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はじめての風邪。それも家族の方の。【大学病院血液内科48日目】


リハビリの先生から「握力を鍛えるのに、ボールをにぎにぎしてみては?」と言われ、週末はボールを渡しに行って一緒にトレーニングしようと思っていた。それだけじゃない。『病室の外の廊下で車椅子を足踏みで漕いで進むリハビリならご家族の付き添いでもできます。土日まったく動かないと平日のリハビリも効果が出にくくなりますからぜひ一緒にやってあげてください』のっぽ先生からそう言われていた。

この週末は、はじめての共同リハビリだ。
そう思っていた矢先、なんだか鼻水とくしゃみが出てきた。
父ではない、私の方に。

よくよく考えれば、感染症を完全に防ぐ手段なんてない。手洗いうがい、生活習慣の整備…などいくら対策をしてもうつるときはうつるし、罹るときは罹る。そう頭ではわかっているのだけど、やっぱり「なんで防げなかったんだろう。今、私が倒れたら、父はどうなる?」と自分を責めた。

悔しくて悔しくて泣いた。そして、どこにもぶつけられない怒りや悲しみをTwitterでつぶやきまくった。

「英断だと思いますよ」に救われる

父にうつしたら大変なことになる。ただの鼻風邪が命を脅かすことになりかねない。だから私は父に謝り、面会も洗濯物交換も泣く泣く行かない決断をした。これまで1日だって病院に行かない日はなかった。毎日父のもとに行くことが、私の中ではもう当たり前のルーティンになっていたのに。

いろんな人に悔しい気持ちを吐き出しまくった。オットの前では泣いたし、同じように疾患を抱える家族を持つ看護者の立場の仲間に「聞いてよ〜ショックだよ〜」とLINEして。

するとみんなこう言ってくれる。
「辛いだろうけどその判断、正しいね」「英断だと思います」

「辛いだろうけど」「英」断というフレーズにまた涙が止まらなくなった。
免疫抑制をしている人に感染症のリスクを負わせてはいけない。だからたとえ鼻風邪だろうが、いくら症状が軽かろうが、近づかないようにするというのは当然の選択になる。でも、その選択をすることが「どれだけ辛い」のか?ということを、仲間はわかってくれていた。そこに感情が触れた。

同じ経験をしているからこそわかることってあるね。ときにこの「同感」がほしくなる。共感ではなく同感。心が弱っていると「私もわかるよ」「あなたならわかってくれる」この関係が(ほんとうは求めすぎると危険なのだけど)欲しくなってしまうのだ。

私も結構、弱っているのかもしれない。
現に体に出てきちゃったしね。

とにかく、仲間の励ましでちょっとだけ気持ちが楽になり「いいから早く治そう」と切り替えることができた。

闘病中の父からアドバイスされる娘

一晩寝たら治る…かも?!
そんなことはないとわかっているのに、いちるの望みをかけて眠りにつく。
そして案の定、ただの風邪でもそう簡単に良くはならないのだ。

父もこんな風に「明日は良くなっている(はず)」と言い聞かせながら過ごしていただろうか?そうやって裏切られてばかりの期待に、心が折れそうになることはなかっただろうか?

ふとそんなことを思いながら「今日もやっぱり行けなさそう」と父にLINE。情けない…また自分を責めたくなってくる。いや、とりあえずうどんでも食べてビタミンと風邪薬を飲もう。

必要なものは毎日父に届けていた。この週末に届ける予定になっていたものもある。それらはどうしようかな…と考えながらうどんをすする。困ったときは先輩たち(Twitterでフォローしている仲間)に相談だ。

『看護師さんが荷物だけ預かってくれると思うよ。体が辛くなければ届けるだけできるかも。そのとき少し小銭を渡してあげれば必要なものを看護師さんが買ってくれるはず』

なーんと!父に会わずに病院に届け物をするだけなんて、考えたこともなかった。それに病室に貴重品を置きたくない父だから、今まで小銭すら渡していなかった。あるね、解決策。探せばあるんだ。先輩方にはいつも助けてもらってばかり。そうして、父に内緒で小銭を忍ばせた洗濯物、リハビリに使える握力トレーニンググッズ、お茶などを病院に届けることにした。会わずに帰るのはどうにも忍びなかったけど、とりあえず必要なものがなくて父が困るようなことだけは避けられた。

そんな日が2日続いた後、「今日も届けるよ」という私からのLINEに父はこう返してきた。

「うどん食べて薬飲んだよ」と毎度報告しすぎて、うどんしか食べていない娘に思われた様子。確かに買い物がめんどくさくて、家にあるうどんしか食べていなかったわ。父からアドバイスをもらい、タンパク質という栄養を摂取することに決める。

しかし…これじゃふたりして病人。
なんとも情けなくて、納豆がいつもよりも粘っていたような気がする。

「こうあるべき」に縛られすぎていたのかも…

風邪の症状が治まり、4日ぶりに面会に行く。たった4日空けただけなのに、いち早く父に会いに行かなければならない気持ちになっている。

必要なものを渡して、顔を見て、ほんの10分いただけだけど、私の気持ちは随分楽になれた。「面会に行けない自分」をどこかでいつまでも責め続けていたのかもしれない。

1日も欠かさず面会に行かなければならない。
そんな風に自覚していたつもりはないけれど、どこかにそういう強迫観念みたいなものを持っていたのかもしれない。勝手に自分でルールを作って、そのルールが守れない時に、守れない自分を責める。それが不可抗力であっても関係ない。

それってちょっと、偏ってるよなぁ。

父が倒れてから3ヶ月。
初めて闘病する父と共に歩く「自分」のことを振り返る機会ができた。
このまま走り続けていたら、体も心もいつか悲鳴をあげていたかもしれない。
今思えば、自分を諫めるいいきっかけだったんだな。

さらに「会いに行きたいのに会わせてもらえない」という前代未聞の世界的な渦がすぐそこまで迫っていた。そのための心の準備もできたのかもな。




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