祖父の原稿 「パパイヤの記憶」

 安西原生病院は富子が入院している病院である。医師からは、「終生回復は困難」と言われている。脚の末梢血管障害を治療のために入院している。
 「今日はどうかな。少しは改善が見えるかな」と僅かな期待を抱いては病室を訪ねる。
 ドアをノックすると、何時もの俺であることに気付いて、おもむろに顔を入口の方に向けて富子の待っていた顔と合う。
 「具合はどう」と聞いた答えの代わりに「昨日飯田から、小学校の友達と女学校の同級生の人達が、一緒になって見舞いに来てくれた」と喜びの声が返ってきた。「どうして私が入院していることが分かったのか?あんなに遠くから半世紀以上も経つのに今だに変わらぬ友情で来てくれた。懐かしいやら、嬉しいやら皆で抱き合って泣いた」と一気に話した。気持ちが高ぶったのか黙り込んで嗚咽が漏れてきた。
 ベッドの脇には友達が持ってきてくれたパパイヤを中心に色鮮やかな亜熱帯の果物が山のように盛り込まれた篭が、回復を待つように置かれていた。
 富子は不幸な少女時代を過ごした。七歳小学校に入学の年に、一年前に末妹雅子をお産した母の肥立が悪く、床につく日が多くなって起き上がることが出来ず亡くなってしまった。
 父親はこの三姉妹を社宅のお手伝いさんに預けて、仕事のために富山県の山奥黒部山郷の発電所建設要員となって赴任していった。
 人手で育てられて昭和12年4月富子は飯田の女学校に入学し、妹二人を残して寄宿舎に入った。7月7日日中戦争が勃発した。戦争から台湾を守るため、電力が必要となって、発電所の建設が始まった。父親はその台湾電力への応援で建設要員となって出向を命ぜられ渡台した。
 学校が夏休みとなるのを待って父親は富子を呼び寄せた。戦争が激しくなってきて、東支那海を航行する船が、中国の潜水艦に狙われる危険が高くなってきた。その危険を乗り越えて来いと、長女だけを溺愛する父親の強引な呼び付けに嫌々従うしかなかった。
 煙出しにプラス型の赤マークを付けて、病院船も兼ねる豪華客船高千穂丸の指定された一室に乗り込んだ。運悪く台風に突っ込み船は木の葉のように大揺れし、ボーイの運ぶ食事に手もつけられず、二昼夜ぶっ通しの苦闘に耐えてようやく基隆港に上陸した。
 呼び付けた父親は、迎えてくれるでもなく明けても暮れても仕事、仕事と立ち回っていた。富子はメイド付き部屋に置き去りにされる異国での生活は、辛く寂しい、味気ない毎日を送るしかなかった。
 慰めに届けられる南国の果物が、関心を誘うように部屋いっぱいに並べられても、全然食べる気持ちは起きない。ことにパパイヤは見るのも嫌だった。
 乗船者には、片目が隠れる程頭いっぱいの包帯を巻いたり、隻手だったり、片足無くて松葉杖に縋ったりした、白衣の戦傷者が多く乗っていた。その兵隊さん達から発散する消毒臭は、パパイヤの果肉から受ける松脂臭にも似ていて、パパイヤ拒食症になったと、富子はよく私に話していたものである。

 飯田と台湾。台湾と船。戦傷者と豪華客船。戦傷者とパパイヤ。そして戦争の残酷さ。哀れさ。むなしさを瞑想しているのだろうか、しばし富子の無言が続いた。
 「お父さん有難う」はじめて口を利いた。「懐かしい昔からの古い友達が、あんな遠い飯田から態態(わざわざ)見舞いに来てくれた。嬉しくて泣きながら皆で抱き合ったの」とまた泣き出した。
 「お父さん帰るとき、皆さんが持ってきてくれたその篭持って帰って食べて。私今は食べること出来ないから、それに中のパパイヤまったく駄目です」と。
 私は、女の感傷がぐらいに思って、家に持ち帰った。
 戦後50年。食糧難時期、飽食時期と戦後50年を過ぎる今まで、すっかり忘れていたそのパパイヤを手に取った。緑の果肉に黄色の縞模様が浮かぶ二つ破りしたパパイヤから、スプーンでかき取った果肉を口に入れた。ジワーッと歯に沁みわたる甘味と松脂臭が口の中で広がった。
 ハッ、この味はいつかどこかで味わったことがある。パパイヤが歯に沁みた瞬間タイムスリップした。
 11名の日本兵が紀元節を祝おうと、セレベス島の離島レンベ島に竹と椰子の葉を寄せ集めて造った宿舎兼作業小屋に集まった。昭和21年2月11日。戦争に負けて捕虜になり祖国を失ったが、日本人に変わりはない。この日を思い切り祝って鬱憤晴らしをしようと。降伏部隊への支給食料は少なく、それを補うのに、レンべ島を開墾してタピオカ、パパイヤを栽培する任を負う11人の祭日である。
 僅かな収穫物を本隊送りした残りで作った食膳は貧弱だった。その食台を真ん中にして、若い兵隊(食事当番)の合図で、少尉を上座に、曹長、軍曹、伍長、兵隊の順に分かれて座についた。みんなが静かに着席した。そのとき古参軍曹ただ一人、突っ立ったまま大声を発した。「この盛り付けは誰がした。俺の席を決め物を並べたのか」。席序列の違いとパパイヤの欠落している盛り付けに、古参の威厳を傷つけられ、差別の侮辱を受けたことへの怒りが爆発した。「ハイッ。自分であります」。直立不動の姿勢をとって若い兵隊が応えた。「この盛り付けは俺への面当てか」。軍曹は腰掛を蹴倒した。顎をしゃくって「付いてこい」と小舎を飛び出した。
 開墾の坂道を中腹まで登ってきて振り向きざま「この野郎俺を誰だと思う。貴様らに干乾しにされてたまるものか」パン、パン、パン、と両手ビンタを食らわせた。
 兵隊は痛さを堪えながら軍曹を睨み付けた。瞬間今まで聞こえていた波の音が止んで、耳がジーンと熱くなった。戦争は終わって将校も下士官も兵隊も無くすべて平等に拘束されている身だ。軍隊なんてもう無いのにこんな仕打ちを受けることはない。
 戦中は最前線で勝負を決する大事な兵隊を勝手に私物化してこき使ったり、気に入らないと陛下の命によると言って、片輪半殺しにもなる私的制裁を下したりした。戦闘中は自分の身代わりに兵隊を殺して強がりを言っていた。これが日本の軍隊だった。下士官も将校も共々延命、私的制裁のために多くの兵隊を殺してきた。
 その軍隊の残骸が今となっても生きていて、名誉だ階級権力だと振り回す鉄面皮の軍曹を見上げた兵隊は、猛烈な反抗の鬼となって軍曹の股間目掛けて頭突きを食らわせた。仰向けにひっくり返った軍曹の腹上に飛び込んで、満身の力で首を絞めつけた。
 事態の急変を知った兵隊達が上ってきて、兵隊を羽交い締めにし軍曹から引き離した。「俺を離せ。離してくれ。この意地汚い情なしの軍曹は生かしちゃおけん。あっちへ送るんだ。俺は今この野郎に片輪にされた。なんでこんな制裁を受けねばならぬ。軍隊は無くなった。いつまで上官面してやんだ」兵隊は地団駄踏んで悔しがったが、多くの兵隊に押し付けられて、小舎に連れ戻され、アンペラの上に引き倒された。顔を覆っていた両手の指間から涙が溢れ出た。

 戦争とは何だったか、その戦争をするのにこんな遠くまで連れてきた軍隊は何だったのか。セレベス海で米国の潜水艦に撃沈され、救命胴衣もなく脱出し、瀕死の浮遊をしている集団の真ん中にいたボートに、手を掛けたら「貴様ら手を離せ。ボートが沈む離れろ」と将校が立ち上がった。「離さないなら叩っ切るぞ」と敵を斬るはずの日本刀を引き抜いて、部下たるそれも天子の赤子である兵隊を、沈没から自分の身を守るために斬るという。大上段に振りかぶった中佐こそ何のために軍隊に入ったか。鬼畜は米英ではなく我が軍隊内部に居たのだ。その軍隊の亡者が軍曹となって現れ俺を殴り倒した。思えば思うほど腹立たしい。こんな人間なんて生き残る価値はない。餓死させるぞと兵隊は起きあがり、ペラを掴んで食料補充に開拓した農道を駆け登りながら、両側の作物をなぎ倒した。最も大事にしていたパパイヤの幹の前に立って、制止しようと後を追って登って来た下士官や兵隊を見下ろした。「来るな」と叫びざま渾身の力を込めてパパイヤを袈裟懸けに切り落とした。いっぱい実を付けた頂部が大きく空中に弧を描いて斜面に倒れ落ちた。実が飛び跳ねて散った。兵隊達は飛び退いた。ペラの余力が兵隊の左大腿部に食い込んで、鮮血が足を真っ赤に染めた。

 夢から醒めた。テーブル上のパパイヤを見てその藤原軍曹を思い出した。
 あの時はこの軍曹に敵討ちをするぞと付き纏った。が捕虜の身でありしかも衆人環視の状態ではあったとしても、残った自分は捕捉されてしまう。気持ちを押さえながら復員を待った。
 復員船に乗ってから軍曹の隙を見て、海に突き落とそうと厳重な見張りを続けた。軍曹も俺の挙動に気付いてか暑苦しい船倉に腰を据えたまま甲板には出てこない。
 復員船が日本に近くまで来た。入港は田辺港と聞いた。日本の島影が見えた途端、(生きて帰れた)と思った。むらむらっと郷愁の念が湧いてきた。引き替えに殺してやろうと軍曹に付き纏ってきた敵討ちなどすっかり諦めた。気持ちが落ち着いてきた。
 よかった。軍曹を手掛けなかったから今がある。パパイヤをゆっくり口に運んだ。松脂臭が口の中に充満した。

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