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無償の愛を教えてくれた人

私の人生の中で、唯一あたたかく、
純粋できれいな思い出は祖母とのもの。
一緒に暮らしていた父方の祖母ではなく、
近くに暮らしていた母方の祖母。

祖母がいなければ、私はとっくに命を絶つ選択をしていたと思うし、存在していたとしても、かなりひねくれた大人になっていたと思う。

学校帰り、家に帰りたくなくて祖母の家に寄った。折り紙やお絵描きをした。夜ごはんを一緒に食べた。
高校の時は、家出をして祖母の家に泊まってそこから学校に通っていたこともある。

何があっても、祖母は“理由”をきかなかった。何も聞かずに、世間話をしたり何かを作ったりしていた。特に励まされたり、相談に乗ってくれたりしたわけじゃない。

でもそこには確かに、どんな私でも肯定してくれている、という安心感があった。これが、無償の愛だと大人になった今、そう思う。いつも笑顔で、出迎えてくれたあの顔が懐かしい。

帰り際、「がんばってるひとに、がんばってって言っちゃいけないね」と言われたことをよく覚えている。
人が何か抱えているとき、つい口を出したくなると思うが、祖母は何にも触れずに、ただ、幼い頃から変わらぬ愛情で接してくれた。それが何よりも救いだったと思う。

語彙力がないので、他の文学作品に例えるが、

私が大好きな本、『西の魔女が死んだ』に出てくるおばあちゃんのような存在。

祖母は華道の先生として、自宅で教室をひらき、生徒さんみんなから好かれていた。
穏やかで思慮深く、やさしくあたたかい祖母。着物もよく似合う、自慢の祖母。
世界一だいすきで、一番尊敬できる人。これからもそれは決して揺らがない。

祖母は私が大学に入り一人暮らしをしている時に、癌をわずらった。
長年暮らした地元を離れ、私の通う大学の近くの病院に入院した。家族の中で、一番近くにいたのが私だった。
毎日お見舞いに行った。
朝から講義に出て、終わると病院にいき、声をかけて、急いでバイトへ向かう生活。
祖母が話せなくなっても、私は同じように通い続けた。
細くなった手を握り、今日あったことを話した。祖母の家に遊びに行った時のように、他愛のない世間話。私の声だけが病室に響いた。泣いちゃいけないとわかっていても、毎回泣いてしまった。

私の誕生日、あと1ヶ月後だよ。一緒にお祝いしてね。
握り返す力がほとんどなくなっても、声をかけ続けた。

あと、2週間後、、
あと、1週間後だよ、、

私の誕生日は、祖母の葬儀の日だった。

忘れられない日。
人生で一番泣いた日。
でも、私の声は届いてたのかもしれない。
偶然かもしれないけど、そう思いたい。

その葬儀が終わって2ヶ月後、私は大学を辞めた。
祖母のいない地元にいる意味がないと思った。喪失感というよりかは、前向きな気持ちだった。
私は私の、新しい人生を歩もうと思った時、花の仕事がしたいと思い立った。
そうと決めた時の行動は早かった。
祖母が亡くなってから半年もしないうちに東京に引っ越した。

命あるもの、いつかはその時がくる。お花と触れながら、生命の儚さ、命の美しさ、蕾から枯れるまでのそのドラマチックな一生を花屋として眺めながら、今では祖母の死を少しは前向きにとらえられていると思う。

祖母は美しく生きた。
私が生きる糧を残してくれた。

もちろん、祖母には生きていて欲しかった。
今でも、会いたくて会いたくて、その声を聞きたくて抱きしめて欲しくて、涙が止まらない時はある。

祖母がお花に触れた60年間にはまだ到底及ばないけれど、祖母がみた景色を私もこの目に焼き付けていきたい。

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