父が、自分の足で歩いた日【大学病院血液内科23日目】
お正月に救命病棟から生還し、病棟を移ってからもうすぐ1ヶ月経とうとしている。これは11月に救急搬送されてからずっと感じていることなんだけど、とにかく「長い」。地元の病院で基礎疾患がわからず彷徨っていた頃がすごく遠い昔のように感じるし、父がアクティブに動いていた数ヶ月前ってどんなんだったっけ?と忘れてしまいそうになる。
ベッドに寝たきりの状態が日常。そんな風に変わってしまったことが悲しくなったりもするけどそれは一瞬。今、生きておしゃべりができること、携帯でやりとりできること、おかゆや水分を摂れていることなどが全部「あぁ、日常って当たり前じゃない」と感じさせてくれる。
管が…なくなった!
この日、面会に行くと父の酸素チューブが外れていた。チューブを留めているところが緩んで枕元にそっと落ちてしまっていることはよくあったけど、この日は壁についている酸素の根元から管が出ていない。酸素投与をしなくても大丈夫になったということなのだ。
少し前に輸液の管が外れ、経管栄養の管が外れ、そして酸素の管が外れた。これで父の体は鼠径部のライン1本と尿カテ、医療用マッサージャーだけになったので、見た目は本当に身軽になった。
尿カテはときどき、ううん、かなり父を痛めつけている。男性のカテーテルは挿入時も挿入後も痛みを伴うことが多いらしい。導尿・排尿時の痛みに呻き声を上げることもあったし、早く取れるといいのに…と思っていた。
でもこれがまた難儀。
取ったら取ったで今度はトイレ問題が勃発する。もちろん自力で(車椅子でも)トイレには行けないし、尿を取るビンに排尿するのもタイミングが難しい。慣れない作業に羞恥心なども加わって「出ると思ったのに出ない」こともあるみたい。
それに、こんな風にまだ1日の尿量などを正確に管理させて欲しいとのスタッフからのお願いもあって、尿カテだけは残したままになった。
『リハビリのために車椅子に乗り移動する時に尿のバッグが丸見えなのは失礼にならないか』父はそう考えたらしい。バックをビニール袋で覆い、外から見えないようにして車椅子に引っ掛けていた。父のこういうところ、繊細で細やかな部分は本当に好きなのだが、なぜ私は似なかったのだろう…
血小板が5000に逆戻り?!
『今朝採血したら、血小板が5000だって言われてさ』と父。その一言で一瞬にして「またあの悪夢が?」と脳内を駆け巡ったよね。
ところが…
そんなこともあるんだね。
嫌いな注射を何度も刺され、おまけにこの日のアクテムラ8回目の点滴は、鼠径部のライン交換のために手首に刺されたらしい(イテテ…)
踏んだり蹴ったりの1日になってしまったようだ。
痛い思いをしながら治療を続け、検査のために血を採り続け、父は自力で3万まで血小板を上げられるようになった。何もしなければ5000、輸血をしても1〜2万、みたいな状態から本当によくここまで頑張ってきた。
正常範囲にはまだまだ遠いけれど、父の体は回復に向けて精一杯頑張っている。
あとは、ADLの向上か…
歩行器で歩くリハビリ
尿のバッグを袋で隠しながら、車椅子に乗ってリハビリ室に行く。1日1回のルーティンが続いている。素人には「急速に進められている」ように感じる工程も、いよいよ『歩く』段階に突入した。
(座ったばかり、立ち上がってみたばかり、今度は歩く??)
内心の声はさておき、父は感動の嵐のよう。
雲の上を歩いているような感じ。
それってどんな感覚なんだろう。
自分の経験から一生懸命記憶を手繰り寄せても、父が体感したことと同じ気持ちは味わえないと思う。それがどんな努力を強いて実現したものなのか、実現した時の喜びや感動、これはきっと父や、同じ境遇を体験した方たちでないときっとわからないんだろうな。
でも、でもね。
もう歩けないのかもしれない…そういう可能性が頭をよぎったり、「寝たきりの父が日常」一瞬でもそんな風に感じていた家族にとって、実際にその場にいなくとも、父が歩いてみて嬉しかった、ということについては家族なりの感動があった。
今までもたくさん、父から感動をもらってきた。救急搬送が手遅れにならず脳出血の危険からすんでのところで守られたのも、人工呼吸をつけた瀕死の状態の翌日にはケロッと話してくれていたのも、私が持っていた歯ブラシを取り上げ自分で歯を磨いた日、重症を脱してくれた日、せん妄について思い出したことを語ってくれた日、初めての重湯、大好きだった緑茶を口にする、散髪、ベッドを起こす、座ってみる…ぜんぶ、全部私にとっては感動だし奇跡だった。大袈裟じゃなく、ほんとうに。
これから日常生活をもとに戻すまでには長い月日がかかるのだと思う。けど、その一歩を今日踏み出したんだね。そう思ったらなんか泣けてきてね。
いやぁ…マジで、嬉しかったんだよ。
◇
お腹を気にして食べることや飲むことを躊躇している父も、治療や回復のためにもリハビリのためにも頑張って食べるようにしてくれている。「おかゆなんて食えるか」きっと以前の父ならそう言っている。細かいことを含めたら数え切れないほど辛い現実に直面しつつ、父は弱音や愚痴を吐かずに粛々とそれを受け入れ、前に進もうとしている。
見守る家族は、何ができるのだろう?
ずっとそればかり考えていた。
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