見出し画像

ゆーた/山内佑太 とは

1992年生まれ 30歳 AB型←
東京生まれ/大阪育ちのハーフ

日本→アメリカ→スウェーデン→中国 を経て、中国深センで現地企業向け日本市場マーケティング支援で独立。日本初上陸のガジェット情報をTwitterやYoutubeにて配信中。

このnoteは僕の人生録であり、「これを読めば、山内佑太の全てがわかる」ような内容になっています。15分あれば読める内容になってますので、DMで「お話お聞きしたいです」と言う前に、まずはこちらをご覧ください。*不定期で書き足していきます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


生まれてから、死を決意するまで

1992年、僕は東京江戸川区で生まれ育った。運動が苦手、ゲームが大好き、内気な性格。身体が弱く、クラスでもインキャラだった。

小学校3年生の時に、父親の仕事の都合で大阪府和泉市という泉南地区に引っ越した。*両親とも大阪生まれ大阪育ち

当時から東京と大阪の間には言葉の壁&文化の壁を感じていた僕は、大阪に引っ越すことをとても恐れていた。

「身体が弱くて、内気な僕なんかが大阪に行ったら、いじめられるに決まってるジャナイカ!!」

そして僕は案の定とてもいじめられた。

運動しないから身体は真っ白、生まれつき身体が異常に細く、付けられたあだ名は

画像9
画像8

「東京もやし」もしくは「キモ(も)やし」。

そんな中でも、僕のことを友達と思ってくれる奴がいた。
麻生川という同級生だ。かなりいじわるもされたが、なんだかんだ毎日のように一緒に遊んでくれて、野球やテニスなど「運動する」という習慣を付けてくれた。

麻生川と出会う前は、ゲーム大好きな同級生の友達ができて、放課後毎日のように任天等64のスマブラを4人対戦していたが、何故か僕のカービィが強すぎて、僕vs3人でも勝ってしまう僕は、いつしか仲間外れにされてしまった。

転校してからというもの、一部友達はできても、同級生からのいじめにずっと苦しみ、段々鬱っぽい症状を患っていた。

それが一番悪化したのは、中学一年生の時。
大阪に来てからずっと続けていた野球部に入ってから、部活で毎日のようにひどいイジメを受けるようになった。小学校からのイジメグループの奴らが同じ野球部だったのかが命取りだった。毎日のように先輩のいないところで「死ね」「はよ辞めろ」などと罵声を浴びせかけられ、僕は完全に孤立して、誰もキャッチボールの相手をしてくれず、一人グラウンドにたたずんだ。今思い返しても、胸が苦しくなる。

大好きだった野球を彼らのエゴで辞めることに納得がいかず、母親に相談しても「ユニフォーム代 払ったばかりやん。ちゃんと続けなさい」と言われ、当時父親は東京単身赴任で滅多に会えず、兄とは殴り合いの喧嘩をするほど仲が悪く、塾に行っても同級生に僕が学校でイジメられていることを暴露され、ずっと笑われものにされていた。

当時は携帯すら持ってない、ネットというにもよく分からず、自分の世界は「学校、家、塾」だけ。

自分に居場所がないと絶望した僕は、この頃から無性に死にたくなりました。「こんな苦しい生活はもう嫌だ」「死んだら楽になるだろう」「でも僕のことをよくしてくれた人もいるから、いつ死んだらあの人たちに迷惑をかけないかな」なんてことを必死に考えていた。

当てにならない教師たち、相談できない両親、そんなこんなで病院にも行かずじまいでしたが、その頃から毎晩のように「ある同じ夢」を見るようになった。


「毎晩やってくる殺人鬼」


真夜中に自宅の前を歩いていた僕は、ナイフを持った知らない人に追いかけられ、僕は足がすくんで、地面を這いながら自宅前に辿り着いて、ドアを開けようとした瞬間に、胸を刺されて目が覚める・・・。

あの頃から「今は自分は、寝ているのか?起きているのか?夢なのか?現実なのか?」その狭間が分からなくなり、闇が怖くて、気付いたら寝室の片隅で、頭抱えながら三角座りになって怯えていた。毎晩のように。

一時は夢遊病の症状が出た。
夜中2時に誰かに呼ばれてるような気がして家を飛び出そうとした。*いつも母親に止められてた記憶がある。

そんなこんなで、
毎日のように「死にたい」願望を強く抱きながら生きていた。

「そうだ、3学期が終わって春休みに入ればたとえ死んでも転校されたと思われるかもしれない。あと数ヶ月の辛抱だ。」

もうすぐ死ねると思うと急に気分が楽になってきた。

命の終わりがもう見えていたから。

生きたいという希望を失くした僕。


ボクサーの拳、植わった心の声


しかしそんなある日、学校でいつものようにいじめられてる僕の前に、辻雄一というクラスメイトの男の子が立ち上がった。

「お前らいい加減にせえよ。これ以上こいつをいじめたらおれが許さんからな」と、大人数の相手に向かって言い放った。

当時ボクシングジムに通っていたらしい彼の身体は、僕や他の学生より数倍大きかった。すごく心強かった。

そして

「学校いじめ」というのはこんなにも儚いものか。

それからというもの、僕に対するいじめは一切なくなった。

あまりにも呆気なく、死にたいと強く願っていた悲劇が終わり「一体何が起こってるのか?」当時の僕には上手く理解できなかった。呆然と立ちすくむ僕を横目に、辻は次の言葉を残した。

「山内、強くなれよ」

なんだろう?

辻のその一言を聞いた瞬間、

僕は身体に異常を覚えた。

辻の声ではない。

何か、他の力強い声の持ち主の言葉が、自分のココロに"植わっている"ような心地を覚えた。

「お前はこれから人の為に生きていくんだ」

そんな声が在った。

色々突然過ぎて、現実を受け止めきれずいた僕だが

「これは神様の言葉か」そう疑って止まなかった。

毎授業が終わるたびに、同級生にいじめられないように図書館に駆けこんで休憩時間を潰し、下校では誰にも見られないように泣きながら遠回りして帰っていた日々。

家に帰れば親には怒鳴られ、毎晩寝ては殺されることに怯え、朝を迎えては絶望を感じ、気付いたら部屋の片隅で叫ぶ自分。

この状況から救い出してくれたのは

間違いなく、辻だった。

そこに運命・宿命たるものを感じとった僕は、その植わった言葉に感謝して「絶対に強くなる」と強く強く誓った。

それから勉強に精を出し、当時通っていた「太陽塾」という個人塾の英語の先生(塾長・塾長夫人)の世界観に憧れ、英語を積極的に勉強するようになった。

僕が中1でいじめられてたとき、新任の家庭科教師は僕に何も声をかけてくれなかった。申し訳なさそうに僕を見るが、自分の身を守るために必死だったように見えた。そして、それが何より悔しかった。

だから、

「僕が教師になって、いじめをなくす」

そう意気込んで、必死に勉強した。

とは言っても、

自分が頭が良かったわけではない。

「神様はやはりいじわるだった」

ーーーーーーーーーーーーーーー

高校は堺市にある登美丘に入った。
*後にバブリーダンスで有名になった高校だ。

3年間の高校生活は、打って変わって随分落ち着いた。陸上部に入って、気の許せる友達に恵まれた。勉学にも打ち込んだ。成績は常に上位をキープした。

そして高校の指定校推薦で、国内の外国語大学に入学。

しかし高校生の時にGLAYにハマり(当時2009年)「大学に入ったら軽音楽部に入って、プロのボーカリストを目指す」と意気込んでいた。

そんな僕とGLAYとの出会い(愛)はこちら。


憧れに、打ちのめされた


毎日のように英語の授業を受講しながら、夜はアルバイトに明け暮れながら、毎日走り込み、喉に気を遣い、飲み物は白湯、マスクを常時着用、しまいにはアルバイトで貯めたお金でボイトレスクールに通っていた。

が、いきなりボーカルを目指すというのは無理があった。憧れだけで始めてみたが、現実と夢とのギャップを酷く感じた。次第に自分の能力とお金に限界を感じた。そして再度精神状態に支障をきたし軽音楽部を退部した。

自宅で寝込む日々が少し続き、ずっと考えていた。

「自分は何の為に大学に来ているのか?」

僕のルーツはいつでもあの植わった言葉にある。
「そうだ、先生になるんだ。」
「どうすれば良い先生になれる?」
「英語力は確実に必要だ。今の自分には到底ない。」

「よしっ。外大に来たからには留学だな!」

このとき初めて、大学のパンフレットを開いた。*指定校推薦で担任に勧められて何となく入学したから大学のシステムがよく分かっていなかった。

そして、あるページを見た瞬間、僕は目を見開いた。

スクリーンショット 2020-06-27 14.29.46
スクリーンショット 2020-06-27 14.29.57

これだ!

この外大の留学プログラムには「フルスカラシップの2年留学制度」が存在する。外大の学費を払っていれば、留学先での費用を支給してくれるのだ。

さて、貧しくもないが、裕福でもない山内家。
留学なんて到底行くお金がないと思っていたが、

「よしっ、これに受かればお金の心配は要らない。」

そんな簡単なことではないと分かっていたが、

「今の自分に出来ないことはない」

そう思わずにはいられない根拠のない自信があった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜

それからというもの。

本当によく勉強した。

指定校推薦でまともに受験勉強をしていない。
英語力は下から数えた方が早いレベルからスタートした。

この頃の全ての時間を、勉強に費やした。

その結果がこれだ。

画像5


「夢、叶えちゃった」 

返金不要のフルスカラシップ(約500万円)が支給され、アメリカとスウェーデンに1年間ずつ交換留学する機会を手に入れた。

*年間何百人と応募する「(当時)大学内最高峰の留学プログラム」で、受かったのは若干数名。僕が受かったのは、奇跡としか言いようがない。


そんなこんなで、

家に帰って母親に報告。

その時のやり取りは思い出深いので、こちらで紹介しよう。

扉「ガタンっ!!」
僕「ただいま〜」
母「おかえり」
僕「あ、お母さん、あのさ、次の夏から2年留学行くことになった」
母「え?留学?あんたお金どうするの?うちそんな余裕ないで?」
僕「見てこれ。大学がほぼ全部支給してくれるんよ」
母「ゆーた 。あんた、騙されてるんとちゃう?」
僕「いやいやいや、選考試験に通ったんよ!これ確定!」
母「外大ってお金持ってるんやね。ゆーたが受かるならみんな受かったんやろ」
僕「いやいや、300-500人受けて、受かったのこれだけ(先ほどの紙を見せる)」
母「。。。ゆーた。」
母「あんたやっぱり騙されてるやろ」


人生初の海外で見たもの・感じたこと


2013年夏

パスポートを作って、初海外・初留学でアメリカのミシガン州、自動車の街としても有名なデトロイト市近くの大学「Eastern Michigan University」へ留学した。

*そういえば、息子の初海外で両親のなかで緊張と不安が走る中、渡航前のこのニュースは彼らを更に不安にさせた。

毎日のように現地警察から緊急メールが入り「強盗・殺傷・殺害・恫喝」のニュースを受け取っていた(毎日メールがくるから、もはや緊急ではない)。当時のデトロイト市はアメリカで一番治安が悪い街と言われていたが、もはや慣れてしまっていたのは恐ろしい。


ここから僕の初めての刺激的な海外生活が始まるわけだが、これはまた別の機会に述べたいと思う。僕のアメリカの1年の暮らしはこの動画を見れば分かるだろう。

僕がアメリカ留学の終わりに撮ったFarewell Video(お別れビデオ)だ。
2014年の自分。かなりエモい。

さて。

当初は教職の道を志し教育学を受講していたが、アメリカ現地の暮らしに衝撃*を受けた僕は、日本の大学に歎願書を送り、教育学から『ビジネス学・起業学』の専攻に変更した。

*この衝撃というのは、僕が授業で出会った現地の学生についてだ。米大学の学費は日本の3-4倍する。現地の学生は、日本みたいに安易にお金が借りれず、高校卒業に何年か働いてお金を稼いでから大学に行く人がチラホラいるようだ。働くということを学んだ彼らがその先に大学を選ぶ時、それは目的・目標が明確になっている。「自分は〇〇になりたいから、これを勉強する」「今の自分にはこれが足りないから、これを勉強する」僕が大学に入る時はそこまで深い考えがなく、ただ親にお金を借りて通っているだけだった。

加えて、アメリカでは、何歳になっても大学に通って勉強しようとする人が多い。日本は「大学は高校卒業したばかりの学生が行く場所」というのがまだ常識化してるように思える。僕はアメリカにいた1年間はずっと夜の授業(night class)を受講していた(*通常授業は、「1時間半×週2コマ」の授業だが、night classは「19:00-22:00の3時間×週1 コマ」の社会人向け)。そこで出会う人たちは、大手企業のマネージャ、起業家、おばあちゃん、復職を目指すママさん、色々な方がいた。当時の僕は英語が全く喋れず、ちゃんとした会話は出来なかったが、僕のアメリカ留学という挑戦をよく褒めてくれた。本当に優しい人たちの集まりで、毎回授業に行くのが楽しみだった。


こういった経験を通して、「自分はもっとこの大きな世界で大きなことが出来るのではないか」大雑把だが、ずっとその想いを抱いていた。海外に出て初めて実感した。

後日談:アメリカ留学は実際色々あった。アメリカのリスに餌をあげたら指を噛まれて狂犬病の疑いがかかった話。当時英語が上手く伝わらない僕にとても優しく接してくれたクラスメイトのVictoria(の彼氏がすげーヤクザで脅された)の話。体感温度-30℃で授業が中止になった話。なぜかテストで120点もらえた話。21才の誕生日にパスポート忘れてクラブに入れず、ダークな飲み屋に連れ回された話。でもやっぱり一番は僕のルームメイトのクリスの話だ。これらはどこかでまた書き足そうと思う。先に進もう。


自分という可能性


2014年の夏。

アメリカ留学を終えた僕は、今度はスウェーデンのビジネススクールに向かった。

アメリカでの生活に慣れ親しんだ僕だったが、生活環境がまるで違う欧州の暮らしにはとても苦労した。

・ビジネス知識がなかったため授業に付いていくのが大変。
・英語が第二言語が当たり前の環境。英語が下手だと本当に通じない。
・アジア人というだけで友達がうまく出来ない。
・僕の寮が難民カメルーン人たち10人程(寮の90%)に占拠される。
 *移住目的で学生ビザを取得し、学校には行かず、夜はIKEAの搬入アルバイトそして路上の空き缶を拾って生計を立てていた。

彼らとの不衛生な共同生活の中で、僕はウイルス感染を患い、高熱と咳による肋骨の疲労骨折に苦しみながら、4か月間戦っていた時期もあった。

*幸いにも寮の契約は4ヶ月のみで、そのあとの半年間は、人や自然に恵まれて、留学生活を楽しく過ごせた。代表的な写真はこちら。

画像11


「サウナからの真冬の池に飛び込み@フィンランド北部」(左下のガリガリくんが僕ですね。あの時はすごいやつれていた)

はい、それでも優勝です。

学業自身はとてつもなく大変だったが、そんなこんなで、他の人にはない濃い経験をたくさんしてきた。

後日談:ここでも色々あった。思いつくだけあげてみよう。ビビるほど友達ができなかった話。日本のクレジットカードが使えなくて、初対面の日本人後輩「りさこ」に数万円借りた話。カメルーン人の口癖「ハクナマタタ」。毎週水曜日に開かれる大学運営のクラブハウス「AKA」。病んでた僕を救ってくれたインドネシア人のFerdinand。同じくすごい良い奴だけど体臭がひどいインド人のJose。フランス人の女の子と話したくて必死に勉強したフランス語。DuoLingoインターンシップ。これらもまた機会があれば書き足そう。次に進もう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さて、2年間の留学生活を無事終えたら、次は何が待ち受けているのだろうか?

そう、「就職活動」

しかし、、

僕は就職活動に疎かった


スウェーデンから帰ってきた時には既に大学5年生の6月。

つまり、、

時すでに遅し

まぁ、なんとか面接にこぎつけるも、日本の本音と建前がうまく使えず、いつも最終面接で祈られる。

途中で自暴自棄に走り、就活を再開したのが2016年の年明け。

再開した頃には求人募集9割型クローズ

面接官には「こんな時期まで残ってるんだから、君なんか問題あるでしょ?自覚ないの?」なんて言われる始末。

それでも、3月初旬に、僕の経歴を面白いと言ってくれた会社がいて、既に採用を締め切っていたらしいが、なんとか入社決定した。*ここでも色々ドラマはあったが、今では気軽に内容を書ける企業ではなくなってしまったため、ここは省略したい。

簡単に話すと、その会社の会長秘書をすることになり、海外に行ったり、色々な経験をさせていただいた。経営者としての心得を教えてくれた会長には今でも感謝してる。

しかし自分の中で様々な葛藤があり、2018年春に退職。


とりあえず、飛び出してみた


次の転職先を決めず、退職した僕は、
VALUというSNSサイトを通じて、
多くの人から色々なことを学んだ。

追記: 既にサービスを終了してしまった。


そして会社を辞める時に脳裏にあった
「東南アジアに行きたいな」というなんとなくの感情に従い、
社会にしがらみのない僕は、2ヶ月間ノープラン旅に出た。

旅自体は3度の高熱に悩まされながらも、とても楽しく、何かを学んだというよりかは、「自分やっぱり海外が好きだな」と再認識した時間だった。現地では良い人にもたくさん巡り会えた。

旅も終盤、VALUで知り合った社長にお会いするのも兼ねて香港に立ち寄った。

その方とお会いし、話が弾み(向こうが弾ませてくれたのか)、そこから1週間ほど香港・中国を案内してくれ、最終的に「お前面白いな。うちの会社で働かないか?」とお誘いをもらった。

しかし

「でもな、お前は英語が喋れても中国語は出来ない。これからの時代はアメリカと中国だ。英語が喋れるだけでは大したことはない。この(香港)の上に、深圳の深セン大学があるから、まずはそこで中国語勉強してきな。」

立て続けに何がなんだかよく分からないことを言われた僕は「なんか面白いチャンスをもらった!」と感じ「はい!」と即答した。

次の日には国境越えて深圳に行って大学の中国語授業を申し込みに行った。

「あの言葉がなければ今の自分は何をやってるんだろうな」といつも思う。


来たぞ、深セン


2018年の夏

この国自体、僕は良いイメージは持っていなかった。日本でずっと生きてたら、マスメディアは「中国は恐ろしい国だ」と言う。どちらかと言えば、関わりたくない国だった。何より怖かった。

けど、その社長が熱く語る姿を見て、「イメージの好き嫌いで、決断しないのは損だな」「中国がこれから伸びていくのは確かだ。これは良い機会だ」と思った。

そして9月から深圳で学生生活をスタート。
中国語は完全ゼロから始めたので、住居選びにせよ、買い物にせよ、友達作りにせよ、全てに置いて苦労。苦痛。泣きたい。そんな日々。数年ぶりに病んだ。お金がなく、顔もやつれた。

でも、現地の日本人や中国人に助けられ、我慢して住み続けると自分の心境に変化が起こった。「中国語をもっと勉強したい!」

当初の予定は1学期分だけの滞在だったが、勢いでもう1学期分滞在を延長することに決めた。

そして、2019年新しい学期が始まった。前学期と比べて授業の難易度をかなりあげた僕は、引き続き先生が何を言っているのか分からず苦戦。「これは何か対策をしなければいけない」

そう思い、週末は毎日中国人とたくさん遊んだ。彼らから少しずつ学んでいく中で、学べば学ぶほど、中国での生活が楽になってくる実感を覚えた。

そんなある日。

以前、商品紹介の動画撮影の手伝いをした深センのスタートアップ企業から連絡が来た「好久不见。你可以过来我们的办公室吗?(久しぶり、うちのオフィスちょっと来れる?)」


左が当時の僕。中国に来て間もない頃だ。
当時彼らが開発していたのがイヤホン型AI翻訳機 「WT2 Plus」。ドラえもんの「ほんやくコンニャク」のように、耳に付けて喋るだけで自動的に翻訳してくれる翻訳機だ。

大学で言語学と教育学を専攻し、前職で通訳や翻訳の仕事をしていた僕は、この翻訳機には懐疑的だった。「こんなもの、本当に使えるのか」と

「ほんやくコンニャクみたいなものが本当にこの世に生まれようとしている。「これが流行れば、僕みたいな言語しか出来ない人はどうなるんだろう?AIが仕事を奪う?」

ただ、正直に言っておく。製品アイデアやコンセプトは良い。しかし当時の翻訳精度はクソだった笑「こんなんじゃ到底使い物にならない。金の無駄遣いだ」そう思った。

だから初めて出会った時は商品説明動画の手伝いだけして、その日は別れた。そこから約半年の月日が流れての再訪問だったわけだが、着いて早々に「前と同じ製品だ。試してくれ」と言うから、あの時のユーザ体験の悪さを思い出しながら使ってみると、すぐに異変に気付いた。

「あれ、(翻訳)精度が上がってる??」

翻訳の速度、精度、UI、全てが向上していた。半年前は使い物にならなかったものが以前と比べてだいぶ自然になってる。

そこでやっと理解した。彼らが当時から言っていたこと。

「ソフトとハードの融合。ハードウェアで差別化して、ソフトウェアは後から改善でユーザー満足度を高めていく」

完璧な製品を追い求める日本人からすれば、"未完成の製品"を売りつけられることに納得できないかもしれないが、このスピード感や「ソフト(ユーザ体験部分)は後から改善させていく」というやり方は深センスタートアップではどうもよくあることらしい。

ただそれでも、この翻訳機の使い勝手、企業としてのユーザに対する姿勢、市場展開の施策がかなり粗いように感じた。

そんな時だ。

COOから「だから君に日本市場を手伝って欲しい」と言われた。

「一緒にもっと面白い良い商品を作りたい」
「俺たちは、この言葉の壁を乗り越えたい」

いきなりのオファーに戸惑ったが、直感的に「『深センスタートアップで働いたことある』って履歴書書けそうだな」半年ぐらいなら面白そうだなと思い、その場で承諾した。

これが僕と「Timekettle(タイムケトル)」との出会いである。

Timekettle(以下、2022年12月更新)

时空壶logo合集(加R)-03

2019年5月、こうして僕はTimekettleにインターン生として入社した。

今なら笑い話にできるが、インターン生としての最初の3ヶ月(試用期間)の給料はわずか2000元(当時のレートで3万円)だった。自分をあまりにも安売りしてるのは分かってるが、期間限定のお手伝いとあれば、大事なのはお金よりやりがいだ。

とはいえ、2016年12月創業、当時15人ほどのザ・スタートアップ企業で、海外営業以外の人間は日本語はおろか英語すら話せない。中国語を学び始めて半年の自分にとって、話が通じない相手との仕事はかなりのストレスだった(もちろん僕よりも彼らの方がストレスを感じていただろうが)。

それより、まさか大学時代の海外留学経験(英語力)が、ここ中国で活かされるとは思ってなかった。とはいえ、英語が喋れるはずの同僚ですら、ずっと中国語で喋りかけてくるから大変だ。まぁそりゃ母国語で話したいよな。

そんなこんなで、中国語もままならない僕は、最初の3ヶ月は資料の日本語化やAmazonページの修正、日本の代理店とのやり取りなど、差し障りのない作業に専念していた。

それでも初めてのメーカーということもあり、電子機器の基礎知識、各部位の専門用語、技術原理など、理解しなければいけないことが沢山あり、こればかりは「時が解決してくれる(時間をかけて慣れればわかるようになる)」という感じだった。

この下積み作業に関して何ら不満はなかったが、当時は何より他の原因で仕事としてのやりがいをかなり削がれていた。

中国語が話せないとロクに意見を言わせてもらえないし、当時は「俺の言う通りにやれ」みたいなボスがいたので、自分は彼の背中に隠れながらただ手や口を動かしていた。会長秘書として働いてた時と同じ感じだ。「自分の発言に責任を帯びない仕事」は面白味を感じない

ただ、そこから事態は変わった。ボスの仕事のやり方により、当時の日本の代理店や関係者から多くのクレーム・問題が発生したのだ。

当初は「これが中国人の仕事のやり方か」と辟易したが、私が会社を辞めて独立した後「あの人が異常なだけ」と彼を知る人たちから言われた。「周りの人は思ったよりもあなたのことを見ている」といったところだ。

<人を尊重しない、自分の意見をだけを押し通す>という姿勢に、僕は辟易とし、「このままだとタイムケトルは日本でやっていけなくなる」と本人に訴えた。結果的に、ボスはクレームの処理を僕に任せるようになり、それ以降、日本市場のいかなる判断も僕から提示するようになった(2019年12月のこと)。

自分のキャリアの絶頂期

2020年1月、アメリカラスベガスの世界最大の展示会「CES」での出展を終え、日本に一時帰国していた。本来であれば深センに戻って1月末の春節まで仕事をするつもりだったが、CESで接点ができた代理店さんと少しでも早く商談を進めるために出張という形で帰国した。

この頃から、ボスに意見・決裁を求めることはあれど、基本的には自分の意見・意思で動かせてもらえるようになっていた。

『週刊フジテレビ批評』2020/1/25放送分より。テレビ初デビューの自分。すごいやつれてる

2020年、当時は夏のオリンピックを控え「今年話題1位は音声翻訳機」と言われるほど会社としては最大のチャンスが訪れていた。皆さんがご存知であるポケトークを販売するソースネクスト社を除いて、AI翻訳機を専門的に開発販売する数少ない会社の一つがタイムケトルであり、その日本市場を背負う自分にとって二度とない機会だった。

『めざましテレビ』2020/1/7放送分より。ご覧の通り2020年に入りメディア露出が急激に増えた


先述通り、春節手前に日本に一時帰国を兼ねて出張に来た僕だが、この頃から怪しげなニュースが世間を賑わせていた。

そう、コロナウイルスだ。

ダイヤモンドプリンセス号が毎日ニュース番組をジャックする最中、私は大阪の実家に居た。本来であれば春節が終わるタイミングで深センに戻るつもりだったが、「ウイルスの発生源がどうも武漢らしい」ということで、会社からは「とりあえず日本に待機していてくれ」という指示を受けた。

こればかりは上司の言うことを聞くしかないと思い、リモートワークという形で仕事をこなしていた(初期から在宅リモートワークを実施していた人間かもしれない)。

しかし、1週間。2週間。待てど暮せど、テレビニュースが伝える内容は事態が悪化しているとしか思えず、同じく深センで事業を営んでいる吉川真人君が深センに戻るタイミングを模索していたので、来たる2020年2月29日(うるう日)に2人で関西国際空港から香港を経由して深センに渡った(結果的に上司の助言は無視した)。

これ以降、私はずっと深センにいる
2020年2月29日夜、深セン湾イミグレ、この時期にあえて中国に入境する外国人はほぼ皆無だった

そして案の定、3月中旬以降、中国の入境に制限がかかり、渡航ビザを持っている人も中国に入国できなくなった。ここがまさに運命の分かれ目だっただろう。

この頃、深センに来て1年半。現地で出来た日本人の友人のおよそ8割は、中国に入国できないまま、中国の会社を退社した人もいれば、中国生活を終えた人もいる。

もしあの時、周りの言うことを聞いて、自分も日本に留まっていたらどうなっていただろうか?おそらく大勢の者と同じように、深センでの生活を諦めて日本で再就職していたかもしれない。※たられば話はキリがないが、時々そう考える。

深センから戻ってしばらくの間はリバ邸深センに住んだ。

このリバ邸深センも当時は日本からの渡航者を歓迎する場所であったわけだが、国境が封鎖された以上、住む人はいなくなった。自分のように何者でもない人たちが深センで自分を見つけるには最適な場所だったわけだが非常に残念だ。

吉川君と僕は深センに戻ってからというもの、日本人というだけで煙たがられたが、お互い海外で生き抜いてきた人間だから、ある種 “珍しい経験”として消化していった。(当時、日本の感染が特にひどかった時期だったから、彼らもイレギュラーに対応に困っていたに違いない)。

https://ourworldindata.org/explorers/coronavirus-data-explorer

上記は2020年の日本と中国の感染者数グラフ。
1〜2月は中国での感染者が多く見られたが、3月以降ロックダウンとともに感染者は激減。打って変わって日本の感染は日々に増していった。


ところで深センに戻って早々、タイムケトルの方で大きなプロジェクトが動き出した。応援購入サイトMakuake(マクアケ)での、タイムケトルの新商品 『スマート翻訳機ZERO』の先行予約販売だ(2020年4月〜6月)。

結果はご覧の通り、約1万人から7000万円以上の応援購入をいただいた。
※今は分からないが、当時の「日本のクラウドファンディングサイト史上もっとも支援された翻訳機デバイス」となっている。

ところで、7000万円も支援されたことについて、僕も当時は驚きを隠せなかったのだが、後から気付いた僕なりの興味深い考察があるので皆に聞いてもらいたい。

まず2020年1月に日本でコロナ感染が確認されてからというもの、CESで得た商談や代理店との提携がことごとく中止または延期になったこと、当時4月は全世界で感染が蔓延しており、海外旅行どころではなかったことをご理解いただきたい。

「なのに、なぜ日本の人々は今すぐ使えない翻訳機を支援してくれたのか?」その答えは応援購入者のコメント欄にあった。

「この製品が届く頃(7月末)には海外渡航できるといいな!」
「今は無理ですが、コロナが落ち着いたら、海外旅行で使いたい!」
「アフターコロナにZEROを使いたい!」

そう、多くの方たちはこの事態が早く終わることと思い(願い)ながら支援してくれたわけだ(もちろん「この商品にお金を払っても良い」と商品の機能性に価値を感じてもらってこそだが)。

こればかりは決済時期と商品受取時期に時間差が生じるクラウドファンディングならではのケースだった(通常であれば「支援した商品は今すぐ欲しい」と思うのが真理だが、本件の場合は「(コロナが終焉するとともに製品を)待つこと」に価値があったわけだ)。

※なお東京五輪2020は2020年3月24日時点で「1年程度の延期」が正式発表されたので、ここでもタイムケトルが東京オリンピック効果を受けることはなかった。

※当時のメディアインタビュー内容も載せておく。

この7000万円プロジェクトが外見上*成功に終わったことを機に、タイムケトルの2020年上半期でMVP社員として表彰され、深センの一部の界隈で僕の名前が噂になり、これを機に、タイムケトルの日本法人を設立して代表取締役に就任と、コロナ禍の翻訳機会社の人間としては一番ラッキーな待遇を受けた。

*外見上とあえて強調した理由は、このZERO翻訳機が結果的にユーザ(支援者)に納得いただける使用体験を提供できなかったため。外見上かつ機能上、画期的な翻訳機であることには間違いなかったが、会社が当初思い描いていたような使い勝手は生まれなかった。

その後、コロナ禍で翻訳機市場が冷え込み、同業他社が人員削減や倒産に追い込まれる中、僕は日本市場での生き残りを懸けてメディア戦略に舵を切った。

例えば、体験型ストア「b8ta Japan(ベータ・ジャパン)」の日本初上陸時に真っ先に出店を表明したり(2020年8月)


当時駆け出し中の家電お試しサービス「Rentio(レンティオ)」との試みとして、Makuakeで製品を支援いただく前に、製品をお試し体験いただけるような導線を作ったり(2020年11月)


メディア向けオンライン製品発表会を開いたり(2020年11月)


当時でネットで話題になりつつあった「Google翻訳より精度が何倍も良い」と言われていた「DeepL翻訳」をタイムケトル翻訳機に採用するように裏で働きかけ、数ヶ月の交渉とテストの末、搭載まで漕ぎ着けたり(2021年1月)


こうした施策を打ち続けたことで、結果として、

読売テレビ「大阪ほんわかテレビ」2021/2/19 放送分より
日本テレビ「沸騰ワード10」2021/3/12 放送分より

数々のゴールデンタイムのテレビ番組に取り上げていただき、ことAmazonにおいては、ポケトークを抜いてベストセラー1位を継続的に獲得し続けるなど、コロナ禍の身動きが取れない中で知恵を働かせた。

松丸君のおかげでAmazonの在庫が全て空になった


そんなこんなで「コロナ禍だから翻訳機は売れない」という常識を社内でも社外でも覆す取り組みを行なってきた。


でも、そろそろ限界。


コロナ禍でグローバル全体で翻訳機の売上が落ちる中、タイムケトルの日本市場の売上だけはズバ抜けた結果となり、社内社外問わず、「『どうやったらもっと売れるようになるか』『どうやったらテレビで紹介してもらえるのか』などのノウハウ共有をしてくれ」という質問を受けるようになった。

しかしこういう結果でしか物事を判断できない人たちは嫌いだ。話す気にもなれなかった。確かにメディアで取り上げてもらえるにはそれなりの手段とコツがある。だが、そこに確実性はないし、僕が言語化した通りにその人が実践して成功できるほど、テレビメディアは落ちぶれてはいない(っていうか何の義理があって貴方に教えるのだ)。

まぁただ確かに、この1年間で自分が打った施策は、結果的に見事に功を成している。そこに成功の理由があるとするならば、それは「自分が感受性を高く保った上で、世の中やそこに住む人々に対して目を向け続けた結果」だと思ってる。※この一文で意味を理解できる人は、きっと貴方も同じことができる方なのだろう。これ以上は語るつもりはない。そう、僕はもう疲れた。

2020年3月の深セン帰国から、2021年3月までの1年間、自分主導で色々と策を打ってきた。誰からも特に期待されていない環境下だったからこそ、自由にやっていたが、再現性のないものに期待され、ノウハウ化を求められ、この頃には僕はとても疲れ切っていた。

何より自分に限界を感じていた。今までは付け焼き刃で戦ってきて結果的に上手くいっただけで、この先、同程度に上手くやっていける保証はどこにもない。むしろ自分の中では手詰まり感があり、これ以上コロナが長引けば、手の打ちようがない(今の自分には考えられない)気がしていた。

そこから自分のこれからを考えるようになった。言わば、曲がりなりにも成績トップを飾り、自他ともに認める人材になった今、「自分はこれからどこでどう生きていこうか」を悩むようになった。

そんな中、2020年3月末、とある僕のインタビュー動画が中国国内にて配信された。

我住在这里的理由(私がここに住む理由)

2021年3月25日、ドキュメンタリー監督竹内亮さんの番組「我住在这里的理由(私がここに住む理由)」にてインタビューを受けた動画が公開された。

インタビュー自体は1月20日に行われたもので、インタビューの内容すらすっかり忘れていた頃にやってきたが、後々これが自分の人生を大きく変える出来事になる。

簡単に裏話をしておくと、前述の吉川君がメインで取材を受けることになり、サブ素材として深センに住む他の日本人を探していたところ、吉川君が推薦してくれインタビューに至ったわけだ。ただ僕が選ばれたというより、「AI翻訳機」という視聴者の興味を引きやすいネタがあったからこそ選ばれたので、僕としてはただの仕事の一環に過ぎなかった。

この動画を3月25日のオンエアで初めて観たとき、自分の老け顔に驚くとともに、「私が深センに住む理由」をいつまでも答えられないことに違和感を覚えた(結局撮影時も理由を上手く答えられなかったので、その部分はカットとなった)。

当時は彼女と同棲していたこともあり、彼女の寝顔を横手に見ながら、「自分はこのままでいいのだろうか」と自問自答を繰り返すようになった。何故ならタイムケトルでのキャリアの行く末は東京赴任だからだ。コロナが収まれば、僕は東京に拠点を構えることになるだろう。そしたら彼女とは多分別れることになる。

「仕事と恋人、どちらを取る?」というのはよくありがちな質問だが、深センの苦しい生活をずっと支えてくれたのが彼女だったので、深センで頑張る彼女を支えるのが自分の使命だと思った僕は、年度末の3月31日に、タイムケトル社に退職願いのメールを出した。

案の定、次の日にCEOとCOOを呼ばれ、あらゆる手段で引き止めようとしてきたが、僕は全ての申し出を断り、中国の法律を遵守し(法人が辞職願を受理しない場合でも、退職願から1ヶ月後には退職できるというもの)、4月30日に退職。

自分は現存する創業期メンバーから数えると一桁番号の人間で、ストックオプションとかも貰えたポジションだが、株に人生縛られて生きるのも嫌だった。2年間勤め上げた会社で、しんどさ・やりがいで言えばダントツだったが、いざ辞めてみれば心残すことは特にない。それほどやり切ったと言うことだと思う。

そんなことより、「これからどう生きていこうか」という悩み・問題の方が大きかった。


そして、独立へ


2021年4月、退職願を出してからは、周りの社員に引き継ぎを行いながら、これからのことを考えていた。ある種、勢いで辞めると言ったもののこれからどうするのかあまりよく考えていなかった。

そんな時に僕の退職を聞きつけた人間が何人かおり、早速仕事の機会を運んできた。とはいえそのうちの多くは社員登用としての提案だった。

「社員としてであればタイムケトルで働くのと何ら変わらないではないか?」そう思った僕は「じゃあ自分で会社作って、案件を引き受けよう」という結論に落ち着いた。

コロナの影響で日本人が中国大陸に入ってこれないというのは、翻訳機会社時代で言えば苦痛でしかなかったが、独立する身となればこの上ない環境だった。

そしてありがたいことに過去1年の実績を評価してくれる人たちが深センにいたことで、とりあえず仕事の機会には恵まれた。

とはいえ、今まで日本語を話せばよかっただけの仕事から、法人設立やその他諸々の手続き、案件の獲得(価格交渉、業務上の報連相)含め、全てが中国語でやり取りをすることになった。

最初は流石に慣れなさ過ぎてストレスばかりが溜まったし、話しても理解してもらえるような同じ境遇の人間が少なかったため、一人で悶々としながら作業に打ち込んだ。

「最初は小さく始めよう」というのが僕のモットーでやってきたため、法人手続きでの外注を除き、最近(2022年11月)まではほぼ一人で案件を請け負ってきた。

ここまで読んでくれた方には特別にその案件の一部を紹介する。

※「成果を可視化&共有しやすい」という点でMakuakeプロジェクトにてお手伝いした案件を紹介するが、一般販売でのオンラインマーケティング支援も行なっている。
※もちろん全てが全て、自分一人でやったわけではなく、周りの方に協力を請いながら進めたものが多いので、本音を言うと、これは自分の実績だとは思っていない。

何はともあれ「これからどうしていこうか?」と行き当たりばったりの人生を進むことになりそうだった僕に、声を掛けてくれた周りの人たちに感謝している(まぁ向こうは困ってるから僕に依頼してきてるわけだが)。

ところで僕自身、独立当初は「海外渡航が通常に戻れば、自分の仕事の機会が減るんじゃないか」と心配になったことがあるが、「あなたの真の価値は、日中双方の歪みを解いて、プロジェクトを良い方向に前進させる<コンパス+潤滑油+馬車>みたいな存在なので心配はない」と言われたことがある。

「さすがに大袈裟だろ」とは思うが、彼らの言葉を信じながらも、ビビリ症な自分なので、これからも新しいことに挑戦しながら一歩一歩頑張っていこうと思う。

ゼロコロナ、終わるのか?

ここ数日のニュースで、2023年1月9日から中国入国に際する隔離措置一部撤廃説が出てきている。

2020年から2022年2月の北京冬季五輪まで、中国は実に上手くウイルスを押さえ込んだと思うが、日本含め欧米諸国が早くから入国制限撤廃する中、中国国民のゼロコロナ対策における不満が昨今の抗議活動に変わり、2022年12月現在、ようやく中国にも開放の兆しが見えてきた。

私は来月中旬におよそ3年ぶりに日本に一時帰国することにしたが、中国アフターコロナ後の僕の起業ライフはまた一味違う展開を見せるだろう。今の時点で恐怖や不安に駆られるが、ここまでなんとか生きてきたから多分大丈夫だろう。それぐらいの根拠なき自信を携えながら、引き続き頑張るとする。

あっけなく終わった(以下、2023年8月更新)

2022年12月、結局あのあと本当にゼロコロナ対策の幕が閉じられた。あの時、中国でゼロコロナ生活を過ごしていた人たちの誰もが驚いただろう。「えっ、こんなあっけなく終わるの?本当に終わるの?」と。

日本で生活されている方には、当時のゼロコロナ対策下での私たちの生活は想像しづらいと思うので、コロナ対策に関する以下の例をご覧いただければと思う。

引用: https://globe.asahi.com/article/14784473

正直、3年近くもゼロコロナ対策のもとで生活していた自分の感覚は完全麻痺しており、これらの生活があたかも当たり前かのように思えていた(それほど習慣化していたし、不可抗力という名の思考停止状態だった。「環境は人を慣らす」)。

だが、厳格なゼロコロナ対策が招いたウルムチ市の火災事件が、北京で掲げられた横断幕、全国数十の地で起こった白紙を掲げる運動(後の「白紙革命」)を引き起こし、それが結果的に対策緩和に至ったわけだ。

「この国は声をあげても無駄だ」と思っていたが、この時ばかりは国民の勇気ある行動とその声に応えた政府の決断に感謝している(自分はこの国に住まわせてもらってる身なので、批判をするつもりはないし、批判するぐらいなら自国に帰ればいい話、だと思っている)。


3年のコロナ禍を振り返って


2023年1月、無事ゼロコロナ対策によるあらゆる規制が撤廃され、僕はおよそ3年ぶりに日本に帰国した。3年ぶりの母親の顔は痩せこけ、父親はヘルニアを患い、兄は結婚・子(半年)ができた。

振り返れば一瞬だが、この3年間は自分の中でも思い出に残る3年間になった。コロナがなければ、自分は今、前職の会社のために東京で働いてるだろうし、そうなれば今の彼女ともどうなっていたかはわからない。

同じように、コロナが皆さんの人生を大きく変えたのは間違いないし、それは多くの人にとって「コロナのせいで」というネガティブな意味合いで捉えられることになるわけだが、当の自分にとっては「コロナのおかげで」な結果を持つことができたは本当に良かったと思ってる。

人生は結局、結果論だ。人生がどう転んでも、その時自分が最善と思える行動を取って、その行動に満足できるか否かで、幸せにも不幸にもなれる。

*だが、自分で人生の意思決定ができない未成年の方たちには同情する。自分の青春時代がコロナ禍のようなものだったらと思うと、本当にやるせなくなる。でもだからこそ今思えるのは「(保護者のもとで成り立つ自由な)青春時代も良いけど、(責任を背負いながらも自由に意思決定できる)大人も良いぞ」ってこと。

ただ、「コロナのおかげで」と言っている自分も、いつまでそれらに感謝し続けられるかは今後の自分の活動・成果にかかっている。少なくとも「コロナのせいで」と考えを改めなくてもいいように、悔いなく今の生活を生きたいと思う。


新たなステージへ


さてコロナが明けてから半年が経った。「コロナ禍の需要で起業した」ということもあり、コロナが明けたあとの起業生活は大丈夫だろうか?と心配していたが、ありがたいことに今のところは特に問題はなく、むしろ社会の変化とともに、会社の変化を迫られるようになったことで少しずつではあるが、事業規模も大きくなってきた(今までは完全一人だった事業が、今では複数人に仕事を手伝ってもらえるようになった)。

正直、まだまだ自分に至らないところがありすぎて、現状の自分に納得も満足もいってないが、周りの人たちに支えられ、これからも地道に自己研鑽に励む日々は続くだろうと思っている(と同時に、自分より数十倍の速度で成長されている方たちを尊敬している)。

*以後、大きな動きがあれば、追記としてここに書き記そうと思う。


後書き【最後に】


非常に長くなりましたが、最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。全部読まれた方はぜひTwitterにてコメントください。仲良くしましょう^ ^

そして、もし僕のお願いを聞いていただけるのなら、
Twitterをフォローして、僕のこれからの成長を見届けていただけると嬉しいです。 https://twitter.com/giver_yuta


この記事は今後も更新され続けます。もっと彩りある人生を歩めるように、日々精進していきたいと思います。ご笑覧ありがとうございました。



=PEACE=

2023/08/13:後半追記(コロナが明けてから…)
2022/12/11:後半大幅追記(起業しました!)
2021/02/10:全体修正・2020年後半を追記
2020/11/09:後半追記
2020/08/29:編集
2020/06/27:編集&追記
2018/05/20:執筆


この記事が参加している募集

自己紹介

相互フォローしましょう✨