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『あなたを立たせることが私の仕事です』PT”のっぽ先生”【大学病院血液内科11日目】

父と夕飯のメニューを考え、材料を買って作り、写真にして送るという毎日。写真を送ると父はいつも「美味しくできた?」「ゆっくり食べなよ」などコメントを送ってくれるが、中でも「美味しそうだね、食べたいなぁ」という感想が一番エグられる。

特に父の好きな魚や豆腐料理、マカロニサラダなどは反応が早くて『いいなぁ…』と、おそらく本音を洩らす。それでも料理の写真を見るのが楽しみだというのだからシニア心はまったく読めない。

あ、もしかしたら。
お腹の空いた深夜にあえて大食い動画を観てしまう、あの気持ちと同じ感じなのだろうかね。

魚料理が好きと言っても生魚は食べない父。大昔、たぶん子供の頃に生魚を食べてお腹を壊したりじんましんを出したことがあるようだ。

入院する時に看護師さんからアレルギーを聞かれ、父はそう答えていた。もちろんずっと絶食だったから食べ物のアレルギーは全く関係なかったけど、ここにきてその申告が思わぬ形で波紋を呼んでいた。

ご飯は重湯だけど、柔らかく調理したおかずも一緒に出てくる。食事には必ずメニューとカロリーが書かれた紙がついてくるのだが、そこには「グレープフルーツ禁」(薬との食べ合わせが悪い)と合わせて「魚アレルギー」と大きく書かれ、父の食事には魚のメニューが一切出てこなくなっていた。

『煮たり焼いたりした魚は大丈夫なんです』と何度も言い続け『じゃあメニューを変えられるように栄養部に言ってみます』と返ってくるけどメニューは変わらない、という日が続く。父はもう半分諦めていたようだった。

面会時、昼食の時の紙が机に残っていた。ちょうどバッグから尿を廃棄するために来てくれた看護師さんに私が初めて申告をしてみた。『本人も何度か申し出たようなんですが…』その紙を見せながら。

そしてこの日の夜、父はめでたく煮魚をゲットしたのだ。

父と娘の(魚メニュー争奪)5日間戦争、ここに勝利!

『下ろせたのが嬉しくてな…感動しちゃった』

ベッド上のリハビリは救命病棟の時から続いている。自分で動かせない足を持ち上げたり、足首を回したり、といった動作をPT(理学療法士の先生)さんが毎日やってくれていた。寝たきりの父にとってそれは、動けるようになるためのリハビリというより主に血栓予防のためだったのだと思う。

救命を出る時に出されたリハビリ計画書の現状の欄は、基本動作から日常生活まですべて全介助。現状の自立度を表す点数「0点」の文字に、父がガックリ肩を落としていたのを覚えている。

「0点」から3週間。ベッド上のリハビリはついに最終局面を迎えていた。この日父はベッドを起こした状態で片足をベッドから下ろしてみる、という動作にチャレンジし、無事に切り抜けた。

「無事に」という表現にちょっと違和感があるかもしれない。片足を下ろすって、ベッドを起こしてもたれかかり膝から下をベッドの外に出すだけなのだから。実はこれだけで、貧血や低血圧を起こしてしまうこともあるというのだから驚く。

PTの先生は『慎重に、ゆっくり行きましょう』と父を誘導してくれたそう。下ろした後も『大丈夫ですか?気分悪くないですか?』と聞かれ、じっくり自分の体と対話しながら『大丈夫です』と答えた父。

「案外大丈夫だ、やった」と、嬉しさがこみ上げ感動しちゃったと父は言う。

まったく想像がつかない世界だ。ベッドから足を投げ出すこと、投げ出した足が下にぶら下がること。たったそれだけのことを慎重に進め、達成後に感動すら覚えるなんて。

そもそも「50日間寝たきり」という状態がどんなことを意味するのか、全然わからなかった。そのひとつが「ベッドから足を投げ出すだけで貧血を起こす可能性がある」状態だということを、この日初めて知ったのだ。

父はとても嬉しそうに、この日のリハビリの出来事を話してくれた。表情はすごく良い。いい顔をしている。

『あなたを立たせることが私の仕事です』

リハビリは、救命の時から同じ先生が担当してくださっている。父は自慢げに『リハビリの部長さんらしいんだ』と話してくれた。たくさんの療法士さんがおられる中で部長さんに担当してもらえるなんて、父は本当に先生に恵まれる人だなと思う。

リハビリ部の部長さんは背が高くスラっとしていて黒髪がサラツヤ。なのにもうすぐ定年だというのだから見た目とのギャップが大きすぎてびっくりする。私は心の中で部長さんを「のっぽ先生」と呼ぶことにした。

のっぽ先生は、すごく励まし上手だ。『ここまでできるなんて思っていませんでしたよ』とか『だいぶできるようになりましたね、明日もこの調子でいきましょう』などの声かけで父を勇気づけてくれる。

中でもこの日、のっぽ先生が父にかけてくれた言葉は忘れられない。あなたを立たせることが私の仕事。父がいい顔をしていたのは多分、この言葉に力をもらったからなのだと思っている。

もう父は自分の足で立てないのかもしれない…以前、POEMS症候群”寄り”かもしれないとスター先生から言われたことがあった。その時私は、足に神経障害が残り歩けなくなる父の姿を想像した。ただその時は生きるか死ぬかの境からちょっと戻ってきたばかりで「たとえ足が動かなくても生きていてくれるなら」と思った。

でも急性期を脱した今、座れるようになる、立てるようになる、歩けるようになる父の姿を私は確実に想像している。それがどんなに長い道のりかまったくわからないけど。

躓きそうになったら、私はこの日を思い出したい。初めてベッドから片足を下ろした時、どんなに感動したのか。のっぽ先生にどんな言葉をかけてもらったのか。それがどれほどの力をくれたのか。「できるようになった喜び」はどのくらい嬉しかったのか。

ちょっと大袈裟に語ってしまった感は漂うが、こんなことを言いつつこの時の私は「タカ」を括っていたと思う。父は運動が大好きだ。運動習慣も身についているし、なんなら「動いていないと落ち着かない人」なのだ。動きたいのに動けない、思うようにならないことはあっても、ひとつひとつできることを増やし前向きに取り組めるはず、そう思っていた。

でも、運動とリハビリは全く違う。

そのことに気づくまでにはまだ、時間が必要だった。

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