わったタケミカヅチノオオカミと同一神であるという説があるが、私もその説に同意する。

以上はスポーツ競技の例だが、科学、音楽、文学、政治その他、あらゆる分野で降臨は起こりえる。

また、上記のような重みのある歴史的出来事だけでなく、小さな規模、たとえば小学校の運動会や学芸会だって、神が降臨することはあり得る。

ずっと跳べなかった高く段を積み重ねた跳び箱を初めて跳べた、海で溺れて泳げなかったのに数キロを泳いで岸に辿りつけた、という降臨もあり得るからである。

(3)啓示・神示(神託)

ここでの定義として、「啓示」は降臨を受ける当人に対するメッセージで他者への直接の影響はないが、「神示」は国レベル、人類規模を対象としたメッセージである。

規模は異なれど、いずれも高次元の意思、メッセージである。

私たちが普段から意識レベルを高めることに励み、瞑想の実践等を通じて無思考状態、静寂の状態に入れば、「啓示」を受け取ることができる。

日常の活動中で瞑想状態に入れない場合は、様々なシンクロニシティを通じてその「啓示」が与えられる。従って、常に先入観を排除してニュートラルな状態で全てを観察することが望ましい。

「神示」の経験はなくても、頻繁に「啓示」を受けるようになればハート・スピリチュアル+降臨領域(E)に足を踏み入れたと考えた方がよい。

日月神示を書き起こした与岡本天明氏、そのほか、突然の神がかりで神示を受けた人々の一部は宗教の開祖にもなったが、彼らは自分の意志で降臨を望んだわけではない。

だが、ハート・スピリチュアル+降臨領域(E)に入り実際に降臨を受けたら、もはや神々の計画の実現のために、高次元の手足となって働くことが期待される。

降臨は神々の恩寵で与えられるといっても、人間の視点、価値観からすれば、穏やかに過ごしていた日常生活が失われ、むしろ試練としか思えないこともある。

前項で例に挙げた大横綱の双葉山も連勝中は枕を高くして眠れなかったに違いない。

ただし降臨は短期間で、また領域(D)の絶対的幸福に満ちながら通常の生活に戻れるかもしれない。人によっては一生続くかもしれない。それは誰にも分からない。

「神示」は自動書記や特定の人物を霊媒状態として伝えられるなど、プロセスは様々である。

実際に見えない世界とコンタクトをとる霊媒師や占い師がいるが、彼らの多くは(特に自らそれを職業とした者は)、その能力を使って金銭を得ること、有名になることを目的としている。
(つまり高次元の降臨をエゴレベルで欲している)

従って職業上の霊媒師、占い師はエゴ・サイキック領域(B)であり、高次元の存在の降臨はない。

サイキック能力を放棄して神へ純粋な祈りを捧げるなら降臨の可能性がある。

霊媒体質であることと高次元の降臨に直接の関係はない。霊媒に憑くのはその人と縁のあった故人、アストラル界の精霊系が殆どである。

ただし、口寄せ、シャーマン、神がかり、憑依系は全てネガティブか一般人と変わらぬレベルの存在しか来臨しないかというと、決してそうではない。

見返りを求めないハート・サイキック領域(C)の霊媒であれば、守護霊クラスまでは降りることはあり得る。その能力を完全に放棄すればより高級神霊である神々の降臨もあり得る。

歴史を振り返ると、興味深い事例の記録がある。

現代における神道の巫女は、神社の社務所で事務仕事を行なったり、巫女舞を捧げる役割に限定されているが、古(いにしえ)の時代では神がかりによる神託を得ることを期待された。

しかし私が思うに、正真正銘の神示・神託はそれほど多くはなかったと思う。それだけE領域の人は少数だからだ。

権謀術数がはびこり、巫女が誠実に対応したとしても、神託の結果は政治的な策略が介入して改竄されるケースも多かったと想定できる。

しかしながら、巫女については以下のように考察できる。

古代では、神道系の巫女は現代のように職業選択の自由を通じて自らその役についたわけではない。

つまり現代の職業としての占い師やスピリチュアリストのように金銭や生活のために応募したわけではなく、神に使える神聖な役割を任務として与えられた。

それゆえに好き勝手に何か神託を願うことはなく、常に時の朝廷の命を受けて行っており、巫女である期間は独身を貫くなど、質素清廉な生活をしていた。

まさに領域Dの生き方だから領域Eに入る可能性は十分あったと思われる。

それでは実際に神々の降臨はあったであろうか?

その事例を皆さんと一緒に考えたい。

[考察3] 宇佐八幡宮の神託

降臨された神 不明(身の丈三丈の僧形の大神)
被降臨者 和気清麻呂、辛嶋勝与曽女

奈良時代、僧、道鏡が称徳天皇の寵愛を受けており、皇位まで狙った史実は有名なので皆さんもご存知かと思う。

道鏡

その経緯の詳細が「続日本紀」に記されているのでまずはそれを紹介する。


太宰府の大宰主神(かんづかさ)の中臣 習宜阿曽麻呂(すげのあそまろ)が、宇佐八幡宮の神託として「道鏡に皇位を継がせれば天下は太平になる」と奏上した。

阿曽麻呂は道鏡の仲間であり、共謀して仕組んだ偽神託であることは明らかである。

だが、道鏡を寵愛する称徳天皇といえども、天皇の系統にない彼を皇位に就かせることには慎重になった。

そこで和気清麻呂(わけのきよまろ)にその神託の確認を命じた。

和気清麻呂

清麻呂は天皇の勅使として神託の確認のため宇佐神宮に参宮することとなる。

清麻呂が旅立つ前に、道鏡は清麻呂に、良き知らせをもたらせてくれれば大臣の位を与えると誘惑した。

道鏡くらい権謀術数に長けていれば、和気清麻呂をそそのかしただけでなく、宇佐八幡宮側にも工作した可能性が高い。

巫女を取り込んで習宜阿曽麻呂が奏上したものと同じ偽の神託を告げさせることもできたはずである。


さて、和気清麻呂が宇佐八幡宮に到着。

清麻呂は玉串を奉納し、 称徳天皇から託された宣命を禰宜である辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に伝えた。

ところが与曽女はそれを聴こうとせず託宣を拒む。


清麻呂は不審を抱き、改めて宣命を願い、神殿の中に足を踏み入れた。

すると雷鳴と稲光があったように感じ、身の丈三丈(約9m)の僧形の大神が現れ、清麻呂は以下の神託を受けた。

「我が国家は君臣の分定まれり。而るに道鏡は悖逆無道、すなわち神器を望む。是をもって神霊震怒し、その祈りを聴かず。汝帰りて吾が申す如く奏せ。天つ日嗣は必ず皇緒を続てよ。汝道鏡の怨みを懼るるなかれ。吾必ず相救わん」

つまり、道鏡は野心の塊で天皇の地位に就きたがっているため、高次元の神々は震えるほど激怒している。
必ず皇族の血筋を守れ、と私の伝えた通りに奏上せよ、道鏡の恨みを恐れるな、私が必ずあなたを守り救う、と神が降臨し神示を直接述べたわけである。

それにしても与曽女はなぜ神託を受けることを拒絶したのか?

与曽女は道鏡の脅しを受けており真の神託を言葉にできなかったのだろうか?

道鏡に与せず神託の真実性を求めた清麻呂の純粋なエネルギーが神を動かし、与曽女が口述すべき神の言葉を引き出したのかもしれない。

和気清麻呂は、道鏡にとって都合のよい神託を持ち帰れば大臣の位になれたが、その誘惑に負けることなく、受けた真の神託を天皇に奏上した。

誘惑にも負けず真の神託を受けた清麻呂はハート・スピリチュアル+降臨(E領域)の人である。

道鏡の皇位継承を阻止できたものの、道鏡、称徳天皇の怒りを買った。

その結果、清麻呂から汚麻呂(きたなまろ)へと強制改名させられ(小学生のいじめか!笑)、大隈国(現在の鹿児島)に島流しにさせられた。

さらに途中、道鏡の手配による暗殺の危機もあった。

だが神託の通り、神は彼を見捨てることはなかった。

その後、称徳天皇が崩御され、後ろ盾を失った道鏡は失脚して左遷。

障害がなくなった朝廷は清麻呂の島流しを速攻で解き、清麻呂は京に戻り、従五位下に復位した。

その後も清麻呂は善政を行い、最終的には従三位に叙せられ公卿の地位に昇っている。

与曽女についてはその後はわからない。

道鏡のエゴと清麻呂の純粋な懇願に板挟みになっり神託を受けることを拒絶したのかもしれないが、神が現れ正真正銘の神託が降りたわけだから、結果として巫女として使命を果たしたことになる。

もしかしたら、与曽女なしでは清麻呂も降臨を受けられなかったかもしれない。
(であればこの二人の出会いも高次元の意思である)

何はともあれこの二人のおかげで、万世一系の天皇の血筋が保たれたことになる。

余談だが、現在、女性天皇、女系天皇の是非が論争となっているが、スピリチュアルな視点から見れば、天皇の血筋の維持については神の意思が働いている。従って皇位継承問題は何らかの形で解決されるのではないかと思う。

神示(神託)についての考察は以上である。

<最後に>

この記事を読まれている方々もいろいろな経験をされてきたと思う。

皆さんの意識レベルも必ずA〜Eの5つの領域のいずれかに属しているので、どの領域に自分はいるのかぜひ振り返ってみてほしい。

ハート・スピリチュアル領域(D)を歩んでいるなら、いずれは絶対的幸福が得られる(記事44参照)

しかし、このハート・スピリチュアル+降臨領域(E)に入ってしまえば、神々の手足となって働くようになるため、人並みの幸せだけでなく、絶対的幸福も放棄する覚悟が必要である。

イエス・キリストが絶対的幸福に浸って地球に生まれなかったら・・・

釈迦がこの世の苦しみを振り返ることなく悟りの至福に浸っていたら・・・

今の我々は地球上にいなかったかもしれない。

影響の大きさは事象ごとに異なるものの、降臨領域(E)の人の存在の本質は同じである。

降臨領域(E)は望んで得られる領域ではないが、入ることがないとも限らない。

そうなる前に、多少なりにも仕組みと事例を学んでおくことは有益かと思う。

そのために5回にわたってこの5つの領域を皆さんと一緒に学んでみた次第である。

それではまた。

読んでくれてありがとう。

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