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18 霊感・啓示・直観ーその事例(啓示編1ー覚醒)


1 霊感ーインスピレイションーInspiration
2 啓示ーレヴェレイションーRevelation
3 直観ーイントゥイッションーIntuition

前回(記事17)では、上記区分のうち、1の霊感ーインスピレイションについて語った。

前回のおさらいとしてそれぞれの定義を確認しておく。

1の霊感は、別次元の存在から与えられる。
お金、恋愛、仕事、学問、家族、趣味等、現世の事象の解決に役立つ。

2の啓示は、高次元の存在から与えられるメッセージ。
真理探求者に対する意識の覚醒を促すもの。

3の直観は、真の自分自身、ハート、魂から届く情報。一瞬で全てを理解する能力。

この三つの分類は私のオリジナルで、一般にはどれも同じ意味で使われている。

しかしそれぞれの英語の語源を辿れば私の分類も理解できるだろう。

Inspirationのinspireは息を吹き込むという意味で、誰かが自分の頭に息を吹きこむ、つまり外からあるアイデア、ひらめきが与えられるということ。

Revelation のRe は否定、velaはヴェール。
つまり秘密を覆い隠していたヴェールが取り去られる。ここでは人類に隠されている真理が開示されるということ。

Intuitionのinは内、中を表し、tuitionは観る、教えるという意味がある。つまり、外部経由で間接的に知るのではなく、自分の内なるハート、魂が直接、観て知るということ。

これらの言葉の源流は全て、ラテン語。

ラテン語は今では実社会では使用されていないが、非常にパワーを秘める言葉で今でも一部の人々が祈りや魔払いに使用している。
興味のある方は調べてみるとよいだろう。

なお、エゴが引き寄せる低次元のメッセージを神のメッセージとしてしまうケースはよくあるが(聖戦と称して戦争を起こす等)、そのようなメッセージはこの分類のいずれにも該当しない。これら三つはいずれもポジティブなものだからだ。

さて今回は2の「啓示」ーレヴェレイションについて、前回同様に私個人の経験に沿って解説してみたい。

インスピレイションはこの世の様々な事象に対する援助だが、その場限りの場合が多い。

それに対して「啓示」ーレヴェレイションは真理の探究者にその真理を開示することで覚醒を促す。それを受けた人は、これまでの価値観が変わるので人生も変わる。

そして「啓示」ーレヴェレイションはただのメッセージではなく、真理のダイレクトな目撃、直接体験でもある。

ちなみに私が過去の記事であげた体験談のうち、記事3記事9記事10記事15に書いた体験は私にとっては啓示である。

今回は、その啓示について、私の体験例を新たに三つほど選んだ。

だが啓示は霊感より形而上的で、紹介する私も皆さんに理解いただくのは簡単ではなく、丁寧に説明しようとするとまた文章が長くなってしまう。

そこで啓示編については3回に分けて体験例を一つづつ紹介する。

読んで関心を持たれる人が一人でも現れるなら、私も一つのミッションを果たしたことになるので、ぜひ一読願いたい。

<啓示の体験例1 覚醒(問いかけ)>

私がまだ二十代の頃、スピリチュアル系のセミナーで知り合った同世代の男性から、所用があって近くまで来たと連絡を受けたので、彼を自宅のアパートに招いた。

ここでは仮に彼をA君と呼ぼう。
(Aはイニシャルにあらず。念のため)

A君は、ある共通の知人を通して知り合ったが、友人というほど親しくはなかった。

だが私は少し話しただけで、A君が非常に聡明で霊格が相当に高いことを察した。

記事11で書いたような似非スピリチュアリストはお金を欲しがり他人をコントロールしたがるが、真のスピリチュアリストはそのようなことに関心はなく、自由、解放への援助を無償で行ってくれるので、その違いは分かる人にはすぐに分かる。

そんな彼と意識の覚醒について語った。

私は自身のエゴに支配されないよう、自己観察という自分の思考感情を絶えず見つめる内観のワークを行っていることを話題にした。

内観をしていない人々の脳内はいつも思考の洪水状態だが、その思考が自身が考えているものと信じて疑わない。

だが、その思考はエゴであり、真の自分である意識はエゴの思考にがんじがらめになっている。

そのような人は自身の言葉で語っていない。エゴの言葉であり、エゴのあやつり人形であり、自分というものを持っていない。

みんなで集まっておしゃべりを続けている人たちは大方、エゴが話していている。だが、意識が眠っている我々人類はそのことに気づかない。

私は、このような話をしていたが、A君は黙って聴いていた。

そしてA君は参考までにと、紙にキーワードを書きながら、こう解説してくれた。

自分が誰で、今、何をしていて、今どこにいるのか、それらを常に自覚していることが内観には必要である。

その意義について、私は彼に既に理解していることには補足を入れたり、わからないところは質問したりしていたが、

それをずっと聴いていたA君が突然、言った。



「ヌートピアンさん、今、ここにいますか!? 」




その瞬間、私は一体何を聞かれたのか分からず、思考が停止してしまった。

それは時間を停止させ、私の全てが停止したかのように、ざわめきは消えて静寂が起こった。

私の意識は突然、呼び寄せられ、はっと驚いて眠りから覚めたのだ。

私はずっと彷徨っていたらしい。ずっと前から。

その私が今、私が誰であるかに気づいた。

今、私は私である。

つい一瞬前まで、思考の主体は「真の私」ではなく、話していたのは内観を理解している振りをしていたエゴであった。

エゴが私自身になりすまし、私の意識、魂であるかのように振る舞い、本当の私にそれを気づかせまいとしていたのだ。

だが、私は、今、ここにいる。

たった今、この瞬間、目の前にA君がいて、そして私がここにいることを認識した。

それまでは過去の話をしていたり、未来の希望を語っていたが、それはエゴが過去、未来と目まぐるしく飛び回り、私を今、まさにこの瞬間に居させまいとしていた。が、

私は、今、在る。

私の居場所は未来でも過去でもない。

今だ。

Was でもWill be でもなく、Is だ。いや、Isですらない。

いわば私は本質的存在、原型のBe。

全ての物質は形を変えていき永遠に不変のものはなく、私の肉体もその例外ではない。

だが本来の私、意識、魂は永遠に不変のBe、本質的存在であり続けるBeing なのだ。

その自覚、自認が生じた瞬間、部屋の風景が変わり出した。

見慣れているはずの壁や書棚、蛍光灯などが、構成する分子、原子の一つ一つが喜んでいるように、生き生きと私に迫ってきた。

凍結していた空気が割れて溶け出したかのようだった。

開けていた窓の外に見える木々の緑の葉は、これまで見たことがないほど美しく輝いていて、つやつやと新鮮な光沢を放っていた。

あらゆるものが一つ一つ完璧な存在であることを知った。

「風景が違う…」 

ようやく私は言葉を発した。

「ここに戻ってきましたね、今、ここにいますね! ヌートピアンさん! 」 

A君は笑顔で返した。

と、その瞬間、開いていた窓から一羽の大きなアゲハ蝶が部屋に入ってきた。

その蝶は私たち二人の頭の上をひらひらと優雅に回った。

「ヌートピアンさん、全てがシンボリックです。 我々へのメッセージですね! なんと素晴らしい!」

私は唖然として言葉が出なかった。

窓を開けていたからといっても、自然から遠く離れた市街地にあるアパートに大きな蝶が人に警戒もせず入ってくるなんて、初めての経験だった。

そして、その蝶は何周か部屋を回り続けた後、満足したかのように、ふわっと窓の外へ去っていった。

私とA君は以前、シンボルの解釈についても話したことがあり、我々二人の共通認識として、蝶のシンボルの意味は「霊の解放」だった。

地上を這う芋虫は、いつか空を自由に飛び回る日を望み、日々、黙々と葉を食むが、多くが鳥の餌食となる厳しい現実をみれば、その日が本当に来るかはわからない。

ただしどの幼虫も等しく、蝶になって空を自由自在に飛べる可能性を内に秘めている。

地球の表面を彷徨い天を仰ぐ我々人類も、同様に全員が天に昇れるのか分からないが、誰もがその可能性を秘めている。

ナチスの強制収容所に入れられたユダヤ人の子供たちは、自由に飛び回る蝶の絵を描いたという。

自由への思いを蝶に託したのだ。

その後、残念ながらA君と再会する機会はなかった。

記事15で私には師はいないと書いたが、彼はその時、本当に僅かな時間ではあったが、紛れもなく私に対して師の役目を果たしてくれたのだ。

人生において特定の師を持たずとも、出会う全てを師として学び、気づきを得ることは大切だ。

この覚醒は一生忘れられない体験となったが、残念なことに、この覚醒は永続しなかった。

私はその後も、時折、このような半覚醒を体験しては戻り、また覚醒しては戻るということを繰り返しているが、真の覚醒には辿り着いていない。

非力、無力な私にとっては、そんな僅かな一時の覚醒も神からの恵みであるが、この覚醒が永続する日がいつ来てもいいように自分を準備していきたい。

人類の誰もが覚醒の可能性を秘めていると知ったからには。

以上、読んでくれてありがとう。

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