祖父の原稿 「レッドパージ」 1

 昭和21年7月7日、日本発送電株式会社静岡支社に、復員後初出勤の日である。
 今朝はいつもと違って勝手場の音が早くからしているのを感じたが、仕事につけた安心で気が緩んだのか、寝過ごしてしまった。起きてみると囲炉裏を囲んで、膳についている家族がまぶしかった。母が自分を助けるよう、
「早くおいで。今日はお前が初めて仕事につくめでたい日だからありったけの米を使って朝飯を作った」とあまり笑わない母が満面を崩して呼んでくれた。恐る恐る俺のために作ってくれた膳の前に座った。
 「俺の親でありながら何もしてやれなかった。お前は8年前東京に出て人一倍苦労した。昼間働いて夜学校へ行った。頑張ったおかげで日本発送電という大会社に入れた。
 戦争が終わって皆職なしで苦しんでいるのに、お前は今日から仕事につく。良かった良かった」
  父は俺の第二の人生の出発を喜んでくれた。今まで聞いたこともない甲高い父の声に背中を押されて家を出た。
 会社は大井川発電所の構内にあった。戦時中は木材会社の倉庫だったという古い建物の中に日発静岡支社と看板を出していた。コの字型に並んだ発電課の末席のイスに森脇の名札が掛かっていた。朝礼の始業ベルが鳴って各課全員が立ち上がった。発電課16名いたが一人として知った顔が見当たらず、最初に会社へ入った時以上に戸惑った。
 課長が森脇君を紹介すると言った。
 「戦争中久野脇水力発電所建設の電気課にあって工事後竣工直前招集により出征した。セレベスに派遣され5月に復員した。今日から発電課員となった。大事な電力復興の戦力として頑張ってもらうことになった。絶好の指導を皆さんにお願いします。」
 全員が拍手で迎えてくれた。
 思ってもいなかったこの期待をかけた歓迎に驚いた。課員として入れてもらえて充分であるのに、電力復興の戦力とまで評価された言葉が身に余る光栄で、体が棒立ちしてしまった。敗戦、復員で沈み込んでいた気持ちが吹き飛んで、幸せに痺れた。
 すぐ現実に戻った。
 課員は浜校(浜松高等専門学校)出身で27,28歳の平川技師補、長田技師補以外は皆35歳以上で戦争には全く関係がなかった管理職級の人ばかり。この重職高齢の人だけの職場へ、23歳と若くて無学な自分がたった一人だけで、青年層の居ないことに疑問を持った。
 久野脇建設所にいて徴兵となって戦死した土居さんは、長田さんと同年だった。また昭和18年には兵隊が払底し補充のために文化系大学生6万人が学徒動員となって国立競技場から出征していった。その戦後の職場に若年層の居ないことかな。体格的には申し分のない平川技師補、長田技師補は厳しい戦争には関係なく戦中から現在まで机に向かっている。徴兵に何か差別があったのか。
 戦死してしまって青年層のいない尻切れとんぼになった発電課は、戦争の被害者でもあった。疑問を感じながら席についた。
 戦争中4年間電力を送り続けて戦争に貢献した設備は、充分な保守も出来なかったが、作業職として課に加わったことで、一挙に点検実施の業務が決まって心底やる気が湧いた。
 管内(天竜水系西渡発電所、大井川水系渇山、大間、久野脇発電所、芝川水系島並、西山、長貫、芝川発電所)の発電所に大井川発電所を除いて一度も見たことはない。東芝、日立の機器で容量は大小の差があっても、設備そのものは、発電所基準通りで変わりはないので、実施計画書は簡単に出来た。
 予算実施が10月下期だからそれまでにクレーン(天井走行機)の運転免許を取ることが必要となった。
 三年前久野脇発電所建設時、水車発電機の組立に日立製作所のベテラン運転手の操作するクレーンに乗せてもらって、運転要領は大体理解はしている。これから自分が責任を持った運転をするのには運転免許が必要となる。取得するのに指定試験場となっている、日本軽金属蒲原工場に依頼する。
 会社は現在、終戦のどさくさ時役職の伝手によって膨大な人をかき集めた。その多くの社員家族の食生活は貧困の極みで、植物のつる、芋、野菜に頼って欠配続きの米穀の不足を補っているが、塩分が極端に不足している。
 塩を自給することとなって運転休止中の清水火力発電所と協調して製塩することになった。
 旋盤、ボール盤全ての工作機器を進駐軍に引き上げられて仕事も出来ず、出勤しては一日中だべっている修繕工場の若い者三人を連れて、山育ちの電気屋が海に出て塩作りに取り組んだ。なんでも生きるためにはと、三條の塩風をいっぱい吸い込みながら焼けつく炎天下で、海に飛び込んではバケツで海水を掬い上げ急いで構内にある升に運び込んであける。栄養不良の身体はへとへとになるが、生き残るための糧だと思うと続ける力が湧いてくる。升の中が白色を見せてくれるのが嬉しくて水運びの後押しをしてくれる。毎日毎日繰り返す。20kg、30kgと真っ白い宝物が溜まってくる。
 出来上がった塩を背負った。体力がなく重みに耐えるのに体を折り曲げた貧相な姿勢だが、気持ちは意気揚々として大井川に帰った。
 暑い八月が終わった。

 上期最終の九月に入った。
 予約してあった日軽蒲原工場へ、クレーン運転免許の受験に出張する。

 
工場に物凄く活気があった。生活必需品生産の原料となるアルミ板の生産で、政府からも援助があるという。我が社と違って皆生き生きと動き回っているのに圧倒された。
 助手席に乗ってくれた指導員は、「クレーンは全工場を動かす原動力だ。」起重機の重要性を強調して俺を励ましてくれた。なお彼は職務に徹するだけでなく、運行によっていかに工場の効率を上げるかを考えて仕事についている姿は、とても貴重な教示になった。
 後は弁当を食べて帰るだけとなり、工場の片隅にある長椅子にかけて、真っ黒い麦飯弁当の蓋を開けたら、「そんなところで食事を、お茶のある食堂においでください。」と社員に誘われた。
 案内された食堂では、今まで見たこともない、並んだ工員が、アルミ製のお膳に乗った真っ白なご飯に箸をつけている。声は殺したがびっくり仰天した。俺たちは不足米の代わりの雑穀の配給飯を食べているのに、この豪華食とは何だ。この食糧難の時にどうして白米が食べられるのだ。
 痩せ細っていても気力で生きて、電力復興に力を出そうと耐えているのに、この現実はあまりにも思うところだ。権力によって国民が差別されているのではないか。恥ずかしながら行員に尋ねた。「大事な生活品の生産工場ということで米の特配がある」と工員はさりげなく笑いながら話してくれた。
 復興の原点となるのは、多くの機械を動かす電力だ。その電力を扱う日本発送電には特配などない。復興に最も大事な電力が後手にまわされていることが悔しい。この不公平は何だと怒りが込み上げてきた。検査には合格したが、有り難う御座いましたの言葉も出ないほど興奮して工場を引き上げた。

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