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死は「戦いに負けること」なのか?【大学病院血液内科32日目】

父がTAFRO症候群という疾患を患ってから何度も「父が死んでしまったら」というイメージが頭に浮かんだ。

葬儀ってどうやって手配するの?誰に知らせればいいんだろう?地元の葬祭場をネットで検索したり。相続か…自分の知らない資産も多分いろいろあるんだろうなぁ、とか。

こうやって文字にするとなんとも乾き切った現実ばかり浮かんでるように見えるけど実際はもっとハチャメチャだ。胆の底から湧き上がってくるような喪失、それはある日突然母を失った時ともまた違う、おどろおどろしい恐怖にも似た感覚。いや、早すぎるだろ。父はまだ65歳なんだよ?そういうのがぐちゃっと混ざって頭の中に渦をつくる。

そして毎度、頼みもしないのに涙が溢れてきてハッと気づく『何考えてんだろ、わたし』。頭の中の渦を必死に手で払い除け、それ以上思考や妄想が広がるのを強制的にストップさせる。

父と向かい合って『いやだ、まだ一緒にいたいんだ。もっと生きてて欲しいんだ』とベッド脇で訴えたこともあった。マスクの下に涙と鼻水をいっぱいに溜めながら。あれはまだ救命病棟にいた頃、父が自分の人生の終わりをいつか来る現実のものとして受け入れていることを私に話した時だった。

もっと生きててほしい、なんて。そんなん私じゃなく父が一番訴えたいことだ。いやだ、死にたくない、もっと生きたい、やりたいことがあるんだ、まさかこんなに急に人生の終わりを考えなければいけなくなるなんて。体の中で暴れている目に見えない奴に向かってそれこそ何度も訴えたに違いない。

それでも、誰でもいつかは人生に終わりを迎える。嫌だと言ったって避けられるものじゃない。母のように生を受けてから30数年で迎えることもあれば、65年生きて明日にもその日を迎える可能性はゼロじゃないし、80年90年天寿を全うする形で終わることも、病気や事故や天災で小さな命が奪われてしまうことでさえも、「いつか」来る人生の終わりなのだ。

それを受け入れるのはほんとうに時間がかかるけれど。

『お空に行ってしまいました』

血液内科30日目。Twitterのタイムラインを見て目眩。その文字は、父と同じTAFRO症候群を抱え闘病をしていた仲間が亡くなられたことを示していた。

一瞬にしてショック、悔しさ、虚しさ、恐怖。感情が多すぎて目眩を引き起こしている。時間が止まるってこういうことを言うんだと思った。

突然の発症、長い入院期間、一旦は退院したものの再発、再入院から悪化。ツイートを追う限りここ1週間ほどはすごく調子が悪そうだった。誰もが何とか乗り切って欲しいと、もう一度回復して良くなってくれることを願っていた。

なぜ治療法が確立していないんだろう?ここは日本なのに。今は令和なのに。

ずっと考えてきた疑問だ。答えはまだ出ていない。

父がTAFRO症候群の可能性ありと地元の救命医グレイ先生に言われてから、自分なりに数多くの症例報告や個人ブログ・体験談などを読みあさってきた。見たくなくて、見るのが怖くて、何度もブラウザのタブをスッと左にスライドさせたTAFRO症候群の死亡症例。Twitterにも以前TAFRO症候群でご家族を亡くされた方が思ってた以上にいらっしゃった。「非常に稀な難病」「生きるか死ぬか」「救命できない可能性」「”何か”あったら」こんなフレーズは飽きるほど聞いた。

言い方がふさわしくないのかもしれないけど、死ぬかもしれない病気だということはイヤと言うほど痛感させられていた。ICUや救命病棟にいた頃の目の前の父はまさに死の淵にいた。

それでもいざ、実際に一緒に戦ってきた(と私が勝手に思っている)仲間が「お空に行ってしまった」という現実を目の当たりにしたら、ほんとうにただただ悔しくて、悔しくて。

唯一出てきた言葉がこれだった。

それまでは、どこかやっぱり他人事にしたかったんだと思う。死ぬかもしれない病気だということを。その病気を父が患っているということすら心の底では「イヤだ」と否定し続けていたのかもしれない。表面的には受け入れているフリをして、現実を見て見ぬ振りしていた。

突きつけられた、そう思った。

仲間は闘いに敗れたのか?

この日はつぶやき通り1日中、TAFRO症候群という疾患との闘いについて考え続けていた。

時に弱気になってしまうこともあった仲間。そりゃそうだよ、誰だって死ぬかもしれないと思ったら、治ることがないと言われたら、絶望し逃げ出したくなる。もう何もかもイヤになって周囲に当たり散らすのも、どうせ自分は…と自暴自棄になるのも当然だ。

戦意喪失、だから負けたの?
治療法が合わなかった?だから負けたの?

「ただ悔しい」と思った当初のわたしは、ご本人もそして医療関係者も、この病と闘った結果敗れてしまったという意識があまりに強かったのかもしれない。

もっとこの疾患の認知が進んで、早く見つけられていたら。なぜこの疾患にかかるのか原因がわかっていたら。もっと治療法が明確になって医者の誰もが知っている状態になっていたら。即効性のある薬が存在していたら。どこの病院でも同じ医療が受けられ誰にでも奏功していたら。

もはや夢物語みたいな「たられば」の世界、要するに過去を悔やんでいる自分がそこにいた。

悔しい。死に物狂いで闘って闘って、それでも勝てない現実があることがひたすら悔しかった。

生きているのが奇跡

その日も次の日も、父のもとに面会に行く。同じ病を抱えた仲間が亡くなってしまったことを父に話したくないと思った。何かあったのか?と悟られてしまったら話さざるを得なくなる。努めて明るく振る舞った。

週1回のアクテムラ投与を2週に一度の間隔にあけ、血液数値や体調を細かにチェックしていた時期だった。発熱などの炎症反応が出ていないか、父本人も気にしているようだ。

少し前には入院以来初めてシャワー入浴をし、車椅子に腰掛けて窓の景色を眺めながら昼食を取り、歩行器を使って150m歩けたんだと意気揚々と話す父が目の前にいる。全部目の前で起きている現実なのだけど、私にはそれが夢みたいに思えた。

『なんか信じられないよ。ほんの1ヶ月前まで寝たきりだったんだよ?』

『確かにそうだなぁ…』

『長かった?』

『ん〜12月半ばくらいは一番キツかったよね…』

この後父は、救命病棟で襲われていたえげつない幻覚の話をしてくれるのだけど、そんな状態の頃は今のこの父の姿は全然想像できなかったのだから。

奇跡、としか言いようがないじゃん。

そうか。
誰にでもいつかやってくる人生の終わり。そしたら、生きていることは当たり前じゃない奇跡だ。

死にゆく病と闘っているんじゃない。ましてやその闘いに敗れたんじゃない。奇跡のような生を精一杯生きて、生そのものが闘いで、それを全うして人生を終えるんだ。

死がイレギュラーで、それに争うんじゃなく。
生がイレギュラーで、それを慈しみながら全うする。
本来、人間はそういう風にできている。

よくわからないけど、今の父を見ていたらそんな気がしてきた。

病を患ったから「生きているのが奇跡」なんじゃないわ。どんな人でも生きていることそのものが奇跡に近い、当たり前なんかじゃない。失われることがデフォルトの中で精一杯自分に与えられた人生を全うする、その中のひとつに病がある。そういうことなのかもしれない。

父が自分の人生の終わりを受け入れているのはきっと病に罹ったからではなくて、終わることそのものを当たり前と捉えている、ということなんだろう。

やっと答えが出せた気がした。なんだかスーッと腹落ちできた。

この日、回診に来てくれた先生そして看護師さんから介護保険についての話をされた。

父が自分の人生の中で出会った病と、それを抱えながら生きていくために必要なサービス。介護保険も「生」のために存在している。

お医者さんも看護師さんもPTさんも、これから出会う介護関係のスタッフさんも、父という一人の人間が人生を精一杯生きるために協力し助けてくれている人たちであり、医療や介護のサービスは、ひとりの人間が生を全うするために必要なものなのだ。

そして多分、家族であり娘である私も、役割や貢献度は違えど父の人生の中で出会う「必要なもの」の中の一部。これは私にとっての父も同じ。

それぞれが自分の生を精一杯生きるために必要なものを受け取りながら、死というデフォルト、人生の終わりに向けて歩いていく。

その、生の道のりこそが奇跡なんだな。


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