管が外れて身軽になったら、病室を出られちゃった!【大学病院血液内科21日目】
救急搬送されてから、透析、輸血、投薬、輸液、モニター、尿カテ、酸素…いっろんな管に繋がれ続けた父。急性期初期には人工呼吸器のホースみたいな太い管が繋がれたこともあったし、体からたくさんの管が出ている状態ってホント「ザ・重症患者」って感じ。
もちろん全部の管が父の命をつないでくれている。なんだけど、最初はそういう父の姿を見ているのがめちゃくちゃ辛くてね。「なんでこんなことになったんだろう」と運命を呪うような気持ちになった。
救命病棟を出る時に、透析の中心静脈カテーテルが外れ、輸血の管が外れ。その時太ももの付け根(鼠径部)に新しいラインを取ってもらい、輸液やアクテムラなどの薬はそのラインから投与されていたので、挿入部は病衣に隠れて見えなくなっていた。それだけでも腕が身軽になったのだろう。父は、歯磨きにせよ顔にニベアを塗るにせよ日常動作がだいぶやりやすくなったと言っていた。
腹水によるお腹の苦しさと下痢が続いているから、ご飯が思うように食べられない。1日1,000calほどに設定された食事を半分くらいしか食べられないときもある。栄養状態はまだ良いとは言い切れなくて輸液と鼻からの経管栄養は続いていた。さらに、酸素と尿カテ。
重症は脱したけれど、いまだに父は「ザ・患者」の見た目をしている。
栄養は口から摂り腸で吸収
お正月に重湯から始めた父の食事は五分粥になっていた。もともとおかゆが得意ではない父は、スター先生から言われた通り「薬だと思って」食べている感じ。それでも調子が良ければお茶碗半分に盛られたお粥を全部食べ切ることができている。
また、プレドニンの影響で食欲がわいているからなのだろうか、病院食で出てくる食事以外のものを『あれも食べたい、これも食べたい』と言うようになった。実際はお腹の調子を気にして食べないのだろうが、食べたいという欲が出てきたように感じた。
そうした父の経過を見て、先生が『輸液を外してみましょうか』と提案してくれた。プレドニンを点滴ではなく経口投与に戻し、薬も栄養もできるだけ口から摂ってお腹を動かし腸で吸収するようにしましょうということに。
お腹の調子が気になる父は「う〜ん」としぶしぶ了承したようだった。実際、食事はどうしてもお腹が張って苦しい思いをしながらだし、水分にしてもそう。それに、輸液を外すとなればその分水分を多く取らなければ尿が出にくくなる。尿が出ないと体に水が溜まっていく。
点滴や管から解放される、とただ喜んでいるばかりではいられないということなんだなぁ…ハタからではなかなかわからない部分かもしれない。
それでも、ふりかけでごまかしながらお粥を頑張って食べている。1日2,000mlを目安にと言われた水分も、水呑みで測りながら、自分で量を記録しながら飲んでいる。父は前向きに取り組んでいた。
あったかい緑茶が好きな父は、中でも特に自販機で買ってくるペットボトルのホット緑茶を喜んで飲んでくれていた。一時は味覚が変わってしまい、緑茶が苦くて飲めない…とこぼしていたときもあったのだけど、感覚が徐々に戻ってきたということになる。
順調に、前に進んでいる。
パンパンからシワシワへ。浮腫んだ足の変化
入院してからずっと、血栓予防と浮腫の悪化予防のために膝から下に圧をかけて過ごしている。弾性ストッキング(医療用着圧ソックス)が入らないほどパンパンに浮腫んでいた足には、地元の病院では包帯が巻かれ、大学病院に来てからは医療用のマッサージポンプがつけられ、機械で規則正しく圧がかけられていた。
この日は、機械がエラー音を発していた。ナースコールで看護師さんを呼ぶと『ん〜パットがダメなのかなぁ』と言って新しいパットに交換することに。血圧を測る時に腕に巻くようなパットを交換のために取り外す。するとそこに現れたのは骨張って痩せ細った父のシワシワのふくらはぎだった。
ずっとパットに隠れて見えなかったけど、びっくりするほど浮腫が引いていた。知らないうちにこんなに良くなってきてるんだ…そう思って父に声をかけると、父の本人も気づいていなかった様子。寝たきりでは自分の足は見えない。気づかないのもある意味当然なのかも。
ここまでちょうど2ヶ月。最初はパンパンに膨れ上がった浮腫で全部の指が紫に変色するほど血行が阻害されていた父の足。この医療用ポンプのマッサージも少なからずその変化に影響を与えてくれたのだと思う。新しいものに交換され看護師さんに持っていかれたお役御免のパットにも、「今までありがとう、アンタのおかげだよ」となんだか感謝の気持ちがわいてしまった。
初めての「病室の外」の世界
リハビリって、こんなに早く進められるものなんだろうか?数日前にクラクラしながらベッドから足を下ろし、前日に地に足をつけたばかりの父はこの日、車椅子に座ってリハビリ室に連れて行ってもらったらしい。
リハビリ室は病院の最上階にあるようだ。のっぽ先生が押してくれる車椅子に乗って病室を出てエレベーターに乗り、同じようにリハビリに励む他の患者さんの様子を見学してきたんだと父は話してくれた。
『空が見えるっていいよな』
父はそう言った。
父が最後に空を見たのはいつだろう…たぶんヘリコプターで転院してきた日だ。空を見たというより空の上を移動してきた、という方が正しいな。これまで窓のない病室も多かったし、たとえ窓があっても寝たきりの父は窓の外を見ることがほとんどできなかった。座って、移動して、久しぶりに窓の外を見て、最初に目に入ってきたのが空だったそう。解放的な気分になったのと同時に父はそれを『感動した』と表現していた。
私はその姿を見ていない。面会時には相変わらずちょっとベッドに角度をつけたところに横たわる父と話している。それでも、父が見た「病室の外の世界」やその時父が感じたことは具体的に、その情景と同じものを見ているかのように伝わってきた。
これまで、ベッドに寝たきりでいる父の姿の方がよっぽど非現実的だったはずなのに、車椅子に乗って病室の外で空を見上げる父を想像するとなんだか夢みたいな心地がする。たった2ヶ月の間に、すでに病に伏せっている父の方が私の中で「日常」になってしまったのだろうか?
いや、それほど「2度と起き上がれないんじゃないか」という恐怖や不安が強かった、ということなんだと思う。こんな風に座って、ベッドを降りて、病室の外に出られるなんて、救命にいた頃は想像もつかなかった。そういう意味で夢を見ているような感覚になったのかもしれない。
「感動」と「信じられない・夢みたい」
結局父と娘どちらも同じような感覚だったってことなのかな…
◇
リハビリ室では、他の患者さんがそれぞれの訓練を頑張っている様子を見ることができたようで、のっぽ先生と『みんな頑張ってますね、来週からここで一緒に頑張っていきましょう』と約束したんだと父。自分以外の頑張っている姿に力をもらったみたい。
進んでも進んでもまた、新たな闘いがはじまっていくのね。
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