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20 霊感・啓示・直観ー事例研究(啓示編3ー祭囃子)

今回が記事18記事19に続く「啓示」偏の3回目で最後になるが、前回まで私の若い頃の話が続いたので、今日は昨年の体験を紹介したい。

世の中の霊能者や霊感体質とされる人の体験談を聞くと、悪霊とか憑依、祟りといった、怖い話、怪談まがいの話も少なくない。

私の場合、今日に至るまでの体験は驚くことも多いけれど、幸い全てポジティブなものだ。

そのためか(私は無宗教ということもあるが)、お祓いの類は受けたことがないし、お守りの類も身につけることはない。おみくじを引いたり占いの類もしない。
(大半の人がそれらを必要とするので否定はしないが)

私が行っているのは

エゴの放棄に努めながら、自身の内にあるハートの声を聴き、高次元から啓示が与えられれば受け入れること

それだけ。

ただ、今回紹介する啓示はこれまでと趣が異なり、冒頭で触れた怪談の域と接点ができた。

それについては体験談を一通り語った後に、私なりの分析もまとめておいたので合わせて参考にしていただきたい。

<啓示の体験例3ー祭囃子>

夏が過ぎ去りようやく涼しくなってきたある日の朝、私はいつものように目を覚ました。

すると、どこからともなく笛や太鼓の音がする。

秋祭り?

そうか、もうそんな季節か。

・・・だが妙だ。

こんなに朝早くから祭り?

その日は平日だったので、私は出勤の準備のために5時頃に起床していた。

そもそもこのマンションに住んで10年以上経つが、市街地ゆえにお祭りの音や騒ぎなど耳にしたことがない。

毎年あるのは、近所の学校のグランドで行われる盆踊りだけで、それは賑やかではあるが、かけられる音楽は安物のスピーカーから流れる音質の悪いものだし、そもそも盆踊りは夜の行事だ。

だが今は早朝で、私が耳にしている笛、太鼓、鉦はとてもクオリティが高いというか、甘くなめらかで心地良く聴こえる。

明らかに生演奏だが、どういうわけか音の振動が感じられない。

遠くから風に乗って聴こえているのかと思ったりもしたが、玄関のドアからリビングの中扉から部屋の窓まで全て閉じているので、それはない。

私の部屋の中というか、私の目の前で直接、音を出してくれているかのようである。

これらの状況から、聴こえてくる音は異次元からのものだとわかった。

その後、何が起きるかと、じっと耳を傾けていたが、少しづつ音は弱まっていき、過ぎ去るように消えていった。

その日はそれで終わったが、この話はここで終わらなかった。

それから10日ほど過ぎた朝、その日は土曜日で休日だったので、私はいつもより時間をかけて瞑想をしていた。

すると、また、あの笛や太鼓、鉦が聞こえ出した。

ただし今回は趣が違う。

笛、鐘は消え去り、太鼓の音だけが響く。

その姿は見えないが、聴こえる音の大きさから前回の遭遇よりかなり近く、おそらくすぐ側、目の前で叩いている。

その太鼓も前回は祭りらしく賑やかに叩かれていたが、今は何故かリズムがなく不規則だ。

タン、タン、と2回続くかと思えばしばらく無音の静寂。

すると突然、タン! と強めに一つ鳴るなど。

幼児が気まぐれにおもちゃの太鼓を叩くように、リズムが読めず、調子がない。

一切の計算や約束がなく天衣無縫。

私は畏怖を感じた。

今私の前で太鼓を叩いている存在は、前回、笛や太鼓の祭囃子を鳴らしていた存在よりずっと霊格が高いと直観した。

誰が叩いているのか姿は見えないが、しばらくすると、目の前に祭壇があらわれ、そこにはたくさんの手紙が無造作に山積みに置かれていた。

それらは手書きで一文字一文字がはっきりと読めるのだが、読んだ瞬間に文字が崩れていき、何が書かれているのかはっきりわからない。

だが、書いた人の思いはしっかりと伝わってくる。

それは学校の同級生や、社会人になってから出会ったが、今は遠く離れてしまった人たちのもので、私がこれまで知ることがなかった思いが書かれていた。

また会おうと言って別れたままの友人や、諸事情で連絡がとれない知人たちの当時の思い。

あの人は笑っていたが実は寂しかった、また、あの人は黙っていたが私に伝えたいことがあったが伝える機会がなかった等々。

人は誰もが直接話したり言われたことのみでその人を判断するが、それがその人の全てではない。

故に人は互いに誤解し思いがすれ違ってしまい、僅かなことしか知らないのにその人のことを知った気になり、ときには非難し、またある時には軽んじる、ということを繰り返す。

そう私が感じていると、その手紙の山は消え去り、代わりに薄紫の牡丹のような大輪の花が現れた。

それからしばらくしてから、私は目を開けて現実世界に戻った。

彼らがなぜそのようなメッセージを伝えてくれたのか私にはわからない。

だが、大輪の花は、私が彼らのそのメッセージを受けとめ理解したことの証ととらえた。

それから二日後の朝、目が覚めると私はまたその祭囃子を聴いた。

今度は太鼓と笛はなく、鐘だけだった。

ほのかに数回鳴った後、聞こえなくなった。

その後、何も起こらないので、それは彼らなりの別れの印であったのかもしれない。

私に与えられたこのメッセージは個人的なものではあるが、皆さんも思い当たると感じとるならば、それもまた皆さんへのメッセージである。

さて、このように周囲で祭りが行われていないのにお囃子が聞こえるという不思議な現象は古くから伝えられている。

現代でも体験した人は少なくないようだ。

歌川国輝 「本所七不思議之内 狸囃子」

皆さんはご存知だったかもしれないが、私は体験した当時、そのことを知らなかった。

自分が直接体験したことで、私の判断としては、

この目に見えない祭囃子が聞こえる現象は実際にあり真実である

ということだ。

ところが、これまでの古くからの伝承や近年の体験談においては、その不思議な現象自体は語られているが、なぜそのような現象が起こるのかという原因や意義等については全く語られていない。

この現象は狸囃子とも称され、證誠寺の狸囃子が有名であるが、そちらの方は創作、フィクションであり、この不思議な祭囃子の真実を表していない。
(作品としての文化的な貢献度は高いけどね)

この歌は真理を表していないが個人的に好き


そこで、私がこの目に見えない別次元の祭囃子について、私の実体験、与えられた啓示、さらに直観からの情報を活用して、調査しまとめたものを述べておく。
(直観は次回のテーマではあるが、少々フライングを許してもらおう)

<祭囃子に関する分析まとめ>

高次元の存在には二つの系統がある。

第一の系統は、普段、私を守護してくれるマスターたち(記事15参照)やスピリチュアルガイド(記事6参照)のような、普段から見守ってくれている方々であり、過去の前世で家族だったり友人だったり夫婦だったり、とても自分と縁が深い人々だ。

これは私に限らず皆さんにもそのような方々がついていて守ってくれている。

実際に姿が見えなくても家族のような存在である。現在の家族より付き合いは古く深いかもしれない。

彼らに対してもさらにそのマスター、さらにその上のマスターと霊格がさらに高い存在がもっと上の次元から見守っている。

第二の系統は、今回の事例に該当するが、特定の人の守護を使命としているわけではなく、傍目には(見聞きできたらだが)もっと自由な活動をしている方々である。

どうやら普段から、高次元においてずっとお祭り状態で、いつも何か太鼓を叩いたり笛を吹いたり鉦を鳴らしたりしているようである。
(他の楽器を用いることも多い)

それは日本の祭りが起こった頃のさらに遥か昔、果てしなく古い時代からそうしている。

ただ気ままに音を鳴らして遊んでいるだけのお気楽集団に思われてしまいそうだが、そうではなくそれが彼らの役目。

その音で我々の現世にエネルギーを与えて様々なバランスをとり、調和を維持している。

その結果、人間に豊作や大漁などの形で恵みを授けてきたし、縁ができた人にはそれぞれ一人一人または夫婦や家族、町村単位で恵みを授ける。

時が変わった現代でも科学技術やITなどの発展にインスピレーションを与えてくれているが、不思議なことに、奏でる音は古くからあるお囃子など古の楽器を用いる。

楽器は古今東西問わず、天界でも同じ形をしている。楽器は天界にもあるというよりは、天界のものが地上に降りたと思われる。

従って電子楽器はともかくアコスティックな楽器はこれからもそのデザイン、形は変わることはない。

楽器はインスピレイションを通じて天から降りてきたもので普遍性がある。時代や民族の違いによるヴァリエーションがあるだけ。


彼らは、我々の守護団の系統と異なり、一度も人間界に転生していないか、転生したことがあったとしても遙か太古の昔で、人間の感覚はもう身につけていないか著しく少ないので、感知した人は親しみよりは怖さを感じることがある。

彼らは高次元の存在であるが、人間を守るよりは自然界の環境を守ることが主務で、人間が自然に沿って生きていれば前述したように援助もしてくれるが、逆に人間が自然を破壊したり冒涜したりすれば、天災や病気を流行らすことがある。

それらは人間に対する罰ではなく、自然界の調和、バランスを取り戻すために行っている。

天災が起こると、私たちは何故こんな目に遭わなければならないんだと、理不尽さを感じ、自分たちを被害者とみなすが、そのような目に遭うのは私たちがどこかで自然に対して破壊、冒涜を行い不調和を招いたからである。

自然の調和を取り戻す仕事を増やして彼らに負担をかけている私たちは、被害者どころかむしろ彼らにとっては加害者なのだ。

彼らの配下には別の存在もいる。

それが自然界の精霊、または人間の子供である。前者は小人の形をしていることが多い。

後者は幼くして亡くなったが彼らと縁があった子供か、実際にこの世で生きている子供である。(記事13参照)

彼らは子供が好きである。

大人のようなエゴがないから。

楽しそうに木の葉やどんぐりや貝がらを集めて宝物のように大切にする子供は彼らと縁がある。

だが子供たちがそれらに見向きもしなくなって、どんぐりとお金を差し出されたとき、お金を選ぶようになったら縁は切れる。

そのため縁ある存在はほぼ精霊の類で人間はレアケース。

故に殆どの現代人は彼らの存在に気づいていないが、霊視、霊聴ができる人は彼らを見聞きする場合もあるし、彼らが意図的に降りてくる場合は一般の人も気づく場合がある。

ただしそこまでで、それ以上の縁をつくるのは難しい。理由は上述。

我々はその二つの系統のうち最初に掲げた守護霊団の系統に属しており精神的な成長発展は彼らと共にある。
(後者に携わり彼らの道を歩むのは超レアケース)

守護霊団系統は霊的進化のために何度も転生を繰り返し私たちと共にあるか、もう転生が不要となるまで霊的進化を遂げたものの、人類への援助のために自らの意思で転生を続けているかのいずれかである。

一方、音楽・祭り系(なんと呼んでいいか分からないのでとりあえずこう称する)は、そもそも転生をしないか、転生を卒業したので天界にとどまり、現世に援助を与えることを選んだ存在。

だが両方の系統ともに高次元の存在なのでどちらも敬うべきだ。

以上、分析終わり。

お分かりいただけただろうか。

これまでの私の実体験、この調査のためにいただいた啓示、直観をもとにした見解であるため、物理的なエヴィデンスはないことは御了承いただきたい。

また私が知り得た範囲限定で分かりやすく解説しているのでまとめすぎた感はある。
実際はもっと複雑であろう。

関心があれば皆さんも調べていただきたい。
縁があれば彼らに会えるかも。

私もまた会えるなら今度はもっと心の準備をしておきたい。

以上、これにて啓示編終わり。

次回は直観についてだが、また違った切り口で色々と紹介したい。

読んでくれてありがとう。

追伸(2023.4.8):
後日談が発生。ご参考まで→(記事29

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