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【Vol.19】大手メーカーから外資コンサルに転職した私が伝えたいキャリアの「選択」について

今回は歩兵の知人のくまくりんさんにお話しを伺いました。

誰もが知る日系大手メーカー→外資コンサルという経歴で、本業の本部長を務めながらも日経BPなど色々なメディアで発信もされている正真正銘のエリートです。

ずっと記事を書いて頂きたかったので、今回記事を書いていただけるとのことで本当にありがとうございます!

●本編

皆さん初めまして。くまくりんと申します。33歳です。

私は2012年、株式会社リコーに新卒入社しました。そして16年秋に転職を決意し、17年のGW明けから現在の会社(外資系コンサルティング企業)にいます。

よろしくお願いします。

●私がこの記事を書こうと思った理由

日本では新卒採用、年功序列のメンバーシップ型が主流です。

SNSの台頭と共にその「JTCのぬるさ」が露呈していますが、同時にこの雇用体系だからこそ、ボトムアップ型で均一で成長できたことが我が国の強みだとも思っています。

一方で、ダイバーシティがさけばれる中、多様な価値観が出てきていることも事実です。

私は、メンバーシップ型からジョブ型職種へとキャリアチェンジし、外資系コンサルティング企業へと転職しました。

生存バイアスもありますが、これまで感じていた日本企業での「変えられない」フラストレーションの多くは、現職で本部長となった今、解消しています。

その大変さもありながらも、自分の考え方を発信することで、何か感じてもらえることがあるのではないかと思い、この記事を執筆することを決めました。

特に以下のような方には、ぜひ読んでもらいたいと思っています。

  • 自分のキャリアへの漠然とした不安・自社に対する構造的な問題・日本社会の慣習などに対する課題を感じている人

  • 上記のような課題感に対して、自分で当事者意識を持ちながら課題解決をしていきたいと考えている人

選択肢は常に開かれています。そして「どの選択肢が正解」ということはありません。

「自分が選んだ選択を正解にすること」が重要であり、それを可能にすることは「正しい努力」です。

私のこれまでの経験を踏まえて、少しでも皆さんのお役に立てればと思っています。最後までお付き合いいただけると幸いです。

●学生時代の話

大学のころはサークルとバイトに明け暮れ、いわゆる「量産型」の文系学生という感じでした。

恐らくもともとコミュニケーション能力は高いほうだったこともあり、先輩や後輩など年齢に関わらずいろいろなレイヤーの人と仲が良かったと思います。

仲の良い先輩の多くがメーカーに就職していました。その流れで自分も「気質が合うなら同じ業界が良いのではないか」と、安易な気持ちから就活ではメーカー中心に受けていました。

中でも、バイトの仲の良い先輩がゼロックスに内定をもらっており、その話を聞いて同じ業界を受けていました。

新卒での就職活動をしていた2011年3月、東日本大震災が日本を襲いました。

当時面接の解禁日だった4月に対して、多くの企業が面接の開始を6月に遅らせました。その中で、入社したリコーは4月から面接を解禁していました。

それは、これまで準備していた人への配慮をしつつ、東北で被災した人やその他影響を受けた人は選考を遅らせるなどの配慮をしており、もともとの志望度の高さに加えて好感度が上がりました。

また、4月に入ってすぐに内定をもらったこともあり、入社を決めました。

就活中はずっと営業職だと思っていましたが、入社してから「マーケティングスペシャリスト」の職種枠だったのに気づきました。

●刺激を多く受けた新人時代

同期とも仲良くやれて、新人研修なども楽しく過ごせました。当時、会社として「イノベーション」を推進していたため、そのような研修を多く受けていました。

メーカーということで理系の院卒の同期も多いため、自分にはない考え方を持っている人も多く、刺激を受けました。メーカー向けのコンサルをすることも多く、理系の方とも多く関わっているため、今でも当時の感覚が非常に生きていると感じます。

集合研修のあと、国内営業に配属され、販売会社へと出向しました。同期には「営業は嫌だ」と考えている人も多かったのですが、個人的にはもともと営業志向が強かったです。

その後、マーケティングとしてのキャリアを歩みますが、営業の「数字を作る」思考は営業でないと作れなかったと思います。

当時から配属面談があるたびに、「なんでもいいですが一番忙しい部門に入れてください」と言っていました。

それが考慮されたかわかりませんが、配属後、大手営業で(ある程度)責任のある仕事を新卒から任せていただきました。

●苦労しながらも、自分の強みを生かせた若手時代

営業での最初の2年間は、営業として短期で数字を作り貢献することと、マーケティング採用の営業出向の立場としての目的意識は忘れないようにしていました。

3年目からはプロダクトマーケティングに異動になり、海外経験もなくTOEICの点数も当時確か700点前後とかでしたが「英語できます風」を装っていたら海外担当になりました。

最初はマーケティングのお作法・設計開発など「理系脳」の人と会話するのに苦労しました。普通に英語は全くわからないので、基本、全部苦労していました。

ただ、「なぜか海外の要人に好かれる」という強みを持っていたので、仕事をする上での信頼関係は非常に強かったと思います。

●少しずつ抱き始めた「疑問」

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