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9 見えない世界からのメッセージにより私は無条件の愛を理解した

私は以前アップした記事7で、与えればお金持ちになれる、と書いた。

「与える」というその言葉自体は抽象的で誤解を招くといけないので、その言葉の定義を改めて広辞苑で調べてみた。読んでみると「相手の望みなどに対応するような物事をしてやる意」とあり、私の思っているものとかなり異なる。この定義では「与える」の本質を語っておらず、他者から見た外見上のことのみ指しているからである。

私の書く全ての記事でいう「与える」は、無条件の愛、つまり見返りを求めない無償の愛を捧げることを指す。

確かに、モノやお金を誰かに渡せばそれは「与える」という行為に該当するが、それが無条件の愛かどうかは本人しかわからない。なぜなら形としては与えていても、それ以上の見返りを期待しているまたは実際に要求するかもしれないからだ。

「与える」行為は、見返りを求めて行うならば、その本質が失われ、もはや与えたことにならない。与えるとお金持ちになるという法則は機能しなくなるのだ。

たとえば「ふるさと納税」という制度がある。

これは自分がふるさとや応援したいその他の地域に寄付をすると税金の控除が得られかつお礼の品がもらえるということで、高い人気がある。だが、寄付は本来、与える行為でなければならない。返礼を期待している限り、それは寄付ではない。単なる商取引である。そのような行為からは、小金、小物は手に入るかもしれないが、お金持ちにはなれない。

私の経験上、無償の愛、自らを捧げ何も求めない愛は、神か宇宙の創造主かよくわからないがとにかく私たちの理解不能な見えない世界から大きな返礼を受けとることになる。
でないと、私ごときがFIREできるだけの金融資産を構築できるわけがない。

高い偏差値の大学を卒業して仕事も一生懸命こなして投資の学習もやれば、ある程度の人生は歩めるかもしれないが、そうすれば誰もが超富裕層になれるという保証はどこにもない。私には、与えるという行為(無償の愛)が与えた本人に何かしらの良い影響を及ぼしているとしか思えないから、このようなことを何度も繰り返して書いている。

私の経験から言えること。それは次の通りだ。

目の前の利益は放棄、もしくはもらう権利があってもできるだけ先送りせよ。

要は辞退して受け取らないか、より多くの返礼をするか、投資なら利確せず保有し続けるか、もらった配当金は消費に回さず再投資する。そうすれば、一見どこかに行ってしまった利益は忘れた頃に大きなリターンとして戻ってくる。そのリターンはお金とは限らないし、一見、無駄だったように思われるかもしれない。だが、そう見えても、信用、信頼、絆が強化されるとか、人間性が上がるとか、別の領域で既に返っており、それはそれでまた将来の経済的豊かさの実現に大きく寄与する無形資産となる。

ここで私が経験したエピソードを一つ、こちらも以前書いたように瞑想中の体験だが、紹介したい。

私がまだ20代、大学生だった頃、あるバイトをしていた。スケジュールは都度変わるが、あるときの予定時間は真昼の前後の数時間しかなく、たくさん稼げない上に移動時間を考えると午前も午後も個人の予定を入れることもままならない中途半端なバイトだった。しかもその時はとても面倒な仕事で誰もやりたがらなかった。そんなオファーを私は受けて目の前の仕事にベストを尽くした。それはある部屋にこもってやる仕事で誰も監視監督していなかったが、サボらずベストを尽くした。
また、別件だが、自分の知識・経験の範囲でできる無料の講義のレクチャーをしたり街頭で寄付の呼びかけをやるボランティアの募集があり、それをやりませんかと依頼されたことがあった。こちらも誰もやりたがらなかったが私は受けた。
これらは無償の愛という意識は確かにあったが、当時の若者としては非常に要領が悪かったことも否めない。若い時期は今しかない、そんな時期に面倒なバイトやボランティアなど断り、コンパに行ったりドライヴに行ったりした方が遥かに良い、そう思うのが当たり前の時代。自分の行っていることにいささか迷いが出てきた。

そんな中、またいつものように瞑想をしていたときのことだった。
瞑想中にあるヴィジョンが見えた。

編笠を被った一人の虚無僧が私に近づいてきた。

すると腰につけていた袋から何かを取り出したて私に見せた。

それは綺麗にカットされた透明な、拳大程の大きなダイヤモンドで、眩しい光を放った。
(瞑想中に表れたヴィジョン)
私は一瞬その眩しさに怯んだが、無償の行為、見返りを求めずただ与えること、それ自体が美しい、ということをすぐに直観で理解した。

エピソードはただそれだけだが、このヴィジョンは見えない世界(守護天使? 自分の深層意識? 未だわからないが)からのメッセージであり、虚無僧は無償の行為を行う人、全ての利益を放棄した人物の象徴、ダイヤモンドはその無償の行為、無条件の愛の象徴だと、私は受けとめた。

幸せになる道、お金持ちになる道はいろいろあり、無条件の愛をベースにした生き方は幸せ、お金持ちになる道の一つにすぎない。だが、その中でも無条件の愛に基づく生き方は何よりも優先したい道だ。
人を騙したり競争で勝ち抜いていく生き様もあるが、人の恨みやカルマ(因果応報における悪い因)の蓄積など色々な副作用を伴うので、その幸せが永続する可能性はない。

利益は先送りした方がいいと上に書いたが、悪い因についてはその場ですぐに吐き出して解消した方がいい。

人の恨みやカルマがすぐに報いとして現れず幸せな生活が続いているなら、それは将来、さらに増幅して降りかかってくるからだ。もしそうならないとしたら、あなたは幸いにもどこかで無条件の愛も実行していてカルマと相殺されているのかもしれない。

そういう目に見えない法則を教える話は数多く存在する。グリム童話などは古くからの言い伝えでそういう因果を含む話や私が述べているような人の深層心理をよくとらえた話が多い。ここ最近創作された童話ではなく、起源も不明な神話やメルヘンは、人類の深層心理に潜むエゴイズム、因果応報といったものの影響力を、文字がまだ普及していない時代から当時の人々が様々な行動上の教訓として語り継いできた貴重な資料だ。なので改めて読むと色々と面白い発見があると思う。

そのグリム童話でも私が一番好きな童話は「星のターラー」だ。最近では邦題が「星の銀貨」となっているがどちらも同じ話。

グリム童話は残酷な話が多いが、この「星のターラー」は、一人ぼっちの孤独で貧しい少女が唯一手にしているパンと身につけている衣服、いわば最後の所有物を自分より不幸な人々に与えていくという無償の愛が簡潔な文体で書かれている。最後に天から星の銀貨が降るという少女の無償の愛に報うシーンは純粋に美しい。

星のターラーの挿絵(Victor Paul Nohn )


オスカーワイルドの「幸福な王子」も無償の愛が描かれていて好きな作品だが、こちらは悲しい話なので、美しくかつハッピーエンドの「星のターラー」の方が好きだ。無条件の愛が無条件の幸せにつながるということを伝える素晴らしい話なので、色々と目先の利益に囚われそうになり悩むなら思い出して読むことをお勧めする。

童話は本来子供向けだが、今の時代はむしろ大人が読むべきだろう。大人が幸せにならないと子供も幸せになれない世の中だから。

以上でおしまい。読んでくれてありがとう。

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