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英訳できない日本語 “木洩れ日”

私が好きな日本語のひとつ、“木洩れ日”

前回の記事を書いていて、このことについて書きたくなった。


木漏れ日というひとつの単語をきけば、
日本人ならその情景がすぐ目に浮かぶ。

しかしながら、
外国人にそれを説明するとなると、

“木立の間から日の光が漏れる光景”

と、説明的な表現をしなくてはならない。

今回これを書くにあたって調べたが、
中国語、韓国語、フランス語なども
“木洩れ日”をひとつの単語で表すことができないようだった。(私調べだからあるかも)

木洩れ日、こもれび、komorebi…

とにかく、この“木洩れ日”という美しい日本語の中に、日本人独自の感性がみえて、
その語感もよくって、好きな日本語のひとつになっている。

ちなみに森林浴、木枯らしなども英訳できない日本語である。

日本の和の雰囲気、昔の日本人の自然への畏怖など、それが今でも土地柄や言葉に残っている。

京都の和の雰囲気が好きで、妹が京都に住んでいた時期は何度も遊びに行った。

祖母が華道の先生を自宅でしていたこともあり、東北のど田舎でも身近に“わびさび”の日本人文化はあった。

華道は室町時代に栄えた文化。
大衆に花を生けることが広まったのもこの頃。
もっと遡れば奈良時代くらいから供花として、
宗教と共に栄えてきた。

それは、ヨーロッパからきたブーケやアレンジメント(コンポジション)とは異なる性質をもつもの。

華道の世界では、そのヨーロッパの華やかさと対比して“引き算の美”と表現される。

余計なものを取り払ったその先にある美。
質素でつつましい生活の中、固く閉じた蕾に生命を感じる繊細な心。
自然への尊敬、生命の尊さ、ダイナミックさを表現した花。

“花は人なり”

華道の講師が言っていた言葉を思い出す。
今は職業上、ブーケやアレンジメントの作成がほぼ100%になっているが、
それでも自分が作る花束は自分自身を写すものだと思っている。
華道で学んだ精神はずっと忘れずにもっていたい。

そして、ちょっと余裕が生まれたら、またお花を習いたいと思う。
きっと、何年経っても何十年経っても、満足なんかしなくて、新しい発見があるんだろうなと思う。
お花の世界にもっともっと浸かりたい。
まだまだ、こんなんじゃ足りない。

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