【BOOK】『一億円のさようなら』白石一文:著 置かれた場所で足掻くのが人生
人生いろいろ。夫婦、子供、会社、仕事、いろんなことが交わりながら、一人の人生を形作っている。
自分自身で決断して積極的に選択できることは、そう多くはない。
むしろ周りに合わせて、流されて、何となく選んでしまっている道の何と多いことか。
それでも、ああよかった、と思えるためには何が必要なのだろうか。
お金か? 家族か? 生涯の伴侶か? それともやりがいのある仕事だろうか?
答えはひとつではない気もするし、それが正しいのかさえも今はわからない。
きっと、何が正しかったのかを知るのは、死ぬ間際なのだろう。
それまでに、どう生きるか。
そんなことを考えることができた、極上の傑作だ。
「お金」とは何か?
物語は20年連れ添った妻が巨額の資産を保有していながら、夫である自分にはずっと知らされていなかったことが発覚することから始まる。
その額、48億円。宝くじが当たってもこんな巨額にはならない。
これほどの金額が自由になるのであれば、人生におけるほとんどのことはお金で解決できるだろう。
だが、実際にその金額を手にしてしまうと、意外とどう使ってよいのか、慣れない者には皆目見当もつかないのだ。
主人公・加能鉄平は、いざ意気込んで街へ繰り出したものの、大してお金を使うことができないのだった。
おそらく、私も同じような境遇に陥れば、似たようなものだと思う。
大金を手にすれば、いい車を買おうとか、豪勢な食事をしようなどと考えるが、高価な車を購入すればメンテナンスや維持費にもお金がかかる。
若い頃はそういった仕組みについての知識がなかった。だが今ではそうした維持することや始末することにも想像を巡らすことができるようになり、だからこそ買うことに躊躇する。
食事に関しては高いものを食べようというよりは、美味しいものを手早く食べたいと考えるので、高級レストランよりも一風堂でラーメンを啜る方が性格的には合っていると思う。
高いモノを買えばその分管理にもお金がかかる。例えば不動産を所有したら固定資産税を払わないければならないように。
高いモノを食べると、健康への影響も気をつけなければならないし、そのためのコストもかかってしまう。もちろん安いものでも健康には気をつけるべきだが。
結局、お金というものは、使い方を分かっていないとすぐになくなってしまうのだが、誰もその使い方を教えてはくれない。
お金があれば、人生における不安リスクを感じることは少なくなるので、それだけでも幸福感を感じやすくなれるだろう。
実際に幸福かどうかは、本人がどう感じるかだから、結局のところ、幸福「感」が大切。
幸福感は自己肯定感やハラスメントと似たようなもので、本人がどう感じるかがほぼ全てだ。
うつ病に限らず、不眠や怪我、内臓疾患であっても、お金があれば何とかなる、と思えること自体が保険のような安心感を得られる装置として機能する。
ただ、命の境目だけはお金であっても超えることはできない。
お金は万能ではなく、越えられない壁は確実に存在するのだ。
そんな当たり前のことを当たり前だと思える内はまだいい。
それが思えなくなっていたとしたら、その時はもう人生の決定的な何かを失っている時なのだろう。
「もう一人の自分がいる」という感覚
自分自身を斜め上から俯瞰して眺めている感覚、とでもいうのか、「メタ視」と言って伝わるのかどうか、ともかくそういった感覚は自分だけではなかったのだなということが確認できたのは収穫であった。
今でこそそれほど感じないのだが、若い頃は常にもう一人の自分が自分を監視しているような感覚があった。
何をやっていても常に「そんなことしたら恥ずかしいだろ」「何やってんだよ」という無言の声が聞こえてきて、何をやるにも一瞬躊躇してしまうような、そんな経験があった。
思春期特有の自意識過剰、と言ってしまえばそうなのかも知れない。
歳をとるにつれ、だんだんとそういった感覚は薄まっていった。
いや、薄まったというよりは、仕事や他にやるべきことが増えすぎてしまい、もう一人の自分を気にするだけのリソースすら使い果たしてしまう日々が続いた結果、もう一人の自分を気にすること自体を忘れてしまっていたのかも知れない。
そうして、歳をとって、本作を読んだことでまた思い出してしまったのだった。
主人公・加能鉄平や高松宅磨、木内正胤といった「いざという時に感情スイッチをOFFにできる人間」が登場する。
ここでは、感情スイッチはONが常であり、いざという時にOFFにする、という風に見受けられるが、実態はおそらくもうちょっと複雑だろう。
ONでもOFFでもなく、ニュートラルな位置が常であり、いざという時にONにするかOFFにするかが違うのではないかと思う。
おそらくその時点では本人にはわからないことなのだろう。
生きてきた人生の結果として、OFFにする人間なのかどうか、生き様として証明しなければ表すことができないことなのだろうと思う。
人生における「仕事」の意味とは?
人生において仕事のプライオリティは、いかほどだろうか。
若い頃は何をおいても仕事であり、仕事で結果を残すことでアイデンティティを示すことができると確信していた。
だが、人生は長く、そう思い通りに行くことばかりではない。
失敗し、挫折することで、仕事というものの重みが変わっていくのは普通だろう。
主人公・鉄平は50歳をすぎて妻に不信感を抱く。大きくなった子供たちも言う事を聞かず好き勝手に生きている。
会社も事故や内部抗争で先行きが見えなくなっていく中、全てを捨てて一からほとんど知らない土地で新しいことを始める。
やりたい事をやるぞと意気込んで始めた仕事、それが順調に進んでいるのに虚しいのはなぜかと自問する。
仕事そのものが順調かどうかは関係がないのかも知れない。
仕事において、自分がどれだけ何をやったのか、その手応えを感じることができて初めて充足感が得られるのかも知れない。
就活を控えた大学生に、就活の支援をしたことがある。
若い学生の多くは、生きていくために仕方なく仕事をするんだと思っている。
仕事とはそういうレベルのものではない、と説いてきた。
だが、自分自身がどこまでそれを腹落ちしていたかというと、少々心許ない。
自分の中にも、生きていくための「ライスワーク」と、やりがいを求めた「ライフワーク」という区別はやはりあった。
だが「ライフワーク」は正直見つけていなかったし、今もってなおそれは無い。
だが、今は、たとえ「ライフワーク」が見つからなかったとしても、それはそれで構わないのでは無いかと思っている。
何が幸せかは、誰かが決めることでは無い、ということくらいは分かっているからだ。
「夫婦」とは? 「家族」とは?
日本語での「根なし草」という響きには少々ネガティブな意味合いが込められていると思う。
フランス語ではそれは、デラシネと言うらしい。
根なし草、故郷や祖国から離れた人という比喩表現として鉄平が板長に伝えた言葉である。
ここではネガティブさはマイルドになっているが、かといってポジティブな意味合いでは使われていない。
この根なし草。現実にはネガティブな存在とは言い切れない。
「サルオガセモドキ」と言う植物がある。
見た目はほぼ白っぽい、やや緑がかった枯れ草のようなモジャモジャとしたもので、花でもなく草とも言い難いビジュアルである。
「エアプランツ(空中植物)」とも呼ばれるようだ。
学術的にはパイナップル科ハナアナナス属の植物で、本当に「根」が存在しない。
空気中の水分を吸収し、風で千切れて飛ばされても、どこかに引っかかったところで付着して、生き続けるという。
また、ただフラフラしているだけではなく、ちゃんと春先に小さな花も咲かせ、午前中だけいい匂いを放つらしい。
人間に置き換えてみると、なんとも主体性のない生き方になるのかも知れないが、多くの人の人生は案外こんなものかも知れないのだ。
「置かれた場所で咲きなさい」のような。
パートナーのことがわからない。
自分のこどもたちですら、何を考えているのかわからない。
親のことも、分かっていたようで実は何も分かっていないことに気づく。
ただ、自分自身と向き合う日々のなかで、一つひとつ「自分の中に親を見つける」という感覚が、骨身に染み渡るようにわかる。
「親ガチャ」と言う言葉があるが、そんな事を言ったら人生全部ガチャである。
それでも、受け入れていくしかないのだ。
受け入れていく時間に足掻くことが、人生と呼ばれるものかも知れない。
人生に一つ答えがあるとしたら、それはずっとこの人と一緒にいたいと思える人が見つかるかどうか、だろうか。
異性でも同性でも、血のつながりがなくても、年が離れていても、生涯のパートナーと呼べる人がいるかどうか。
見つかったと信じて、その人に自分を信じてもらうために足掻くことが、大切なのかも知れない。
どんな状況にあっても、置かれた場所で信じたい人に信じてもらえるように、足掻いてみることが人生。
と思うことにしよう。