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VUCA時代の新キャリア論Part1 「感情のラベリング」

少し空きましたが、、本日は
昨年講演した「キャリア論」の内容を勝手に3シリーズに分けてお伝えできればなと。
ちょっと長くなりますので、気になるところだけでも目次で飛んでみてください


テーマは“VUCA時代を生き残る新しいキャリア開拓の考え方・方法”
前提として、昨日までの前提条件や常識が変わってしまう予測困難な時代において
キャリアに対してこうあるべきとカチッと最初から決めて(もちろんそれも大事なので否定しているのではなく)、社会から求められているからだけで考えなくてもいいのでは。

もっと柔軟に、場面に応じて感情を1つの選択肢・判断軸で考えて、
経験してみて、感じて、自分も変化させていく、徐々に微調整もかけていくような
展開型キャリア
近道しなくたっていい、すべてが戦略に基づいた逆算的思考・行動でなくてもいい。そんなお話のはじまり

ステップ1「感情をカテゴライズ・言語化する」

私の最初の記事から今までの記事読んでもらった人は特に分かると思うのですが、
自分自身大事にしているかつキーワード「感情」
なぜか、人にしかない知性だから。
そして感情を知ることができる、内なる声に耳を傾け言語化できることは
物事をとらえることも、能力を伸ばすこともすべての出発点だと思うから。

ただ意外と感情に向き合っているようで、実は言語化できない。
なぜその感情が起こり、自分はどんな時にその感情が生まれるのかまで考え深掘ることは中々しない。

ニュアンスはわかるけれど、イメージが沸かない…

じゃあ実際どうやるの?

私の最近の感情に置き換えて少し順を追って考えてみようかなと。
まず最近/直近の感情「悲しみ・哀しみ・悔しさ・切なさ・やるせない」
一言でいうなれば、悲哀かな。

感情に至る事象が2つ。
1.近隣に「子供の泣き声が響き渡る」と区の子供家庭支援センターに通報され、調査のためと言って区の職員が来たこと
2.大学時代のゼミの先生、社会人になってから母校の講演でもお世話になった恩師がこの世を去ったこと

事象その1「子育て不正解という名の通報」

悲しみに至るまで、まず起こったのは苛立ちと悔しさ。
「子どもが泣く」というみんなが通る道・事象すらも受け入れられないのか。じゃあ静かな子供がすべて価値なのか。という苛立ち
3歳や4歳の子にしたら、まだまだ言語が追い付かないからこそ「泣く」という行為

確かにイヤイヤ期(どんな感情か分からないけどとりあえず嫌)は終わったのかもしれない、でも今度は本人の選択的意思決定による「嫌だ」という
明確で強い情動。
イヤイヤ期よりも声量だって大きい、とにかく意思がだんだん成長とともに強いからこそ
ちょっとやそっとの声掛けで意思は揺らがない。
もちろん私自身も1人の人として叱るときは本気で、なぜ叱っているのか理由とセットでと決めている。

叱れない、叱らない、が正義なのか。
親である前に1人の人間。親も価値観や育ってきた環境が違う、子供だってみんな同じじゃない。子育てに「正解だって、解なんてない。」
それでも常に問いを探し続けて、仮説もって検証してみて…そんな繰り返し。毎日手探り。
子供だけでなくて親も成長する。子供が3歳なら親も3年目だからまだまだ新入社員。
でも急に答え間違っているよ・その道は失敗ですよと突きつけられて許されない感覚

多分悪気はない「決めつけ感」。虐待なのでは…と疑われている気がした。「調査」という言葉に何より胸が痛かった。
みんな同じように育てることが“平等”主義のなかで絶対
子供が「泣く」ことすら「泣かせた」ということで親が悪なのか。
たった一場面しか切り取られずに決めつけられているような、悔しさ
シングルマザーだから余計、世間の見られ方はどこか違うのか。とも思ってしまう…

もちろん別の視点でも捉えられる、
周りの人が心配してくれている環境があること、すぐに飛んできてくれる支援センターのフォロー体制。
世の中からきっと虐待を救うため、そんな事件を減らすために動いている。分かる。
それでもプラス面を凌駕してくるような、どこか子育てを否定されたような
「泣く」という行為を子供がした瞬間の周りの目の怖さ。
子育てにどこかおびえないといけない、肩身狭いなと、、悲しみに至る


事象その2「人の死」

私ではどうにもできない、何も変えられないけれど、
言葉が出てこなかった。涙になったのもあと。
スタートはただ、ただ、なんで。という疑問に近い

いつか仕事で恩返しすると決めていた、私が起業することを話に行ったときも1番味方で力強く背中押してくれた。
お酒を交わして、講演のあと教員専用の学食でお昼ご飯をご馳走してくれた、、
帰り土砂降りの中見送ってくれた。

どこか学びをアップデートしてそこから自分の仮設を導き出していないと、深い話はしてくれない、話すときには少し気が引き締まる、、緊張感のある厳しさもあった
いつもメールでも、LINEでも冒頭「千葉さんへ」で文章をスタートしてくれるほっこりさ。
なぜか文章の句読点が「,」になるおちゃめさ。
それでも会社設立報告した時には「スタートラインに立ったとのこと、ご連絡ありがとう。応援しています、がんばれ」と。

それが最後のメッセージになるなんて。

原因は分かっていないけれど体調悪い感じなんて一ミリもなかった。。
いつも鋭い意見をくれて温かさと強さを与えてくれた。
口数が多くなくとも深い言葉で勇気をくれた。Giverだった。。
先生がいなかったら、起業に踏み切らなかったかもしれない

私何かできたかな、先生に感謝伝えきれたかな、まだまだこれからを見て報告したいこともあったのに、、
最後笑顔で手振ったっけ?写真撮っておけばよかったな、、
いつか大学でコラボ実現しましょう、って話していたことも。
いくら悔やんでも叶わない。
やるせない感情
ここで急に大粒の涙が溢れて…止まらない。まだ信じられない信じたくない
あー久々に無になるな。という哀しみ←こちらの字が近い

死を無駄にしない、というのは死に意味を見つけることなのではないかと思う
すべての物事と感情には意味がある、意義を見出すことがあなたのやるべきこと。捉え方でどうにでもなるのだから自分信じてやってみなさい」と
先生からも聴こえてくるようで。

大事な人に一番大事なことを今面と向かって伝えられる奇跡。
明日は当たり前ではない、保障されない。
当たり前なんて実はこの世の中に1つもない。
改めて今に妥協せず言語化できることを探さないと。
言葉を紡げる人(伝える相手)がいること…なんて素敵なことなのか
じゃあ今まだまだ世の中にできることがある。何だろう。今なぜ生きているのか

実は自分自身も死にそうになった交通事故を経験をしたことがある。今では私の中でキャリアや考え方を変えた転機でもある
人生何が起こるか分からない。分かっていることはいつか「死」がくること


創造には「つくる」「はじめる」という意味と「傷」という意味もある。
つまりは何かを始めるときに、ひっそりと傷は存在する。
どれだけ深く傷をおっても、すべては「はじめる」ために必要なもの。

先生、また報告しますね。体現しますね、どんなことを捉えて、そこから何を生み出したか。
そう誓った。

さて、ここまでの

まとめ

同じ”かなしい”という感情だとしても、至った経緯や事象、
最後自分がどうやって捉え心を落ち着かせたか
「感情を昇華した」か、も全然違う。

自分の感情を言語化しラベリングするためには「客観的に自分を見ざるを得ない」
感情には必ず原因・理由、そこに至る背景、想いがある
感情を深堀することで、感情に支配されなくなる
だけでなく、人の感情にも敏感になれる
そして様々な感情を知ることで自分の思考の癖やパターンに気づく
価値観や判断軸が増え、その時々に応じて捉え方が増える。
そうすると自分らしい言葉の数も増えていく
そして内なる言葉と向き合い言語化してみると実は
外に向ける「伝える」言葉の深さも増すと思う。
可能性が広がることだらけ。

ふとした言葉や感情の意味(例えば悲しいと哀しいの違い)を調べてみることもおすすめ。
そして自身の感情を言語化して書き出してみること。

そこから新しい気づきがある、新しい自分に出逢える。
脳の中にある本棚にしまうように「感情のラベリングしたもの」を保存しておく


最後にワーク

自身のマイナス感情(悲しい・辛い)とプラス感情(嬉しい・楽しい)になった出来事を2つずつ上げるとしたら?
その出来事に対して、なぜその感情を抱いたか理由を説明するなら?




今井先生もこの問いを紙に書いて解いてくれていたな…
どうしても綴っておきたかった感情と思考が天国にも届きますように。


今日という時間に感謝を。
今これを読んでくれた人も、関わってくれている人すべてに幸せを。


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