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瓶詰めの海



バーカウンターに座るお客様で、一番多いのは多分お一人様だろう。
それはバーテンダーにとって、一番緊張感のある場面ではあるけれど、カウンターの本来あるべき正しい姿の様な気もする。

その次はカップルのお客様だろうか。
同じ方向を見ながら話す姿は、それが楽しげでもそうでなかったとしても、大切な時間であることには変わり無い。

あとから振り返ってみれば、だけど。


三番目と四番目はお店によって分かれるところだ、でも意外にも老舗のバーではその辺りに親子が入ってきたりする。

二十年以上通ってる常連さんとその子供たち。

僕の勤めている地下のバーには、そんなお客様が結構いらっしゃる。

一番近しい家族との二人きりでの乾杯は、大体がぎこちなくてたまにぶっきらぼうで、見ているこちら側が照れてしまうくらい親密さが狭い空間に充満する。

そして同時に、親密さとは別の、それぞれにぎこちない感情がその空気に混じってもいるのも、分かりやすい特徴で。


子供であることに身を捩るような背伸びをし。
親であるという態度をことさらに消すようにして。


それは巣立ち別れる手前にいる親子の、ほんの短い時間にだけある儀式のようで、まだ結婚すらしていない僕ですら時に胸が苦しいような想いをするんだ。



ただ、あの母娘は少し事情が違うようだった。


***


たかだか三年だけど、バーテンダーとしての僕の経験に置いて、警戒とまでは言わないまでも要注意なお客様というのがある。

「声が大きい」「知らない人に話し掛ける」「自分の話ばかりする」の三つで、カウンターの秩序を乱しかねないこれらに僕はとても敏感だ。


その意味では、最初から谷口さんは三ツ星達成というか三冠王と言うか何と言うか、要するに「困ったお客様」だった。


初めて店にいらした時、一目で初見の方だと分かったその出で立ちは、派手だか地味だか良く分からない花柄のブラウスに、首にはデカ目の真珠っぽいネックレス。薄暗い店内をキョロキョロと見回す目には、それはないだろうと言うくらいの付け睫が主張していて、おまけにキャリーケースとお土産物屋の紙袋をいくつも下げている。


大人しかったのはビールをオーダーするまでで、あとは一方的に身の上話を捲し立てる。

おかげで初対面から二十分もしない内に、自動的に僕の知った谷口さんの情報は以下の通りだ。


谷口さんちは母子家庭で、一人娘は市内の会社で一月前に働きだして家を出た。住まいは街中からゆうに車で三時間はかかる県内外れの海沿いの町。田舎育ちで都会を知らない娘の事が心配で心配でたまらない谷口さんは、週に一度娘の休みの前の日にアパートにやってきて、掃除をしたり洗濯をしたり。乗り慣れない軽自動車を、命懸けで運転してきた割には家事はあっという間に終わり、シフト制で帰りの遅い娘を待ってる時間が退屈で退屈で退屈で。



「で、見つけちゃったのよ。このお店。」


はあそうですか、と。

多分いらっしゃいませ以来に口を挟むことを許された僕を笑顔で無視して、谷口さんはカウンターに離れて座っていた常連の女性の方に顔を向けた。


「そう思いません。いくつになっても子供は子供で、ねえ。心配するのが母親の仕事みたいなもんでしょう?あなたお子さんはいらっしゃるの?あらやだ、私急に話し掛けちゃってすいませんねえ。」


そうですねえと、話を合わせてくれた常連さんは独身で、僕は鮮やかに三ツ星だか三冠だかを決めた谷口さんにひきつる笑顔を向けながら、内心できつく目を閉じる様に時間が過ぎるのをただ待っていた。


ああ、そうそう。と、結局誰の相槌も聞いてなかった谷口さんは、紙袋に手を突っ込んでいかにもお土産物という感じのするお菓子の箱を、いくつもカウンターの上に乗せた。


「良かったら皆で食べましょ。地元じゃ有名なんですよタコの煎餅に海老のおかき。本当は村田の奥さんのがいいんだけど、ほらあれは年に一回だから。」


僕は勢いにさんざ打ちのめされたまま、村田さんの年一ってなんだろうと思いながら、常連さんにタコ煎餅を無理矢理渡す谷口さんをぼんやりと見ていた。


「あなたも。ほら、食べて。美味しいんだから。」


谷口さんはあっけらかんと笑っていた。



それから毎週、谷口さんは店にやって来た。

娘さんの仕事は、遅ければ午後九時を回るらしく大体七時過ぎから二時間は飲んでいく。

酔っぱらって乱れたりすることはなかったけど、そもそもがそんな感じだったから、正確には酔ってたかどうか分からない。

ただ、参観日のようだった格好は年相応な大人しいものに変わっていった。


「ナオがね、市内のお魚は食べられないって言うのよ。特にお刺身。ほら、地元だとお家でだってさっきそこいらで獲れましたって言うのをすぐ捌いちゃうから鮮度が違うのよね。ただ、さすがに三時間魚積んで運転してくるのもねえ。」


うちの店にお持ちいただければすぐ捌きますよ。とオーナーが言っている。


「あら。じゃ今度持ってこようかしら。ホントいいオーナーさんのお店見つけて良かったわあ。ナオにもね一緒に行こうって誘ってるんですけど、ほら、あの娘忙しいでしょう。なかなか、ねえ。」


相変わらず要注意な部分はあったけど、僕は谷口さんを「困ったお客様」とは思わなくなっていた。


娘の自慢と心配。あとは地元の海と魚の素晴らしさしか話さない谷口さんを見ていると、バーテンダーになってから一度も会っていない田舎の母親を思い出した。

大学時代。一度だけアパートに突然やって来た母は、汚い汚いと言いながら掃除をし、食べきれないくらいの料理をタッパーに詰めて冷凍庫に押し込んで帰っていった。

駅まで送った時、ホームの奥に歩いていく後ろ姿を見ながら訳も分からず胸が苦しかったのを覚えている。
母は売店でお弁当とお茶を買い、それを下げたまま列車の中に消えていった。
自分の知らない場所で一人で何かをする母を初めて見た気がして、それはとても頼りなく危なっかしく見えて、僕は名前の分からない感情を抱えたまま改札に突っ立っていた。


谷口さんもあんな風に、慣れない道をたった一人軽自動車で帰るのだろうか。






「最近見ないな。」


と、オーナーに言われて初めて気がついた。

十二月半ばの、これでもかと寒い週末の夜。

そう言えばもう二週間以上谷口さんを見ていない。


最後に店で会った時、谷口さんはここ最近定着した「お兄ちゃん」という呼び方で僕を呼び、地元からわざわざ運んできたクーラーボックス一杯の魚を誇らしげに見せた。
すぐにオーナーが捌いた刺身は、確かにびっくりするくらい美味しくて、僕が素直にそう言うと、まるで自分で育てたかのように喜んで「自慢の海だから」と何度も言った。

そして「あの娘が喜ぶ」と、いつにも増して大きな声で笑っていた。




いらっしゃいませ、の声に。

物思いから弾かれて、店の入り口に顔を向ける。


見た瞬間に分かった。

きょろきょろと回りを見回しながら立っていたのは、谷口さんにそっくりな顔立ちをした女の子だった。


「すいません。私、ナオです。谷口波音です。お母さんがいつもお世話になってます。」


オーナーに促され、カウンターに座った彼女は、しばらく酒瓶の並んだ棚を眺めた後で


「すいません普段は酎ハイばっかりなんですけど、ウイスキーを飲んでみたくって。お母さんがこのお店なら何でも美味しいからって。」


と小さな声で言った。


じゃあお願いね、と言う顔をしたオーナーと目が合う前から、僕は銘柄をもう決めていた。


ボウモアのマリナー。


スコットランドの小さな島で作られたこのウイスキーは、確かに潮の香りがする。


彼女たちの海と、同じ香りかは分からないけれど。


恐る恐るという感じで、グラスに口をつけた彼女は「あ、海の匂い」と呟くと、それで思い出したように、持っていた紙袋から金色に見える何かの入った瓶を取り出した。


「これ、お母さんからお店の人にって。年に一回だけだからって。」


「あ、村田の奥さんの年一だ。」


思わず漏らした僕の方を見て「そんなことまでお母さん」と、彼女はまた小さく笑った。


「さっきまで、一緒に居たんです。お母さん。」


でも帰っちゃって、と言うと、彼女は瓶をカウンターに置いて僕の前まで手でそっと滑らせた。


厚手の透明な瓶には、金色に光るようなウニがぎっしりと詰まっていた。


「塩漬けじゃないんです。今朝獲れたばっかりの生のウニ。年に一回近所のおばちゃんが作って近所に配るの。年内は来れそうにないから、お年賀の代わりにって。お母さん、来週入院するんです。あ、いえ病気じゃなくって腰がちょっと悪くってそれで手術になっちゃって。自分で渡せばって言ったんですけど、手術前だからお酒飲めないのにお邪魔しちゃ悪いって聞かないんです。でもどうしても食べて貰いたいって、お世話になってるからって氷漬けにして持ってきたんですよ。」


くすくすと可笑しそうな笑顔をふいに消して、彼女は俯いた。



「もう子供じゃないんだし、そんな毎週来なくていいのに。ただでさえ腰が悪いのに慣れない運転して手術にまでなっちゃって。ホント困ったお母さんで。」



カウンターのグラスの横に、ぽたぽたと滴の落ちるのが見えて、僕は慌てて目をそらした。



オーナーが何かを言うのが目の端に見えた。彼女はその言葉に俯いたまま小さく何度も頷いている。



視線を彷徨わせた挙句、僕は目の前の瓶を手に取った。


うっすらと水滴のついた瓶はまだ冷たく、霜の着いた瓶の蓋を、ちょっと考えて僕はゆっくりと外した。


地下の店のカウンターいっぱいに、海の香りが広がっていく。






谷口さんから聞いた事がある。


いつものように、勝手に騒がしく喋りながら、ある時ふいに遠い想い出を懐かしむ様な静かな口ぶりになって、谷口さんは嬉しそうに目を細めて言っていた。


それは、僕が見たなかで一番楽しそうな谷口さんの姿だったと思う。



「あの娘がね、まだみっつかよっつくらいの時ね。お父さんがまだ元気だった頃で、毎日晩酌するんだけど、そのおつまみのお刺身を膝に座って食べるのが好きでね。ある時酔っ払ったお父さんがふざけてウニを食べさせたらあの娘びっくりして泣いちゃって。でもね、それから大好きになったみたいで、小学校の作文の宿題で「お母さんのご飯で好きなもの」って言うのにウニって書いたの。私もう恥ずかしいやら可笑しいやらで。お父さんの想い出って言ったらそればっかり話すんですよあの娘。ちゃんと覚えてるはずなんてないのにね。あのね、私には言わないけど地元から離れちゃって寂しいと思うんです。だからお店に来た時は宜しくお願いします。お酒ばっかり飲んでたらちゃんと叱ってね。お願いします。」


娘さんは真っ赤な目をしたまま、時々潮の香りのするウイスキーに口をつける。


オーナーと話しながら、たまに笑ってるから大丈夫そうだ。




交通量の多い市内の道を抜けて、見慣れた海沿いの道を谷口さんは走っているだろうか。



海そのものを詰めたような、そんな香りのする瓶を見つめながら、今頃谷口さんはどこにいるんだろうと、僕はそれだけをしばらく考えていた。







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