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【凡人が自伝を書いたら 108.凡人、自伝を書く】
さあ、宴もたけなわ。
ここいらで、一旦終いとさせていただきます。
「妹の結婚式」を終えた僕は、いよいよ暇になった。
人は、本当に暇になると、やりたいことを勝手にやり出すものだ。
それまでは仕事のせいにして、
「時間がないから」
「無意味そうだから」
そんな理由を持って、やらなかったことを、やり始めるものだ。
僕の場合は、それは「書く」ことだった。
なにを書きたいか。
それは「自伝」だった。
ここで「選択」が一つ。
「人に見せるか、見せないか。」
これである。
僕の性格上、「紙のノートに黙々と自伝を書き続ける」つまり、誰かに見られる可能性0%の状況で、書き続けるようなことはできないと思った。
「もしかしたら、見てくれる人がいるのかも知れない。」
そう思えた方が続けられる。
数人でも見てくれる人がいれば、やる気が出て、続けていける。
そうなることは、予測がついていた。
となれば、ブログかなんかだな。ということで、Google先生に質問を問いかけた。
「ブログ 初心者」
色々と「胡散臭め」の文章で、ブログ立ち上げに必要なもの、やり方みたいなものが紹介してあった。
めんどくさい。
本気でやる人には、ためになる内容なのだろうが、僕はそういうわけにはいかない。(凡)
むむ?
どうやら、「書いてアップするだけの超お手軽で、意外に読まれるサイト」があるらしい。
「note」
ふむふむ。「紙のノートを書くように、誰でも気軽に簡単に書くことができる」ということか。(違ったらすいません)
それが、僕と、この「note」というサービスの出会いだった。
それまでの僕は、「SNS的なもの」には、1ミリも興味が無かった。
誰もがやっている、ツイッター、インスタグラム、フェイスブック。そういうものには、一切手を出して来なかった。
「死に垢」さえも持っていなかった。
僕も普通に大学生だったし、飲食店で働いていると、沢山の学生たちと触れ合うこともある。
「これからは情報発信の時代だ!」
そう言って、血眼になって「情報」とやらをSNSという荒野に投げ続けている学生をたくさん見てきた。
口を揃えて、
「情報発信」「フォロワー数」「人脈」「影響力」「有益な情報」「個人の時代」「ビジネス」「価値観の多様性」「行動力」「自己啓発」「意識高い系」「命の次に大切なものは時間」「好きなことをして生きていく」e.t.c.
うさんくさい。
ただ、ご了解いただきたいのは、僕はべつに「反対派」ではない。
周りからこういう話が出てきた時は、詐欺に引っかかりそうになっていない限り、「楽しいんだったらいいんじゃね?」派である。
そういう人間の実際のところを見ていると、
まるで「テニスラケットと、テニスボールで野球をやっている」感じがして、よく分からなかったからである。
「SNSのフォロワーの前に、現実のあなたの周りに、あなたのフォロワーは何人いますか?」
そういうことが聞きたくもなるのだ。(これについてウダウダ書くのは別に機会にしておこう。)
「自伝」などと言っている時点で、これら全てに該当しないことは明白だ。
僕は、
「書ければいい。」
「PVが0で無ければそれでいい。」(凡人なので、PV0でも書き続けるほどの気力は無い。)
そういう思いで、これを書き始めたのである。
いきなり自伝を書くのは自信がなかったので、初めは、すぐに書ける「今までの学び」みたいなものを練習がてら、チョロチョロと書いた。
なんの参考文献もなく、編集も、工夫もなく、「書き上がった瞬間、即あげ」というなんともお粗末なものだったが、これが意外と読まれた。
もちろん、「バズり」などしない。
見た目も、タイトルも、内容も、戦略的なものも、全ての観点において、バズりようがない。
ただ、PVは0では無かった。
全ての記事それぞれに、「スキ」がついた。
練習段階の記事が、スキもPVも0だったら、もしかすると、自伝を書く前に辞めていたのかも知れない。
これは、どこの誰だかもわからない、皆さんのおかげである。(合掌)
自伝を書く上で、ネックだったのが、
僕は記憶力が乏しく、高校より前の記憶がほとんど無かったことである。(凡)
そこは、両親と、中学時代からの親友「宇野君」に話を聞いた。
「俺、そんなことしたっけ?」
「そんなこと言ったっけ?」
「そんなことあったんや!」
「あれ、そういうことやったんや!」
「あれ?俺の記憶と全く違いますけども!?」
彼らは、僕が知らない(覚えていない)僕をたくさん教えてくれた。
話していると、忘れていた記憶がどんどん蘇ってくる感覚は、自分でも意外だったし、純粋に面白かった。
自伝の中の、中学までの部分は、ほとんどが聞いた話、聞いた上で僕が思い出した話ばかりだ。
彼らがいなければ、僕の幼少〜少年期はおそらくスカスカだったことだろう。
これは感謝である。(アーメン)
「凡人が自伝を書いたら」
このタイトルは、正直なんとなくつけた。
凡人が自伝を書いたら(。)
この言葉の最後に「。」をつけるのは、日本語として間違っている。
普通に考えると、完結していない、続きがある文である。
もしかしたら、続きを予想された方もいるかも知れない。
例:「凡人が自伝を書いたら、本になりました。」
これに対する僕の意見が予測できる方は、割とツウである。
答え:「そんなことになるのは、凡人の所業ではない。」
例:「凡人が自伝を書いたら、人生変わりました。」
答え:「そんなことになるのは、凡人の所業ではない。」
例:「凡人が自伝を書いたら、素晴らしい出逢いがありました。」
答え:「そんなことになるのも、凡人の所業ではない。」
そう、
自伝を書いても、うんともすんとも、どうにもならない。
そして、今後どうなるのか一切分からない。
これが「凡人」である。
今、あえて無理やり、文章として完成させるのなら、
「凡人が自伝を書いたら、(こういう感じになりました。)」
これである。
しょうもない。(凡)
ただ、今までの僕の経験で言うと、「過去のいろんなことが未来に繋がる」という経験は結構たくさんあったので、もしかするとこれもそういうふうになるのかも知れない。
「ああ、あの時、自伝を書いておいて良かったなぁ。」
「あぁ、これはあの時、自伝を書いていたから、こうなったのだなぁ。」
そういうふうに思えることが、もしかしたらあるのかも知れない。
ただ、僕はそんなに先のことはわからないので、なんとも言い切れない。
「楽しかった。」
「自分の思考や、価値観がどのように出来上がったか、なんとなく分かった。」
「自分って、こんなもんだよね。」
今のところは、それで「良し」とさせていただきたい。
またしばらく経って、その時もこの「note」なるものが存在していたら、書かせて頂きたい。
物好きが過ぎたのか、結構たくさん読んで、「スキ」を押してくださった方々。
あなたの存在を僕は認識しています。
僕の小さなやる気を加速させてくれて、本当にありがとうございました。
あと一つ。
自伝を書く中で、僕に残った想いがあった。
今までたくさんの人に出会い、いろんな事があった。
書いていないことも正直、たくさんある。
嫌われたまま別れた人間もたくさんいる。
その時は、ひどく仲違いした人間もいる。
そんな人間たちも含めて、今まで出会った全ての人に、自伝を書きながら思っていた事がある。
それは、
「あぁ、アイツ(あの人)、今も元気にしてるかなぁ。幸せにやってるかなぁ。今のことはよく分からないけれども、どうか、お幸せに。」
今まで出会った人間に、恨んでいる人間など、一人もいない。
これは、誰の前でも、どんなに多くの人の前でも、胸を張って堂々という事ができる。
自伝を書くことで、僕の全てを出し切って、最後になにが残るのか。
それも結構楽しみだった。
パンドラの箱の中には、「希望」が残ったようだが、
僕の箱の中には、「感謝と願い」が残ったようだった。
〜完〜
、、、いや、まだ死んでいないので、
〜未完!〜
〜凡人の心の中〜
ふう。
やーっと終わったぜ。
「お疲れ様でした。」
「誰!?」
「私は、あなたであり、あなたは、私です。」
(はい、でた、この感じ。)
「まぁでも、とりあえず、ありがとうございます。」
「これであなたの無意味な行動も、終わりを迎えると思うと、なんだか寂しい気持ちもします。」
「え?」
「ただ、無意味・無益・骨折り損と分かっていても、続けてしまう感じ、私には馬鹿らしくてやってられませんが、尊敬します。」
「うん、ありがとう。で合ってます?」
「馬鹿やるのも別にいいですが、やめ時が肝心です。ここで、やめるという選択したあなたを、凡人でなく、小さな勇気ある人として称えます。」
いや、やめねえよ!?
「は?」
「え、逆に、は?」
「まだ、凡人の道を行かれるのですか?」
「はい。だってわたくし、凡人でございますからね?」
「、、、」
それではまた。
どういうこと!?
お金はエネルギーである。(うさんくさい)