Sumiko
息子の聴覚障害・発達障害・外表奇形などの障害を通して これまでの資料や母としての葛藤・気づきが現在子育て中の方の何かのお役に立てば。との思いで書いています。
わたしらしく生きていくためには?そんな思いを日々抱いています。 生けとし生けるものの気・エネルギーに関心があります。 そんな私の日々の気づきの日記です
初めての出産は自分の体でありながら、自分の体がどうなってしまうのかわからない。命がげではあるが、生命の神秘を初めて体感する不思議で貴重な経験である。 思いがけない妊娠からスピード結婚をすませ、 妊娠9ヶ月になったころ、里帰り出産のために私は神奈川の家から両親の待つ神戸へと帰った。 結婚よりも先に妊娠してしまったことを最初は激怒していた両親も、すっかり受け入れてくれるようになり、身重である娘の身体をたいそう気遣ってくれた。 一年前、OLをしながら学校まで通って建築士の資格
この子育て日記は 聴覚障害と発達障害のある息子の子育てからたくさんの幸せをもらっていたなあと子育てが終わりかけの頃つくづく感じまして 当時先生との連絡帳や私の日記などをもとに、息子が成人したあたりからちょこちょこ断片を集め、文章として書き溜めていました。 最初は「きれいごと」一見よいことばかりで構成していたのですが、もっとムカついたり、なさけないことや、それこそお恥ずかしいような内容を入れこんだ方がメリハリがつくかなとも思いまして都度推敲を重ね一つの作品が出来上がりました。
28年前、その頃の私は自分のやりたい仕事に希望を抱いてワクワクしていました。ところが思ってもみなかった妊娠。そして障害を持つ子の出産。 外表奇形に、聴覚障害、発達障害など次々に障害がわかってきました。 もう、ひとつひとつ受け入れるしかありませんでした。 それでも想像もしなかった展開、思い通りにならない現実との葛藤を抱きながらも子供はたくましく成長していきました。 できちゃった婚、出産というだけでも私を取り巻く環境がガラリと変わってしまったわけですが、さらに障害児の出産
正月が来る度思い出す。 かれこれ7−8年ほど前の父の思い出話である。 私は東京に住んでおり、両親は神戸に住んでいた。 子供を出産する前は年末年始に実家へ帰り、 正月を神戸で迎えたものだが、子供が生まれてからは新幹線が混んで子供連れはややこしいという理由で(両親いわく)年末年始の帰省はせず、 ちょっと暖かくなった春休みの頃に子供を連れて戻る事が日常となった。 1月1日元旦、私は両親に電話で新年の挨拶をするのが常だった。 その年、私はいつものごとく元旦に新年の挨拶を。と
写真は15年前、自分との対話ノートをスタートした時の文章です。 もうかれこれジュエリーデザインで仕事をさせていただくようになって5年以上経ちます。 そもそも大学は美大の建築デザインを専攻していました。 卒業後環境系デザイン事務所に就職できたのですが バブルのあおりで3年で退社。 私、もともと男性性エネルギー優位な方で、 またその頃の時代の風潮も相まって 男性と同じように働くことが自分の道なんだ!それが自立なんだ。って思いこんでいた節がありました。 ところが、当時付き
『世の中は常識外れが変えて往く』 昨日出会った言葉!
コミュニケーションは、受け手の言葉を使わなければ成立しない。 受け手の経験にない言葉で話しても理解されない。 「大工と話すときは大工の言葉を使わなければならない」ソクラテス
相手がどんな時にどんな言葉によって怒るのかというものは 本当にわからないものだなとつくづく思う。 こちらとしては全く悪気なく気を使って相手に伝えたつもりでも、怒れる人のスイッチが入ってしまうという時がある。 相手が怒っているのがわかって初めて「え?」という気持ちになるのだ。 言われた事が当たっているから腹が立つということもよくある。 「自分の中から湧いてきた感情は、過去の消化しきれていないトラウマや何かが、状況や時間、相手を変えてリピートしているだけだ」 とよく聞く
「そこはひとつ」 「まあまあまあまあ。。。」 毎日様々な場所 様々なシチュエーションでマーマー星人が舞い降りる 断りたいけど断りきれない時 Aの意見とBの意見が真っ向から対立する時そんな時第三者に舞い降りてくる。 海外にもマーマー星人は舞い降りるのか? 小さな社会に軋轢を生まないために存在しているマーマー星人。 人々のはっきりとした自己主張をグレーにしてしまうマーマー星人。 今日も私の前に舞い降りた。 娘に運転をかわってもらおうとした時 めんどくさいと思った
やってみて「どうか」「どう感じるか」全部経験したくてしている 「どう生きるか」人生は選択の連続だ。 都度自分に合った職業やライフスタイル選択をしていかないと自分の中で不調和をきたしていく。 そのためにも「自分を知る」ということが大切になってくる。 現代の私たちは何かを選択したり、 なにか行動を起こす前にスマホで「メリット・デメリット」を調べてから行動する癖がついている。 あまりにも情報が多く、また買い物もネットで比較して購入することが当たり前な時代なのでそうなってしま
「どう生きるか」人生で何度も自分に問うテーマだ。 テーマ自体は非常に漠然としていて、様々な要素を包括する大きなテーマだ。 人生は選択の連続だ。 都度自分に合った職業やライフスタイル選択をしていかないと自分の中で不調和をきたしていく。 そのためにも「自分を知る」ということが大切になってくる。 「自分を知る」ことこそ、簡単そうで難しいことはない。 自分の中で渦巻く多くの要因によって混乱することもある。 そんな時にはじめた私の方法をご紹介したい。
息子は聴覚障害と発達障害を併せ持っています。 もう成人し、母としての振り返り日記です。 言葉の概念が育つまでは言葉って使えないものなんです。 なので幼児期は絵でコミュニケーションしていました。 詳しい話はこちらに 生まれつきの聴覚障害発達障害のある子を育てて 歯医者って口の中を一定時間空けさせてガーーっとやるわけですからわかっていない子供にとっては怖いのも仕方がないと思います。 息子の虫歯が見つかったのは4歳くらいの時でした。 元々背骨の奇形もあったせいか、口が大
生まれつき聴覚障害を持った息子の子育ての記録です。 彼は小学生からは手話のある聾学校に通いましたが、それまで手話は与えない、口話法教育の環境にいたということで、コミュニケーションの手段はジェスチャーか絵でした。 聾学校通いの経緯は↓ 生まれつき聴覚障害・発達障害のある子を育てて 今回の絵は 主人の弟=息子にとってはおじさんに当たる人の結婚式に参加したという話です。 絵は絵本として綴り、表紙に紺色の布を貼りました。 下の妹が麻疹にかかってしまい、結婚式に行けないというと
回るものが好き 息子は聴覚障害と発達障害を併せ持っています。 もう成人し、母としての振り返り日記です。 詳しい話はこちらに 生まれつきの聴覚障害発達障害のある子を育てて 発達障害とはっきり判断されたのは中学部の時でした。 聴覚障害は赤ちゃんの時に判明し聾学校の乳幼児部から幼稚部へと通うことになったわけですが、その(聴覚に)障害のある子ども達の集団の中に入れても、なんかうちの子だけ違うよなーといつも感じていました。 一番上の子供でしたし、ちょっと変わった癖のある子、ま
前回の続きです。 前回の記事は↑ 聾学校の幼稚部では毎日の日常の一コマを息子と繰り返し話をするための絵日記を求められました。 学校では担任の先生が絵日記をもとにお話してくださいます。 「言葉」そのものを教えるというのではなく、日本語の言葉の「概念」をまずは子供がつかんでいけるようになることが大事かと思います。 口話法での教育でしたので手話を与えず本人にあった補聴器をつけて毎日話しかけました。 今回の投稿も前回と同様日常の絵日記です。 口話法で、言葉の概念がまだない
聾学校の幼稚部では毎日のなんでもない日常の一コマを息子と繰り返し話をするための絵日記を求められました。 学校では担任の先生が絵日記をもとにお話してくださいます。 いま思えばこれが毎日できたのも、彼が一番上の子だったからかもしれません。 本当によくある日常、大人にとってはつまらないことかもしれませんが、ネタにしています。 汚い!って言いたいところだけど、、、 「ぞうさんオムライス」という絵本があって、真似して作りました。 当時ファービーが流行っててボール紙でファービ