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41 スピリチュアルとサイキックの違い(A領域-エゴ・ノンサイキック編)

<はじめに>

みなさんはスピリチュアルな生き方をしているだろうか。

スピリチュアルとよく混同されるがサイキックという言葉がある。

私が考えている定義を一言で表すならば、

スピリチュアル= 神、内なる神である魂、ハートの声に従う

サイキック= 霊能力を利用する

である。

ここでいうサイキック能力(霊能力)とは、霊視、霊聴、テレパシー、念力、直観、予知、霊的治療等、科学では認められない能力全般のことと思っていただければよい。

ただし、そのようなサイキック能力を使える人はごく僅かであると想定される。

従ってここでは、自身にサイキック能力がなくてもその開発に励み活用を試みる人、または他の霊能力者に依頼してその効果を享受しようとする人、いずれもサイキックタイプの人として論を進めたい。

以上の定義を前提とすれば、スピリチュアルな生き方をしているつもりでも、実は霊能力を利用するサイキックな生き方をしている人は多いはずだ。

私たちには自由意志があり、スピリチュアル、サイキック、どちらの道も選択できる。

スピリチュアルな生き方は簡単ではないが、私たちのインナーハート(魂)、高次元の存在、守護天使は、私たちがスピリチュアルの道を歩むことを望んでいる。

サイキックな生き方は、神に近づく最短の道に見えるが、その扱いには相当の注意が必要である。

今回から5回の投稿に分けて、スピリチュアルとサイキックの違いを明確にし、私たち一人一人がどの領域を目指せばよいか、改めて考えてみたい。

理解のために、スピリチュアル、サイキックの違いに、ハート(魂)、エゴ、それぞれの相関がわかるマトリックス表を作ってみた。
(説明の便宜上、それぞれの領域に ABCDEの記号を付してある)

(注1): A領域のみ点線で表示しているのはスピリチュアル、サイキックいずれにも属さないからである。
(注2): 赤矢印は双方向でどちらの領域にも移行できる
(注3): 緑矢印は一方通行で一度でも移行するともとの領域には戻らない
(注4): 灰色矢印は移行できない。

我々の意識レベル(霊格)は常にこの5つの領域のいずれかに属している。

(A領域) エゴ・ノンサイキック
(B領域) エゴ・サイキック
(C領域) ハート・サイキック
(D領域) ハート・スピリチュアル
(E領域) ハート・スピリチュアル+降臨

長期でみると霊的進化を遂げたり(A→D)、または霊的に堕落して領域をかなり移行するパターン(D→A)がある。

短期的には日々の出来事にエゴやハートがしのぎ合い、領域の境界線を行ったりきたりするケースも頻繁にみられる。

また同じ領域でもDに近いA、Bに近いC等、位置付けには濃淡、グラデーションがある。

つまり私たちの意識レベルは不変ではなく、常に変動しており、人の数だけ様々な意識レベルがあり位置付けもそれぞれ異なるということである。

ただし「今この瞬間」においては、私も皆さんもどれかの領域のどこかの位置に属している。

過去はどうあれ、「今この瞬間」の私たちの意識レベルがどこに位置するのかを知ることが重要である。

このマトリックス表は、私たち自身がスピリチュアルな生き方の本質を学び、誤った方向に向かわないよう、常に自分の立ち位置が確認できる精神的な羅針盤のように使われることを期待したい。

そしてこのマトリックス表は、他人の普段の発言や行動と照合することで、聖者に見える人物が実は偽物であるなど、他人の意識レベルを見抜くためにも役立つはずだ。

以下、それぞれの領域を解説する。

<A領域>エゴ・ノンサイキック領域

(一時的に自分自身を見失ったスピリチュアリスト、霊能力や悟りに無関心で自己中心的な人々、唯物主義者、無神論者、偽スピリチュアリスト)

この領域はエゴに支配されながら生きていて、かつサイキック能力もなくスピリチュアルなことに関心もない人々の領域である。

<唯物主義・無神論者>

霊の存在を認めない唯物主義者、神の存在を認めない無神論者がこの領域に多い。

目に見えないから存在が信じられないだけで、信じてはいないが文化的慣習として神社や寺にはお参りはするタイプの人々も大半はこの領域である。

年中行事で仕方なく行う形だけの信仰や先祖を敬うと運が改善するからという目的で墓参りする人はA領域。
祖先を敬い感謝の気持ちで行う人はスピリチュアルな知識がなくてもD領域。

このタイプは基本的にエゴに操られて生きているので意識レベルはネガティブである。

だが、唯物主義、無神論でも社会的な常識や良識を守り、他人への思いやりや愛情がある人格者もいる。

そういう人はハートの声に従って生きているので、このA領域ではなく、その上にあるD領域の下部に位置することになる。

思想、主義主張がどうあれ、僅かでもハートの声を聴き従い真摯に仕事に取り組んでいるならば、神仏や高次元に存在する高級神霊からの援助により啓示やインスピレーションを与えられる可能性がある。

D領域の下部に位置する愛ある唯物主義、無神論者が、その啓示を感知するならば、自身のアイデアのひらめきとして受けとめて活用し、大きな貢献を果たす可能性がある。

ただし大多数の無神論、唯物主義者はこのA領域に属して利己的、自己中心的であるため、神仏や高次元に存在する高級神霊から啓示が与えられることなどまずない。守護天使のメッセージにも気づかない。

この状態では、人から天使に至る可能性を秘めるハート・スピリチュアルのD領域への移行は極めて難しく、移行するには限りないほどの転生を繰り返さなければならない。

<偽スピリチュアリスト>

偽スピリチュアリストもこのA領域にいるので私たちは常に警戒しなければいけない。

偽スピリチュアリストとは、真理を探求する振り、愛を実践しているように見せかける人々(偽宗教家、偽信仰者も含まれる)で、神のために働いている聖者のふりをして多くの人々を騙してお金をせしめる人物のことである。

神を讃える敬虔な言葉を述べて信心のある人々を騙して経済的に依存するが、いずれにしろ何一つ愛を実践することがないのでいずれは馬脚を露わす。

私は若い頃にこの偽スピリチュアリストに出会っている。本人のために正論を述べてその生き方を改めようと試みたものの無駄であった。
記事11

一般的に霊の存在を信じる人、神への信仰をもつ人や宗教団体は、無神論者や唯物主義者を敵と見なしたり毛嫌いする傾向があるが、そもそも愛より自分の現世利益ばかり追求する宗教団体も多い。

偽スピリチュアリストや現世利益のために宗教団体に入信している人(A領域)が、愛を実践している無神論者(D領域)に説教したり改心を迫ったりするのはある意味、皮肉であり、滑稽であり、そして悲劇である。

第三者が当人の信仰の有無、主義主張、語る言葉だけで判断するのは危険だということである。

意識のレベルは目には見えない。それを測るにはその人の行動を観察して見極めるしかない。

よく観察していると、偽者は愛のためでなく、欲、つまりエゴに基づいて行動しているのが分かるだろう。

ただし観察する自分自身が、愛のためでなくエゴに基づいて行動しているなら本物か偽者かを見極めることはできない。

一番眼力を養うために良いのは、自分自身がこのエゴ・ノンサイキック領域(A)からハート・スピリチュアル領域(D)に移行することである。

高い意識レベルは低い意識を見通せるが、低い意識レベルは高い意識が理解できない。

<堕落したスピリチュアリスト>

また、意識の覚醒を目指すスピリチュアリスト(D領域)であっても、自分自身を見失って堕落してしまった場合はこのA領域に移行する。

一時的に誘惑に負けて堕落したと自覚があるならば、気持ちを改めてまたD領域に戻る。

人間は完全ではない。3歩進んで2歩下がり、また3歩進むように意識レベルを高めていく。

だが堕落したという自覚がない場合は厄介である。

若い頃は純粋に真理探求を行い神を愛しようとしていても、生活に追われて世間の荒波に沈んでいく、異性の誘惑に負け溺れる、など。堕落というよりは霊的向上の放棄とも言える。

若い頃、学生運動に夢中になった左翼学生が普通のサラリーマンになりあの頃は若かったなあとか感慨に耽るのと同様に、スピリチュアリストも大半は普通の一般人に戻っていく。

このエゴ・ノンサイキック領域(A)からハート・スピリチュアル領域(D)に移行するには、エゴに支配された生き方から、ハートの声に従う生き方へと意識改革する必要がある。

初心をいつまでも持ち続けるか、一時的な迷いで手放したとしてもまたもう一度その情熱を取り戻そうとするのはスピリチュアリストとして必要な姿勢である

<A領域の波動、エネルギー>

このエゴ・ノンサイキック領域(A)の人々と交流しても良い影響を受けることは何一つない。

もしあなたが、このA領域の人々と諍いが絶なかったり、腐れ縁と思われるくらい交流関係が続いていて縁を切りたくても切れない状況にあるならば、あなたの意識レベルもこのA領域にあることを意味する。

類は友を呼ぶという法則を覚えておくと自分の立ち位置がよくわかる。

人間関係を改善するために、無理やり絶交したり、縁切りを祈願しても、あなた自身の意識レベルが変わらない限り、そのような行為に効果はない。一時的に効果があっても、また同じようなタイプの人があなたの前に現れるだろう。

人間関係を刷新したいならば、意識レベルを上げてスピリチュアルの領域に移行することが一番有効である。

全ての争いを解決して幸福、平和に至る道は、自分の意に沿わない相手を追い出したり黙らせることではなく、自分自身がエゴを捨てて愛に生きることである。

それゆえに、社会的にどれだけ反戦デモを行なってもそのデモが政府への怒り、憎しみによるものであれば、効果はない。

なぜならば彼ら彼女らは平和を望んでいない。

望んでいるのは争いと分裂であり、自分の人生に対する不満を社会や政府にぶつけているだけである。

たとえ時の政権が退陣しても、次の政権、さらにその次の政権にも退陣を迫る。

真に平和を願うなら自分自身の心に平和を築くしかない。

この反戦運動に平和の波動が感じられるだろうか? むしろ戦い(つまり戦争と同質)の波動ではないだろうか?

我々一人一人が意識改革し、このエゴ・ノンサイキック領域(A)からハート・スピリチュアル領域(D)へと上昇するならば、すべての生きとし生けるもの、万物が恩恵を受け取るので、他に何もしなくても争いは消えて、世界の平和は自然に実現するのである。

以上、読んでくれてありがとう。

次回、エゴ・サイキック領域(B)についての解説はこちら→記事42

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