福江元太

物書き好きだった祖父の言葉たちをここに記していきます。

福江元太

物書き好きだった祖父の言葉たちをここに記していきます。

最近の記事

祖父の原稿 「レッドパージ」2

 穀物の配給は欠配が続く。食糧難が貧困生活に追い打ちをかけてくる。米に代える手持ちの衣料も底をついて、山野の野草にすがるだけ。目眩を持って、スルメのように薄くなった腹を抱えて野草を探す山歩きを続ける。  暮れも迫ってきた11月3日。敗戦日本が世界に伍す民主国家となる。新憲法が公布となった。国内各地から米国に押し付けられた憲法だと声が上った。  何を根拠に押し付けたと言うのか?忌まわしい戦前の思想を持った連中の発言に反発する。1年前にGHQに提出した日本の憲法改正案はまったく明

    • 祖父の原稿 「レッドパージ」 1

       昭和21年7月7日、日本発送電株式会社静岡支社に、復員後初出勤の日である。  今朝はいつもと違って勝手場の音が早くからしているのを感じたが、仕事につけた安心で気が緩んだのか、寝過ごしてしまった。起きてみると囲炉裏を囲んで、膳についている家族がまぶしかった。母が自分を助けるよう、 「早くおいで。今日はお前が初めて仕事につくめでたい日だからありったけの米を使って朝飯を作った」とあまり笑わない母が満面を崩して呼んでくれた。恐る恐る俺のために作ってくれた膳の前に座った。  「俺の親

      • 祖父の原稿 「コロが応答した」

         平成17年1月28日。この日は私が84回に当る誕生日である。テレビが”崖っぷち犬”の抽選会を放映していた。  徳島県神山町の県動物愛護管理センターで行われていた”崖っぷち犬”の抽選会に、その犬の抽選申込者が11人と、他の犬の譲渡を申し込んだ30名を含めて、400名の人が詰めかけていた。  犬はこの2ヶ月前の11月。山肌80メートルもある崖の中腹まで転落し、狭い棚場に引っ掛って、幸いさらに落下は免れたのだが、上下、左右は崖で逃げ出せず、1週間も多数の衆目を集めて助けを待った。

        • 祖父の原稿 「パパイヤの記憶」

           安西原生病院は富子が入院している病院である。医師からは、「終生回復は困難」と言われている。脚の末梢血管障害を治療のために入院している。  「今日はどうかな。少しは改善が見えるかな」と僅かな期待を抱いては病室を訪ねる。  ドアをノックすると、何時もの俺であることに気付いて、おもむろに顔を入口の方に向けて富子の待っていた顔と合う。  「具合はどう」と聞いた答えの代わりに「昨日飯田から、小学校の友達と女学校の同級生の人達が、一緒になって見舞いに来てくれた」と喜びの声が返ってきた。

        祖父の原稿 「レッドパージ」2

          祖父の原稿 17

            ラストラン   ねんりんピック  平成18年6月16日。ねんりんピック静岡06第19回全国健康福祉静岡大会出場日程説明会出席する。  1ヶ月前の5月20日、県営草薙陸上で開催した県すこやか長寿祭スポーツ大会(全国ねんりんピック大会出場選手予選兼)に出場して3kmの部を走った。結果は20人中13位と予想外で残念無念悔しさで沈み込んでいた。  市から電話があってねんりんピック静岡大会の出場選手の指名を受ける。即座に断る。  83歳の高齢で、予選は13位のタイムのものです。

          祖父の原稿 17

          祖父の原稿 16

            十六 明石海峡大橋マラソン  平成10(西暦1998)年3月、日本に世界最長の橋が完成した。淡路島〜兵庫間の海峡に全長3910m、主塔高さ300mの明石海峡大橋を架け本州と四国が陸続きになった。橋の完成を記念して、(WAVA一世会ベテランズ陸上競技会。朝日新聞(朝日新聞創刊120周記念事業)主催。阪神淡路大震災復興支援レースとして、第4回世界ベテランズ、ロード選手権大会の開催となった。  世界ベテランズは、1975年第1回陸上競技選手権大会をカナダのトロントで開いた。(

          祖父の原稿 16

          祖父の原稿 15

            十五 日本マスターズ陸上競技選手権大会        ハーフマラソン、10kmロードレース  昭和39年東京オリンピックの余韻の中で急速に運動熱が沸き上がってきた。全国各地に自存のアスリートが誕生した。自分もその一人となって走りを始めた。  それから30年経過自分なりに走った運動が慣熟したと思える72才の高齢になった。朝日新聞、けんみん広場にその心境を投稿した。  私は1日おきに10〜15kmの長距離走を、夏、冬を問わず四時半には起床して行っています。年三、四回近県で

          祖父の原稿 15

          祖父の原稿14

            十四 第3回尾瀬片品高原もみじマラソン全国大会  「走ることは全てのスポーツの基本であり特に文明社会の中で身体を動かすことの少ない現在、走ることは大きな意義があります。『自然のふるさと片品』の大会コースはのどかな田園風景と、遠くには美しい山並みが展開され変化に富んでおります。紅葉を満喫しながら上り下りの多いコースで体力をつけてください」   第3回尾瀬片品高原紅葉マラソン全国大会      平成4年10月25日   主催 片品村観光協会   後援 群馬県、NHK前橋放送

          祖父の原稿14

          祖父の原稿13

            十三 高松シティーマラソン    平成2年11月18日開催。香川県高松市市制100周年記念市民スポーツフェスティバル高松シティーマラソン。会場は瀬戸内海檀ノ浦に突き出た屋島を一周するコースとある。屋島は小学校の歴史で知った源平合戦で平家が大敗した古戦場で、行ってみたいところの一つだった。直ちに参加申し込みをする。  歴史探訪も兼ねたマラソン出場に、11月17日21時20分静岡駅発。18日6時32分高松駅着の夜行列車に乗車する。深夜突然の轟音に目覚める。2年前瀬戸大橋架橋記

          祖父の原稿13

          祖父の原稿12

            十二 本四連絡橋完成記念健康マラソン岡山大会  昭和63年4月2日。倉敷市福田町体育館。瀬戸大橋マラソン大会第一会場入り口で、両手を大きく広げて近寄ってきた人に両肩を抱き寄せられた。気付いて見返したらモモタロウマラソンの中山さん。「大会要項の名簿に森脇さんの名を見ました。来る人来る人の顔を確かめながら待った」とニッコリした顔に接して緊張が解けた。  会場はすでに満員だった。正面の壇上に、山田敬蔵、君原健二、宇佐美彰郎、采谷義秋とオリンピック出場マラソンの金メダリスト4人

          祖父の原稿12

          祖父の原稿11

           十一 井川もみじマラソン  昭和61年11月16日。第3回井川もみじマラソンに出場するため前日13日実施の前夜祭に、一彦、辰哉家族全員参加する。新静岡センターで乗ったバスは、安倍川を経て西河内川沿いの県道を2時間かけて、ようやく第一休憩所横沢に着く。孫4人はもうくたくた泣きを上げる始末。それでもここから今まで以上に厳しい山登りとなる。  断崖絶壁を切り開いて造られた山道は大きく小さく何回となくジグザグの連続する険しい道を、バスは喘ぎ喘ぎ1時間かけてようやく登り終わり第2休

          祖父の原稿11

          祖父の原稿 10

           十 おかやま県民健康マラソン大会  昭和61年3月21日、第7回おかやま県民健康マラソンを走ることになったのには、次のような前段からである。  3ヶ月前の61年元旦、岡山市で生活している長女の結婚相手からの年賀状「義父はマラソン狂、3月に岡山にマラソン大会があります。沙希も4月に小学生となる。入学祝いを併せて63歳の健脚を披露する健康マラソンを走ってください」新年早々嬉しい要請を受けて、参加申し込みを依頼し3月を待つ。  3月21日、一家4人が乗った福江の運転する車に同乗し

          祖父の原稿 10

          祖父の原稿 9

           九 駒ヶ根高原マラソン大会  静岡県の西北部に位置する、南アルプス山脈の西側は深く落ち込んだ南北に長い伊那谷がある。その伊那谷の中央部に、中央アルプス山脈の中で2956メートルと一際高い駒ヶ岳を背負い天竜川に面した駒ヶ根市がある。その駒ヶ根大会本部からマラソン大会参加招請状が静岡走ろう会に届いた。  大会には古い歴史があることが分かった。  昭和39(1964)年東京オリンピック以降各地で雨後の筍のように開催されるようになったマラソン大会とは大違い、この大会は60年前の大

          祖父の原稿 9

          祖父の原稿 8

          八 大町アルプスマラソン  昭和59年10月10日(日本陸上競技連盟公認長距離競走{歩}路大町アルプスマラソン)の日本の屋根を走ろうのキャッチフレーズ付き第一回大会参加申し込み用紙が届いた。  近年薬局が多忙となってきて、二人で出歩くことがなかったのでこの際、3、4日の旅に引っ張り出そうと、俺の大会出場に同伴しないかと誘ったら「私が生まれたのは富山県内で、名前も富山の富をとって富子と名付けられた。父も当時黒部渓谷で発電所の建設についていた富山が大町に近い。マラソンを終えたら

          祖父の原稿 8

          祖父の原稿 7

          七 第一回 日本平桜マラソン  昭和59年3月3日。草彅陸上競技場。トラック第一コーナーに設けたスタートラインに立つ。コースメインスタンド前の100mを走り第四コーナーを直進場外に出て東門(現在は無い)から池田街道に出て西進、ロープウェイに入る。  9時00分23kmスタート。9時10分10kmスタートの指示に従って23km組の末尾に10km組がラインにつく。差別されたような衝撃が走った。10kmの扱いは添え物のように後手後手に小さく出ているだけ。参加者名簿の見出しにも昭和

          祖父の原稿 7

          祖父の原稿 6

          六 岡山モモタロウマラソン  「むかしむかし、あるところにおじいさんと、おばあさんがありました。おじいさんはやまへしばかりに、おばあさんはかわへせんたくにいきました。おばあさんが、せんたくをしていると、おおきなももがどんぶりこ、どんぶりことながれてきました。おばあさんは、ももをひろってかえりました。おじいさんがやまからかえってきました。ももをわりました。なかからおとこのこがでてきました。ももからうまれたので、ももたろうとなまえをつけました、、、、」  物心が付いて初めて聞か

          祖父の原稿 6