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5)女としての幸せはいらないの「いらない」どう訳す?【金カムロシア語】

今回は179話と191話のソフィアについて。
直接は描かれることの無かった彼女の意思を掘り下げるよ。

【読了まで 5分】

ゴールデンカムイのロシア語台詞を楽しむシリーズだよ。
単行本読了済みであることを前提に執筆しています。
作者と監修がつけた日本語とロシア語の台詞の差異から物語を掘り下げていきます。
ロシア語には縁が無いよって方にも楽しんでいただけるよう書いています。


ロシア語解説:さようなら

まずは179話目の別れの挨拶から。

ソフィア『Ну, прощай, сынок.
(元気でね 坊や)』179話
[ヌゥ・プラシシャーイ・スィノーク]

【再訳】
さようなら 坊や」

「прощай [プラシシャーイ]」は直訳すると「ゆるして」。永遠…あるいは再会の見込みの立たない「さようなら」。訣別けつべつ

もう会えそうもないから、思い残すことの無いよう、今までのあれこれ赦し赦されて別れる、そういう挨拶。健康や元気の意味ではない。

この台詞の直前にウイルクが『また会おう』と日本語で言い、ソフィアは無言で微笑み、次に去りがたそうなキロランケに上記の台詞を言う。
日本語台詞だけ読んでる限り「また会う日まで元気でいてね」のように受け取れる。しかも後にキロランケが『ソフィアは!!いまもロシアで俺たちを待っているのにッ』(267話)と言っているから、なおさら再会見込みだったと刷り込まれてしまう。

🟦ロシア語台詞
⇒ ゴールデンカムイの世界で実際に発せられた言葉(客観的事実)
🟥日本語台詞
⇒ 上記を会話相手がどう受け止めたか(主観的事実)

実は、グーグル翻訳で「прощай [プラシシャーイ]」をタタール語に訳すと出てくる「Сау бул [サウ・ブール]」の直訳が「健康であれ(сау = 健康/здоровье , бул = で在れ/будь)」だった。
そしてこの「Сау бул」からロシア語に訳し直すと、「прощай [プラシシャーイ]」ではなく「До свидания [ダ・スヴィダーニャ](また次にお会いできる機会までさようなら)」になってしまう。

三人にとってロシア語はあくまで第二言語。彼らの母語/第一言語はそれぞれソフィアがフランス語、キロランケが多分タタール語、ウイルクがポーランド語か樺太アイヌ語。
なのでキロランケはあまりロシア語の「さようなら」のニュアンスを掴めておらず、本当に『元気でね』と言われたと認識していた…そういう設定なのかもしれない。このシリーズの初回でやった日本語とロシア語の別れの挨拶の齟齬そごと同じ構図である。

一方、フランス語は日常の別れの挨拶と、訣別の「adieu [アデュー]」を使い分けるので、ロシア語との齟齬は生じないと思われる。

(※筆者が言及できる外国語は英語とロシア語のみなため、他の言語にはこれ以上踏み込めない。タタール語の方はグーグル翻訳だけでなく、ロシア語で書かれたタタール語解説をいくつか読んでまわり「Сау бул」の直訳が健康に言及する挨拶であることは確認した。それが現地でどのようなニュアンスで使われているかまでは確信が持てなかった。フランス語の方は一般教養として知る限り)

『また会おう』と言われて彼女が返した微笑みは愛想だった。
ソフィアはきっぱり別れを告げたのであって、二人の帰還を一日千秋の思いで待っていたのではない

続いて191話目の別れの挨拶。亡くなった友人への葬送の言葉。こちらこそ永遠の別れ。

ソフィア『Ну бывай, дружок…
(さようなら 坊や…)』191話
[ヌゥ・ブヴァイ・ドゥルジョーク]

【再訳】
元気でね 友よ」

うん…もちろん可笑しな訳だと分かってるけど、ここはあえて「元気でね」にしてみた。
つまり別れの挨拶としては、179話と191話がちょうど逆転してる。言われる側にとってはね。
場に相応しく意訳するなら「このまま安らかに」。

「бывай [ブヴァイ]」を直訳すると「アナタがアナタで在り続けますように」。「このまま順調でありますように」。だから意訳すれば「元気でね」。日本語には相当する挨拶がなく訳しにくい。
本来は親しい間柄の日常の軽い別れの挨拶。

ロシア語解説:「いらない」の具体的な中身

さて、では179話から今回の表題。
『女としての幸せはいらない』の「いらない」って具体的にどういう意味だろう?
日本語では曖昧なままふんわり理解した気になれても、他言語に訳すとなると難しい。

「欲しくない」から「いらない」のか
「必要ない」から「いらない」のか
「諦める」から「いらない」のか

それによってそれぞれ言い回しは違ってくる。では実際の台詞と再訳。

ソフィア『Про счастье женское мне надо забыть.
(私は女としての幸せはいらない)』179話
[プラ・シェースチエ・ジェーンスカェ・ムニェ・ナーダ・ザブイチ]

【再訳】
「私は女としての幸せを忘れ去らねば

採用されていたのは「忘れ去る(забыть [ザブイチ])」だった。
…となると「女としての幸せ」の時制は変わってくる。「欲しくない」「必要ない」「諦める」なら将来得られる幸せ。今は持ってない。
でも「忘れ去る」ならば、今現在その幸せは「既に手元にある」ということ。つまり彼女は「このまま北海道に渡れば得られるだろう将来ウイルクと築く家庭」を断念したのではない。

フィーナ『В Японии-то даже нищие хорошо по-японски болтают. Ум тут ни при чём. Нет у неё интереса к японскому языку.
(日本人は物乞いだって日本語を上手に話すでしょう? 頭の良さじゃないわ 彼女は日本語に興味がないのよ)』177話

彼女は大好きな人と一緒にいられる「現状が幸せ」だったから引きずられるまま日本語を学んでいた。日本に興味があったわけじゃないから、他の二人に比べなかなか身につかなかった。

『フィーナとオリガ』を巻き添えにしてしまったことで、彼女は浮かれた気持ちを忘れ去り「прощай [プラシシャーイ]」する決意をした。

彼女が重く受け止めていたのは、それが自分の放った銃弾だったかどうかよりも、守るべき同胞民間人を巻き添えにしたことで革命家としての大義名分を失ったこと。そこに至る原因は好きな人といられる幸せにかまけて本分を忘れ、無駄な時間を過ごしたこと。

日本語台詞によって彼女の決断を「恋愛感情に基づくもの」「子供を死に至らしめたがために、自身が子を持つ将来を断念した」と読ませるのはキロランケのバイアスである。そのようなバイアスが掛かっているのは、キロランケ自身の「叶わぬ恋」を彼女に重ね合わせていたからだ。
このくだりのソフィアの台詞全体の再訳は以下の通り。

ソフィア『
Я с тобой пойти не смогу.
Люблю я тебя.
Этот ребенок, которого я убила, не выходит у меня из головы.
Про счастье женское мне надо забыть.
Буду в этих краях бороться за революцию.
Ну, прощай, сынок.
(私は行けない
あなたを愛しているから
殺した赤ん坊が頭から離れない
私は女としての幸せはいらない
革命家としてこの土地で戦う
元気でね 坊や)』179話

【再訳】
「アナタと共に歩むことはできない
愛してる
私が殺めたあの子…頭から離れないの
私は女としての幸せを忘れ去らねば
この極東地域に留まり革命のために戦う
さようなら 坊や」

二行目、「~から」とは言っていない。「愛してる」とだけ。
文脈としては「愛しているから」ではなく「愛しているけど」。「アナタとはたもとを分かつことにした。嫌いになったわけじゃないけど」ってこと。

だからソフィアは、後ほどウイルクが結婚して娘が生まれたと知らされても、もはや心乱されることはなかった。インカㇻマッにとってのアシㇼパが、初恋の人の忘れ形見であると同時に恋敵の娘であって複雑な想いだったのとは対照的に。
ソフィアはきちんと忘れ去ったのだ。



  1. ロシア語台詞は単行本を基本とします

  2. 明らかな誤植は直しています

  3. ロシア語講座ではありません

    • 文法/用法の解説は台詞の説明に必要な範囲に留め、簡素にしています

    • ポイントとなる言葉にはカナ読みを振りましたが、実際の発音を表しきれるものではありません。また冗長になるため全てには振りません

  4. 現実世界の資料でロシア側のものはロシア語で書かれたものにあたっています。そのため日本側の見解と齟齬そごがある可能性があります

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