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サークル申請中!『中原淳一ふぁん倶楽部』作ります♪

中原淳一さんのファンクラブがないので、作ります♪
(FBグループで創ろうかと思ったのですが、会費の管理
などを考えると、ブログを投稿させて頂いているnote内
サークルにしたほうが、管理がスムーズだと感じて)


「昭和が生んだ天才クリエイター」

中原淳一さんの絵や考え方など全てを尊敬しています。
もう日本に同様の方は、現れないでしょう。

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ご存じじゃない方へ詳細を以下へ簡単に記します。

19歳で挿絵画家デビュー

昭和の初期、少女に与えられる雑誌といえば
子供だましのような幼稚な物しかなかった時代に
弱冠19歳の淳一は、「少女の友」の挿絵画家としてデビュー。

次第に、”微妙な年ごろ"に読むにふさわしい雑誌があるはず、
と考えて編集会議にも参加。
淳一が考えた企画は付録を含めて少女たちの絶大な支持を得て
以後27歳まで「少女の友」を舞台に活躍します。

「それいゆ」を創刊

淳一は絵に添えて文章も書くようになり、読者に美しさ、
喜び、生き方を訴えかける強い意志を持つものでした。

戦争で仕事を中断せざるを得なくなった淳一は、
焼け野原と化した東京で、夢もお洒落も忘れてただ
食べる事に汲々している少女たちを見て、これではいけない
本当の意味で美しい暮らしを知る女性達を作りたいと考えて
「それいゆ」を創刊。

紙の確保さえままならない状況の中、最初は1冊だけと考えていた
「それいゆ」は、少女たちの乾いた心に水がしみいるように
受けいられ、淳一が病で倒れる昭和35年まで63号を数えることになった。

本当の意味での美しさを追求

淳一が「それいゆ」を作るときに考えた事、
-----読んでいるうちにいつの間にか本当の意味での美しい暮らしを知り
優しい美しい、賢い女性になっていくような本を作りたい、という想いは
そのまま「美しく生きる」という淳一が生涯求め続けたテーマとなって
淳一のその他の雑誌や様々な分野の仕事に受け継がれていく。

そしてまた、この雑誌を作るために、企画・レイアウト・校正・
服のデザイン・モデル選び・着付け・ヘアメイク・撮影場所の設定・
演出・中心となる記事やイラストまですべてを自分の手でこなしました。

その淳一の才能と人気は、他の分野からも嘱望されテレビ、ラジオ、
審査員、講演会、芸能界のプロデューサー、シャンソンの訳詞、人形作家、
テレビ番組の演出など活躍の分野はとどまるところをしりませんでした。

淳一自身は、自分の仕事は雑誌編集者であって出来る事をやっているうちに
周りから様々な肩書を付けられたのだ、と語っていますが遺されたその
一つ一つの仕事はみな一流のものであり、現代に続く先鞭をつけている物が
少なくない。

過労で病に倒れる

ほとんど睡眠時間がとれないほど多忙な毎日を送っていた淳一は
45歳と言う絶頂期に過労から心臓発作で倒れ、さらに翌年
脳溢血を起こすに至って、医師から仕事を禁じられ、10年間の
療養生活を余儀なくされます。

その後少しずつ仕事を再開したものの、結局無理をし過ぎた身体は
完全に回復することはなく、59歳で引退、70歳で亡くなるまで
海辺の町で療養生活を送りました。

この期間には誰のためでもなく創作欲求のままに作った人形が
遺されている。身近な物で作られた青年やピエロの人形たちは
人生の哀しみや憂いを秘め、観る人の心に強く訴えかける物を
持っている。

中原淳一が私たちに遺した願い

幼いころから「天才」と呼ばれ、そのほとばしる才能に肉体が
追いつかないかのように、眠る時間を削って表現し続け、
人生を駆け抜けていった1人の芸術家。

彼にとって「美しい」とは、外見の美だけでなく、優しい心遣い
思いやり、弱いものや悩む人への愛、謙遜の美徳、清潔なすがすがしさ
といった人間のあり方すべてを指していました。

そして、日常の暮らしを美しく生きることによって初めて、人生を
楽しみ、生きることを喜ぶことが出来る、と考えました。

「美しい暮らし」はただ漠然と日々を暮らすことからは生まれず
「美しさ」という物を知り、ものを考える賢さを持つこと。
物を大切にし、生活の中で様々に工夫する心を育て、実践していく
ことから生まれる。

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本当の贅沢とは、そういうことを言うのだと説く淳一の言葉は
ものがあり余っている現代にこそ、いっそう強く心に響くのでは
ないでしょうか。
         (なかはらそうじ/デザイナー・淳一次男)

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