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学校へ行けなかった私の話

私の高校一年生の1年間のことを全て書きます。
多くは愚痴であり、不平不満であり、読んでいて気分の良いものではないと思います。
とても長くなりますが、それでも読んでいただける方がいたら、嬉しいです。

入学


進学したのは、第一志望の高校ではなかった。

私の家はお金が無く、私立高校を受験することは叶わなかった。「滑り止め」無しの一本勝負。塾にも通えない。学校と自宅での勉強のみで確実に合格でき、かつ、自転車で通える高校を受験した。電車や、バスの定期代を払えなかったから。

スマホも与えてもらえなかった。中学の同級生は、高校受験の合格、そして中学の卒業というタイミングで、スマホに機種を変更していた。

余談であるが、中学の卒業式では、嫌な思いをした。周りの友達はみんな、スマホで写真を撮りあっている。私に渡されていたのは、祖父が遺したデジカメ。大切なものではあったが、私には、周りと違うそれが、ひどく恥ずかしいものに思えた。卒業式後、校門の前で写真を撮ってもらい、同級生の楽しげな声を背に、泣きたい気持ちで家に帰ったのを覚えている。

進学したのは地元の高校だったので、同じ中学の友達も、数人入学していた。しかし、同じクラスになることはなかった。

1学期



自分のクラスには、馴染むことができなかった。
まず、スマホを持っていなかったので、クラスのグループLINEに1人だけ入れなかった。出だしで大いに躓いた。

そして、このクラスで過ごすの、無理かもと思った、決定的な出来事があった。

入学して3日かそれくらい。誕生日を迎えた女子生徒に、サプライズが行われた。クラス内のほとんどの女子が参加していた。教壇の上に山のように積まれたお菓子。黒板にはハッピーバースデーの文字。
ターゲットの女子生徒が、ドアを開けて教室に入ってくる。誕生日を祝う歌。
女子生徒は、涙を流して喜んでいた。


私はというと、ドン引き、であった。まだよく知りもしない相手を利用して、「高校生らしい」ことをしたいがために、誕生日サプライズをする人たち。それに対して、「喜ぶ」以外の反応の選択肢を与えられず、オーバーリアクションで応える、祝われる人。そして、一連の流れに強制的に付き合わされる、「いないもの」とされたクラスメイト。
本当は、それに参加した全員が、純粋に、親睦を深めることを望んで決行されたものかもしれない。私が穿った見方をしていただけかもしれない。しかし、当時の私には、その全てが受け入れ難いものだった。


クラスで私から話しかけてできた友達は、1人。その子と毎日お昼ご飯を食べた。

部活は、吹奏楽部に入部した。中学でも吹奏楽をしていたので、その延長で、中学と同じホルンを吹くことになった。このことが、その後の私に大きく影響してくる。


入学してひと月が経ったころ、私は学校を休みがちになった。
友達の輪は広がらないまま。入部した吹奏楽部でも、気を許せる友人はできなかった。
部活でもクラスでも、もし自分の趣味がバレたら、絶対に引かれる、馬鹿にされると思い込んでいたので、私は、「私」の大きな部分を隠した。
そのことが、だんだんと苦しくなっていったのだと思う。
それに、中学の部活動で散々訓練された耳は、わずかな音程のズレも不快感へと変えた。合奏の時間が、苦痛だった。

勉強についていけないことも、苦しいことの一つだった。

私は、国語や英語などの文系科目は得意だった。様々な時代、様々な国の、様々な価値観を持つ、様々な人の言葉に触れることができることに、大きな喜びを感じた。自分の考えを、拙いながらも英語で話す授業内容も、好きだった。
しかし、毎回行われる単語テストは、小さな負担として、積もっていった。

逆に、理系科目はサッパリだった。
どれだけ予習復習をして、何度問題集に取り組んでも伸びない、数学のテストの点数。
理解しづらいモルとかいうものを、理解しづらい説明で教えられる化学の授業。
グループワークで進められ、問いへの答えを班で考えて提出し、その後に正解を教えられる生物の授業。(最初から正しいものを教えてくれれば良いのでは?と当時は思っていた)

中学時代、公式や法則、重要単語の暗記のゴリ押して点数をもぎ取っていた私のやり方は、高校では通用しなかった。

唯一の友達が、私の苦手な理系科目もできるうえに、文系科目もそこそこできる子だったということも、劣等感を煽った。
さらに、その子は、私が休んだ分のノートのコピーをとってくれていたので、その負い目もあった。

学校へ行こうとしない私を、父が無理やり外へ引っ張り出したこともあった。私の今後を思ってのことだったろうが、やめて欲しかった。


1学期の終業式前に、職員室に呼び出された。
このままだと、出席日数が足りなくて単位を落としかねない、とのことだった。

クラスでは、秋の合唱コン、そして、文化祭への準備が始められていた。


2学期

合唱コンでは、谷川俊太郎が作詞した「信じる」を歌うことになった。
実行委員の女子が、中学の時に同じように合唱コンで歌った曲だったらしく、彼女ただひとり燃えていた。
しかし、その練習はと言えば、ただパートに分かれて歌うか、集まって合唱するかの2つのみ。例の女子がリーダーシップをとってくれるかと期待したが、それもなく、グダグダとした意味の無い時間を過ごした。

最悪だったのは、その程度の熱量で、合唱コンクール本番で金賞をとってしまったこと。
実行委員の女子は泣きに泣いていたが、私を含む他のクラスメイトは、それを冷めた目で見ていた。「記念に集合写真を撮ろう!」なんて涙声で言われた時には、本当にうんざりして、私はさっさと帰ってしまった。
独りよがりのステキな思い出づくりに、これ以上付き合わされたくなかった。



文化祭も最悪だった。
私のクラスでは、「現代版シンデレラ」と称して、ショートムービーを上映するはずだった。
問題だったのは、夏休みの間に撮るはずだったシーンが、演者の都合とかなんとかで、ほとんど撮れていなかったこと。
夏休みがあけて、私も協力し、なんとか映像は撮れたが、さらに問題が続く。
文化祭当日になっても、映像の編集が終わっていなかったのだ。その編集を買って出た男子生徒は、2日間の文化祭で、一度も顔を見せにこなかった。

外側だけ綺麗に装飾された教室。一度も上映されない映像。受付の担当でシフトを組んだ私は、「まだ映像が届いてなくて〜」とお客さんに半笑いで説明しながら、早く帰りたいと思っていた。


文化祭には、本当に良い思い出が無い。
2日目の文化祭終了後、私はある人に呼び出された。相手は、同じ吹奏楽部でサックスを吹く男子。部内の女子との距離を感じていた私は、クラスも同じで、話しかけやすいその男子生徒と、友達として親しくしていた。

察してはいたが、案の定、用件は彼の想いの告白であった。
私は、本当に、彼を友達として頼りにしていたので、分かってはいても、ショックを隠せなかった。宗教で恋愛を禁止されていることが頭をよぎる。友達のままでいたかった。その言葉を言われたら、もう元には戻れない。もう彼には頼れない。部活でもクラスでも、独りになってしまう。
やめてくれ、と心から思った。

あなたと一緒には帰れない、と言った。それが私の返事だった。
その日、私は泣きながら自転車を転がした。決して、恋人を得られないことが悲しくて出た涙ではない。私と、教室、そして音楽室を繋いでいてくれた友人を失った悲しみの涙だった。

家の玄関を開ける前、涙を念入りに拭って、なんでもない顔を作った。このことを、親に知られたくなかった。


その後、私の足は、さらに学校から遠のいた。

自転車を漕いで学校へ向かっても、校門の中へ入れずに、家へ引き返したこともあった。

制服にホコリが付いていたら馬鹿にされると思い込んで、登校前に、入念に制服のホコリを、粘着ローラーで取り除いた。

クラスでの唯一の友達に、休んでいた期間のノートのコピーをお願いすることも増えた。

選択科目の美術の授業で完成させた作品は、一つもない。


2学期が終わるころ、再び職員室へ呼ばれた。
3学期、毎日全ての授業に出席するくらいでないと、進級は難しいだろうと言われた。


諦め


部活動で、「もうダメだ」と諦めたのは、外部の指揮者を招いての合奏中だった。
音程がおかしい箇所で、そこの和音の音を出すように、指揮者が全員に指示をする。

明らかに、トロンボーンの一音のピッチが高すぎていた。それに気づいていないのか、気づいていても、直すのが面倒で気づかないふりをしたのか、真相は分からないが、指揮者は何も言わずに次の指示を出した。

ダメだ、と思った。もうこれ以上、このバンドで吹いていけないと思った。


生徒が指揮者を担当する「学指揮」に立候補しておきながら、部活を休んでばかりで、何も成せなかった。
とにかく音程からと思い、一年生だけでのチューニングの指導や、和音を作るということを覚えてもらおうとしたこともあった。しかし、欠席してばかりの私。信頼度はほぼゼロ。それでも挑戦を続けようと思ったが、結局学校へ行けず、私のしたことは、ただ部活仲間を困惑させただけであった。


クラスで、「もうダメだ」と諦めたのは、2学期の終業式の日。
以前から、授業中の私語が非常に多く、先生の話が聞き取れないこともあることに悩まされていた私は、担任の先生にそのことを相談していた。先生は、「私からクラスのみんなに注意をするね」と言った。
その「注意」が行われたのが、終業式の日だったのだ。
担任の先生は、授業中の私語について話し始めた。「困っているという声が、多数上がっている。」先生は、優しく言葉を吐いた。

その時のクラスメイトはというと、その「私語をやめましょう」という担任の声を私語で遮り、まったく話を聞いていなかった。

ダメだ、と思った。これ以上、このクラスはどうにもならないんだと思った。


その日、私はそれまで休んでいた分のノートのコピーを、友人に頼もうと思っていたが、やめてしまった。いい加減その友人に申し訳なかったし、きっともう私には必要ないだろうと、諦めたからだった。

数日後、ある夢をみた。
担任が授業をしている。しかし、その担任は、前と左右を、コの字型の、コンクリートの分厚い壁によって囲われている。
担任は、目の前のコンクリートに向けて授業を続ける。
クラスメイトは、それを馬鹿にして笑っている。大声で笑っている。担任は壁に囲まれているので、それに気づかない。
私は、一番後ろの席で、その異常さに気づきながらも、何もできないでいる。

そんな夢をみた。


最後の一撃


冬休みになった。
私は、3学期をどう過ごすかを考えていた。学校へ行かなければ、進級できない。しかし、進級したところで、この学校に私の居場所はない。
堂々巡りだった。


冬休みの間も、なんとか部活にだけは行っていた。今思うと、なぜこの時まで部活をしていたのか、理由が分からない。

ある日の練習終わりだった。
合奏で使用した教室を片付け中。積まれた椅子を下ろしている部活仲間に、「下ろした椅子を持っていくよ」と、私は言った。しかしその子は、「大丈夫」と断った。


その直後、別の子が来て、私と同じことを言った。

すると、「じゃあお願い!」

これが、私が今まで学校を休んできた結果だ、と思い知らされた。


仮に3学期を、無遅刻無欠席、成績良好で終われたとする。しかしその先にあるのは、仲間と信頼関係を築けなかった部活動。今いる先輩たちは引退する。そして、環境が良くなるか悪くなるか不確定なクラス替え。
もしまた、今と変わらないようなクラスに入ったら、3年生でのクラス替えは行われないので、そこで2年間を過ごさなければならない。

他の子には任せられる椅子の片付けを、私には任せなかった。ただそれだけのこと。それだけのことで、私の進む道は、前に伸びるのをやめ、私はその場から動けなくなってしまったのだ。


3学期


クラス替えに必要となる、絶対に提出しなければならない、進路に関する課題に手をつけられないまま、3学期を迎えた。


この頃にはもう、学校へ行こうとすると、頭痛がしたり、吐き気がしたりするようになっていた。

私の欠席の連絡をする母の声を、布団の中で聞く毎日。
夜に眠れず、朝までパソコンを見て逃避する毎日。

冬は、寒くて、暗くて、寂しい。
私はこの期間に、そのことを知った。


いつだか、何気なく母にこぼした言葉がある。
「通信制の高校とかないのかな?もうできるだけ人と関わりたくないよ」


母はその言葉を覚えてくれていた。
2月に入ったころ、通信制高校の資料を、少しずつ請求してくれた。初めは見る気も起きなかったが、資料に目を通してみると、春からの私はどうするのか、具体的に考えられるようになってきた。


いくつかの通信制高校に、見学へ行った。そして、4月から通う高校を決めた。



3学期、登校したのは、転校のための書類をもらいに、放課後の職員室を訪れた時だけ。
出席日数はゼロ、得られた単位もゼロだった。


職員室で担任を待っている間、2人の教師に話しかけられた。

1人は、英語の先生。まだ登校できていたころ、一度だけ、何か困っていることや悩んでいることはないか、と気にかけてくれた先生だった。私はその時、「大丈夫です」と言ったのを覚えている。
もう1人は、クラスの副担任。

英語の先生は私に、「いなくなるなんて、残念だな」というような言葉をかけた。
副担任は、「もっと早く悩んでいることに気づいてあげられれば良かった」と言った。


私は、心臓を何本もの針で刺されたような心地だった。
私だって、この学校で3年間学びたかった。副教科の授業はどれも為になったし面白かった。大切なことを学んだ。これからもここで学んでいくつもりだった。この一年、ずっと助けて欲しかった。それなのに、それなのに!
あなたたちにとって、私は「長い教員生活の中の、去っていく、よくいるただの一生徒」だったかもしれない。だが、私にとっては、「人生でたった一度きりの、3年間の高校生活」だったのだ。
あまりにも無神経だ。罵倒が喉元まで出かかって、必死の思いでそれを飲み込み、私は「そうですね」と笑った。



ただ一つの居場所


私は、その高校で、吹奏楽部のホルンパートに属していた。
そこで出会ったのが、M先輩と、K先輩だった。2人とも2年生で、とても優しく、面白い方々だった。

2人は、私にニックネームをつけてくださった。もともと、2年生が、入部した自分のパートの1年生にニックネームを贈るというのが、部の伝統としてあったのだ。
先輩たちは、私の様々な話を聞いて、本当に素敵な名前を贈ってくれた。今でも、そのニックネームの由来となるものを、全て覚えている。
音楽が好きな私のニックネームに、音楽の神の名前を含ませてくれた。私は、言葉では言い表せない喜びを感じた。楽器を吹く人間として、こんなに大きな祝福が、他にあるだろうか?

私は今も、このニックネームを大切にしている。


先輩たちは、学校を休んだ私を、面白い自撮りを添付したメールで元気づけてくれたり、部活の昼休みに1人でお弁当を食べている私を気遣って、一緒にお弁当を食べてくれたりした。
3人で、別の高校の吹奏楽の演奏会を聴きに行ったこともあった。

3人でいる時間が、高校一年生の時の、私のただ一つの居場所だった。


私はこのお二人に、本当に感謝している。先輩たちがいなかったら、私は、もっと早くに潰れていただろう。
先輩たちは、私が一度も登校できなかった3学期の間、合奏をする時は、ずっと私の分の椅子も並べてくれていたそうだ。
私も出るはずだった、3月の定期演奏会の時にも、先輩2人の横に、空席がぽつんとあった。そこに座れないのが、悲しくて、4月で引退する先輩たちと、もっと一緒にいられなかったことが悲しくて、悲しくてしょうがなかった。

先輩たちは、私の誕生日に、贈り物を届けに我が家へ足を運んでくださった。
その時私は、入浴すらままならず、とても汚い状態だったので、失礼だと知りながらも、とても先輩たちの前には出られなかった。
本当は、2人の顔を見て、お礼を言いたかった。学校へ行けないこと、心配と迷惑をかけていることを、謝りたかった。


私は、今でもこの先輩たちが大好きだし、尊敬している。この高校に入学して、数少ない良かったことには、先輩たちと出会えたことが挙げられる。
もし、過去に戻って、入学する高校を変えられるとしても、私は同じ高校に通って、先輩たちに会いにいく。それくらい、M先輩とK先輩は、私にとって、大きくて大切な存在なのだ。



あの一年を振り返って

私の人生にとって、あの一年は悪い意味での大きな転機だったと思う。あのクラスに分けられていなかったら、と考えずにはいられない。自分ではどうしようもない部分で、私は負けていたのかもしれない。

しかし、私自身にも、確かに問題があった。全てが環境のせいというわけではない。
特に、クラスや部活に馴染めなかった件について。
積極的に周りと関わろうとしなかったし、いつだって受け身だった。それに、あまり登校してこないやつなんかと、話が合うわけがない。
私がそんなヤツでも、私が受け入れられなかった子たちは、たまにしか登校しないやつに、挨拶をしてくれた。なんでもない笑い話をしてくれた。

彼女や、彼らばかりが悪いわけではないのだ。
あの人たちは、普通に学校生活を送っていて、私がそこに順応できなかったんだ。
彼女たちが正しい高校生の姿であって、間違っているのは私の方。

それに、私は自分の多くの役割を放棄してきた。
委員会の業務、部活内での係、「学指揮」という立場…。


この認識が、正しいのか、分からない。
ただ、今の私はこう思っているということを、記録しておきたい。


高校1年生、15歳の私の痛みを、私はまだしっかりと抱き続けている。

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