祖父の原稿 8

八 大町アルプスマラソン

 昭和59年10月10日(日本陸上競技連盟公認長距離競走{歩}路大町アルプスマラソン)の日本の屋根を走ろうのキャッチフレーズ付き第一回大会参加申し込み用紙が届いた。
 近年薬局が多忙となってきて、二人で出歩くことがなかったのでこの際、3、4日の旅に引っ張り出そうと、俺の大会出場に同伴しないかと誘ったら「私が生まれたのは富山県内で、名前も富山の富をとって富子と名付けられた。父も当時黒部渓谷で発電所の建設についていた富山が大町に近い。マラソンを終えたら黒部、富山と廻ろう」と二つ返事が返って来た。
 静岡発特急(富士)号を中央線甲府駅で降りた。61歳になって初めて乗る中央本線長野行きに乗車。久し振り二人並んで腰掛けた席は暖かく感じた。小学校のときの修学旅行を思い出した。変化する窓外の景色は素晴らしく見える。南から見ていたが今日は裏側から見る北岳の厳かしさに驚き、静まり返る諏訪湖の神秘さに酔っていたら、あっという間に松本に着いた。ここからまた初めてとなる大糸線に乗る。
 沿線はかつて糸魚川から千国街道〜信州街道といった「塩の道」で、道案内のように石仏が立ち並んでいるのに驚いた。信州大町駅で下車し車を拾って温郷の河内屋旅館に着く。
 玄関を入った途端「失礼です。森脇さんじゃないですか」女中さんの肩越しに声が掛かった。記憶にない顔を見上げて立ち往生となった。「申し遅れました。私は以前関西電力の社員で、東京で研修会があった時一緒しました富田と申します」機関銃のように早口で飛び出る関西弁を聞いて思い出した。18年前の1966年(昭和41年)5月、電気事業連合会が九州電力会社社員合同研修会を、東京オリンピック記念宿舎施設で開催した時、同時受講で知り合った富田さん(高田さんかも)を思い出した。驚いた20年近く経った、こんなところで再開するとは。それにしてもどうしてまたこんな所で突然顔を合わせるとはと正気になるのに戸惑っていたら「大会名簿を見たら静岡走ろう会森脇一男とあった。これは中部電力の森脇さんではないかと、部屋の表札を確かめ玄関番のようにここに出てきて来る人、来る人を待ち構え顔の確かめをしていたところです。同姓同名の異人でなくて良かった」とニッコリしながら右手を差し出してきた。
 夕食にはまだ間がある。足慣らしを兼ねて、往復7キロある(釜ケ岳スキー場)まで、東京出会いから現在までの生活を話し合いながら軽いジョギングをする。この緩いスピードだが彼はついて来るのが大変なようだ。そんな足なのに、大阪からずいぶん距離のある大町まで来て、クロスカントリーを走ろうとした動機は何だったろうと興味をいだいた。
 夕食の膳は隣り合わせで座った。走り始めたポイントは何だったかを聞いたら次のように話をしてくれた。
 会社を定年で退職した。運動は興味が無かったが、健康管理の一環として走ることを習慣化しようと始めた。出歩いてみると街や人の変化に気付いて走る喜びを感じた。そんな時、この大町にマラソン大会が開催されることを知った。この大町は戦後昭和20年後半から始まった電力復興、電力復興は日本復興の大黒柱といういうところで、関西電力は黒部渓谷に日本最大出力のダム式発電所を建設することになった。機器資材集積場所として大町に事務所を設け、赤沢岳直下に工場現場と集積場を繋ぐトンネルを設けた。その集積事務所で、若手社員として開発業務の一端を担った経験があって、懐かしいところで思いっきり汗を流そうと出かけてきた。とマラソン参加の大要を話してくれた。
 昭和20年後半といえば厳しい物不足、ことに食糧難は欠配続きの配給制の時に、若い身空でこんな山奥に単身赴任してきて、建設工事の裏方士となって、用地、資材管理に努力した彼を知って、何ものかがじいんと伝わってきた。
 俺も当時の生活を話した。
 昭和24〜34年まで電気屋として発変電所建設に従事した。特に強烈な印象として残っているのは、大町から60キロ西南乗鞍岳の麓、岐阜県飛騨川最上流の朝日村で、ダム式発電所建設に発電機据付、屋外変電所建設に努力してきた。生まれて1ヶ月の長男と家内を連れ日本一寒さが厳しい朝日村の仮設社宅に引っ越した。洗濯したオムツを絞るとたちまち氷の棒になった。それを無理に広げるとバリバリっと裂けた。こんな環境にも3人で堪えながら、電源開発に頑張った。遅くなったがこれが私を支えてくれた家内です。と話を終えながら紹介する。同じような環境で同じように電源開発に従事した苦労話でガッチリした人間関係が出来た。まことに楽しい再会であった。
 グランドは大町温泉郷から南東5キロメートルの所にある。3000m級の北アルプス連峰を望む標高750メートルの安曇野の北端である。スタートは、運動公園の総合体育館、サッカー場と続いた最奥の第1、第2コーナー側を高瀬川に面していて他の三方は樹木が覆われた陸上競技場である。
 富田さんは5km、自分は10kmとそれぞれ別種目を走るので、競技場入り口で、楽しい再会を約して別れた。
 スタートは第3コーナーになっていた。10:00、30kmスタート。10:10、5kmB。10:25、5kmA。11:00、10km一般でスタートする。2〜1コーナーを回って場外に出る。サッカー場をまわり総合体育館へ続く路地のようなコースにスタート早々圧迫を受けたが、良い結果を残すんだと気合に入れ替えた。運動公園を出て500m坂下りして、高瀬川右岸各種コースになっている街道に出る。ここから60mの登りが始まる。
 周りは紅葉で満艦飾(まんかんしょく)、抜けるような青空、透き通る氷のような流れの高瀬川が、山登りの背中を押してくれた。頑張ってゴールした。43分25秒の完走賞を手にして満足する。
 大町駅へ出て、立山黒部アルペンルート経由扇沢行きバスに乗る。厳しいというよりも厳かに静まりかえる飛騨山脈に向かって進むルートをバスは慎重に走る。さすが日本の屋根だなと感じた。
 終点扇沢で関西電力のトロリーバスに乗る。岩肌を見せる長いトンネルは、50年前発電所建設のために開けたのだが、落盤する。大量の熱湯が噴出し数十人が犠牲となる難工事だった。その犠牲者の石碑の前でバスは一旦停車し全員手を合わせる。今経済が発展しバブルの様相を見せる富裕な日本になったのも、こうした多くの犠牲の上にあること心から念じた。
 トンネルを抜けると展望台のような造りの場所に停車したバスから降りてダムを観察する。高さ150メートル、両岸を押し広げるように曲線を描いて水をせき止めているアーチ型のダムが満々と水を湛えている。堤体の中腹から予想もしなかった大噴水が噴き出して渓谷の空間を埋め尽くしている正に圧巻ありの見事さに痺れた。
 黒部ケーブル、立山ロープウェイで山頂をきわめ、立山トンネルトロリーバスで室堂平、弥陀ヶ原を経て富山に出る。かつては前人未到の地を、一滴の汗も流さず移動できるまで開発した電気、土木の技術の高度さに感銘する北アルプス横断する。
 旧知を復興し、多くを経験し実感を得た。富山、チューリップの諏訪、金沢兼六園、山中温泉と4日間の庶民豪遊で女房孝行が出来た。大町アルプスマラソンは大きく我が成長となった。


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