日本のナショナル・アイデンティティ~羅針盤無き日本丸の行方~1章


はじめに
1章  問題意識
2章  諸外国との比較、ドイツ・アラブ
3章  明治日本から戦後日本、征夷大将軍たるマッカーサー
4章  三島事件と日本
5章  日本の現在地
6章  日本の羅針盤、多文化主義・平和主義・超平和主義・皇室・星条旗・亜細亜


はじめに
たかが一大学生がこのような大仰な題名をつけて駄文を書き散らすに至った課題認識は1章において取り扱おうと思う。ここでは超個人的な問題意識について少し書いて本題に入りたいと思う。
 私は正直に自白すると中学生のとき排他主義、レイシストだった。思春期特有の、いや今もそうかも知れないが、自分のコンプレックスと真っ向から向き合う勇気がなかった。そのためにコンプレックスの吐出口としてドイツを第二次世界大戦に導いたかの伍長が唱えたような空虚な民族や国家に根拠を求めた誇大妄想に浸る暗黒時代があった。運良くその妄想から脱して今度は真反対の虹色とか、赤色とか薔薇そういった思想について近づいていった。結局の所それだけではあまりにも非現実的と感じてしまうようなことを多く感じた。保守もリベラルも窒息している日本ではそれは根付かないのではないかと感じた。だからといって拝金主義に裏切られた自分の母国がこのまま空っぽのまま終わってしまってほしくない。せめて大学生活の結びのこの時期に少し頭の中だけでも抵抗したい。そう思ってふと書いてみたのがこの駄文というわけである。このような非常に個人的な書物だからなんの価値もないことは言うまでもない。

1章 問題意識
 本題のナショナル・アイデンティティといった話に入る前に「ナショナル・アイデンティティ」という言葉それ自体を一度仮に他所からではあるけれど引っ張ってきてみたい。大学生のコピーアンドペーストの元の総本山コトバンクから引用すると以下の通りである。


一定の領土や共通の価値信条体系,社会文化的様式などのような,一つの共同体的単位としての国家の特性,あるいはこれに帰属しようとする構成員としての国民の一体感をいう。このような連帯意識は,特に新興独立国や深刻な分裂状況に直面した国家にとって,政治的権威の確立と並んで,国家的統一の根幹をなす。(1)


国家、国民として意識の中に存在する根幹的な意識と言い換えてもいいかもしれない。特に後半の「進行度効率国や深刻な分裂状況に直面した国家にとって、政治的権威の確立と並んで、国家的統一の根幹をなす。」とある。危機的状況になれば自分とは、祖国とは何かという意識が重要視されるということだろう。個人に置き換えてもやはり、親の離婚だとか就職だとか、自らの結婚、子供の誕生という節目にアイデンティティは揺さぶられるものである。ここに関しては国家も個人も大きな差はないように思われる。親の離婚は内戦・分裂、就職は国家形成、結婚は合併だとかに置き換えられそうだ。とりあえずはこのナショナル・アイデンティティを個人的なアイデンティティをスケールアップしたものとして位置づけたいと思う。(精密な定義は辞書におまかせして)
 さて、なぜ平和とされる現代日本においてナショナル・アイデンティティなぞ問うのかそれが本章の目的である。端的に言えば移民の流入や没落する経済、台頭するポピュリズム、ミサイルと軍事伸張激しいアジアの環境下にあって日本へこれを問われる時代は近いのではないかと思うからだ。その前に今一度日本とはどのような国か、そしてどのような国へとなっていくかということを自問自答することは決して無益でないように感じるからだ。
 武家政権の終わりを迎え新たにアジアの新興国として出発した小さな国日本は、ナショナル・アイデンティティを皇室とアジアにおける列強という地位に見出したように思える。天皇の権威構造を近代国家にスライドさせて成立した日本はモデルとした西洋列強とともに同胞たるアジア諸国を侵略しその支配下においた。その結果国際連盟における常任理事国と西洋列強と対等の地位を(多くの同胞アジア人を踏み台に)有色人種で唯一獲得した。(2)結局帝国主義の終焉を悟ることのできなかった日本はそのアイデンティティを敗戦とともに失った。その後日本は連合国からの関節統治という形で生き残る。当初はこれからの日本について多くの議論が行われ、安保闘争へと繋がり最高潮を迎えた。しかし、高度経済成長を迎え豊かになっていくにあたってそのようなこれからの日本像については、なし崩し的に経済成長に置換されていった。そして現在日本は経済成長をほぼしていない。このように近代から現代の日本におけるアイデンティティの変遷と喪失の過程を鑑みると現代は喪失の時代にあるのではないかと思う。これは経済成長、悪く言えば拝金主義的な物に限らずアジアでNO.1の優等生という地位すらも喪失したが故に敗戦という象徴的な事象はないにせよ大きな転換点に差し掛かりつつあるのは間違いないだろう。その反動として昨今浮き彫りになるアジア近隣諸国に対する異常な憎悪、ヘイトスピーチがその一端を表しているのではないだろうか。経済成長と優等生の地位を取り上げられたジェラシーから他国を扱き下ろすというのはなんとも滑稽で空っぽなことである。であるからして新たな指針を再検討する意義は嫉妬心むき出しでヒステリーを起こすよりはよっぽどマシだと考えるわけである。
この一連の流れの中に5章、6章のヒントがある。生き続けた皇室やアジアにおける筆頭国日本という認識だ。これに関しては明治期から続いているように思われる。これ以上に関しては該当の章で述べる。
さて、次に考えたいのはそもそもナショナル・アイデンティティ自体に意義はあるのかという疑問である。これに対してこんなものを書いてあるから無論私はあると考えている。アイデンティティなくして纏まりのある、国としての戦略的かつ体系的な政策決定はできないからだ。無論アイデンティティがあるからこのようなものが担保されるとは限らない。アメリカにおいては自由と民主主義がそれに当たるだろうが、それが故に自由の名の元に他の自由を縛り上げたり、民主主義を押し付け結局は血みどろの内戦に誘うこれは失敗ではないか。アラブにおいては汎アラブ主義とイスラムの2つがグルグル周り政治はいつまで立っても混乱状態を脱しない。これは失敗ではないか。このようにも言えるかもしれない。しかし、双方どちらを取ってみてもこの国は、我々はどのようにあるべきかという前提条件を共有することによって建設的な議論の少なくとも一歩目にはなりえているはずだ。第一歩目としてのコンセンサスが得られていなければそもそも議論の土台が成り立たない。昨今日本における憲法改正論議を見てどうも噛み合わないのはこの土台が存在しないからではないか。コロナ禍における給付金10万円は一体なにを目的として給付されたかは全く不明である。命を守るための一時金なのか、それとも経済を持続させるための金なのか。用途不明の10万円は寄付するものだと解釈するものもいれば、市政の財源にしてしまおうという様々な混乱が見られたのは良い一例ではないだろうか。アイデンティティに沿った政策であればこそ政策目的もしっかりと定まり、ある程度まとまった方向性のある政策になるはずなのだ。しかし、日本にそれがあるようには思えない。
このような問題意識がふつふつと自分の中を駆け巡り、考えてみなければならないと思いたち今に至る。これからはまずは他国のアイデンティティを覗き見て日本の今までの経験を振り返る。これを踏まえた上でいくつかのモデルケースを検討していくことをこの長大な駄文の目的にしていきたい。

2章へ続く

(1)ナショナル・アイデンティティhttps://kotobank.jp/word/%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%86%E3%82%A3-108085 (最終閲覧2020/07/05)
(2)よく言われる日本がアジアを解放したというのは結果論であってそこに明確な日本の使命意識があったかは甚だ疑問である。征韓論を当初から唱え、そうでなくても明治維新の輸出を行い、アジア諸国を改革しようという黎明期の教導的意識でさえ、それはフランス帝国主義のフランス革命の輸出と植民地支配の焼き直しに過ぎなかった。

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