祖父の原稿11

 十一 井川もみじマラソン

 昭和61年11月16日。第3回井川もみじマラソンに出場するため前日13日実施の前夜祭に、一彦、辰哉家族全員参加する。新静岡センターで乗ったバスは、安倍川を経て西河内川沿いの県道を2時間かけて、ようやく第一休憩所横沢に着く。孫4人はもうくたくた泣きを上げる始末。それでもここから今まで以上に厳しい山登りとなる。
 断崖絶壁を切り開いて造られた山道は大きく小さく何回となくジグザグの連続する険しい道を、バスは喘ぎ喘ぎ1時間かけてようやく登り終わり第2休憩所の富士見峠に着いた。
 井川湖を見下ろし湖北に目を移した先に冷たい青薙山が見えた。ここは思い出の多い所であった。
 思い出す。昭和39年東京オリンピック開催に集う世界の人を迎える東海道新幹線の建設が始まっていた。この新幹線に電気を送る、県下数カ所に変電所新設工事の命令が、発電電課補修係主任の森脇に下った。
 本議書起案から始まって、工事設計、工事発注、施工監督と2年間、早朝から夕は夜半近くまで闇雲に働き通した。昭和37年2月新蒲原変電所他3変電所の竣工で一息いれる。
 4月には長女が小学一年生になって入学する。今まで家内一人に家事子供薬局業務と万端任せてきたが、これからゆっくり女房孝行が出来ると期待していた。
 4月1日、発変電課補習係主任森脇一男「畑薙建設所電気課、勤務オ命スル」辞令発令。あと6ヶ月しかない9月竣工の建設現場へ何で送り込まれるかと不安になった。工事完了後は静岡支店に移管となり営業運転を開始する。その発電所長を補佐する発電主任が予約されていた。揚水発電と日本で初めて出来た重要な発電所の運転保守の万全を期するため予備知識習得の早期転勤辞令であった。
 畑薙第一発電所建設の目的は、日本高度成長期の中でこれに必要な電力の確保と、会社経営改善にあった。起動停止、経営に関わる程多量な燃料を消費する火力発電所の停止を避けて対応出来る水、火併用発電システムの開発にあった。
 大井川の支流信濃俣河内合流点に、堤内に3基の揚水発電設備を据付けた堤高110mのダムを造る。昼間高水位による最大発電をし、負荷が減った夜間は発電を停止し電動機に切り替え、停止を避けた火力発電所からの送電を受けて、ポンプとなって昼間落とした下池(畑薙第二ダム)の水を第一ダムにポンプアップしてダム水位を上げ、常時最大電力発生を維持する。
 この効率の高い会社が運営改善と技術改善を掛けた最新鋭の揚水、発電所の運転を任される厚遇は社員として最高の喜びであるが、月1回しか帰宅を許されない単身赴任の山奥では、今大事な家族との離別生活となると、複雑な思いで辞令を受け取った。
 4月3日電気課着任。据付完了した補機、キュービクル(変圧器)の検査試験担当(本社より派遣されている、O.K補助)の命を受けて建設組の一員となった。
 一号機(水車アメリカ。発電機富士電機。)二号機(東京芝浦電機)三号機(日立電機)、全キュービクル東芝の試験が一通り終わり、8月に入って最終の耐圧試験実施となった。
 無事耐圧試験を完了し、細線による接地線を外しキュービクルは現状復帰したと報告し、初めての発電、受電に入るのを待った。
 「発電」課長の命で水車が起動電力発電と同時に隣室のキュービクルから爆音が発生した。飛び込んで見ると一号キュービクルから猛烈な煙が吹き出した。内側では炎が見えた。このキュービクルの復旧確認は部下のO君だったが、すべて我が責任である。完成期限が遅れる重大事故を起こしてしまった。責任を取らなければならない。家内と子供3人まで前途を絶つことになるが、引責辞職して退職金少しでも穴埋めにしてもらおうと、悩み悩んで辞職願いを電気課長に提出した。
 昭和59年11月14日。
 丁度22年前の畑薙発電所試験中のキュービクル爆発事故当時、10、9、7歳で父の職場を見たいと夏休みを使って畑薙に来た。思わぬ突然の事故で現場を見ることもなく悄然と引き返した。その長男に6、3歳、次男に5、3歳の子供が出来た。その孫達にジージが苦労、泣き泣き3年間歩き続けたマラソンコースになっている畑薙街道を、どんな感じ方をするか歩かせてみたくて、2家族全員誘っての井川もみじマラソン参加である。
 旅館観水荘に集合した10人の晩餐は楽しくにぎやかだった。
 「パパがカズ君くらいの時ジージはこの道を通って発電所作りに行った。その時機械を焼く爆発事故をし、ジージ死んでしまおうと山道を歩いた。その道を明日カズ君等に見てもらおうと連れてきたんだよ」と話したら「ジージ死んじゃったらボク達無かったなあ」と言葉が返ってきたのに皆驚いた。6歳にしてはあまりに大人びた言葉急速な成長に感動した。
 コースは南アルプス公園線延長(畑薙第一ダム)先10km折返しは割田下地点。スタート井川第一小学校(現在は南アルプスえほんの郷)への登り口。ゴールはこの急坂を登って校庭となっている。
 12時、20kmスタート組の後尾について、3分後ドーンの花火で10kmスタートする。以前を懐かしく思いながら走り始める。100m走ってえほんの郷入口から逆落としのようなコースを200メートル駆け降りると井川湖畔(高さ30m)の道に出る。平坦なコースを2km競争心を捨てて思い出を辿りながら走って5kmの折返し井川大橋に出て井川湖を見下ろし懐かしい大島を過ぎ折返しをまわる。再び大島部落へ来たら昔の顔馴染みに出会って走りに力を入れた。途端に脇を走っていた女性が俺の前に走り出た。はち切れそうな若さと健康な足元を見せて、ごぼう抜きにピッチを上げた。背中を見てカチンときた。年齢は取っていても負けるものかと敵愾心に火がついてスパートをかけた。コースは井川大橋手前胸突き八丁の登り坂、腕を大振りしてリズムで登り切ったとき彼女は後方にあった。気持ちをゆるめはしないが3km折り返し点で彼女の背中に気付いた。あと0.5km無性に走って樹海を抜けて村に出た。一之と準也の顔を見出した。また力が入った。見上げると校門がすぐだが最後のこの坂が苦しい。ゴールのテープを切った。
 続いて入ってきた彼女がにっこり笑いながら「抜こうと頑張ったが負けました。でもとてもいい標的に当たって楽しい走りをさせてもらいました。良い勉強になりました。来年は勝たせてもらいます。必ず来てくださいね。」と来年のことを言うと鬼が笑うと言うのに、堂々と宣戦布告で挑戦しにっこり笑って子供のいる方へ駆けて行った。静岡市から参加した若いママさんランナーだった。来年必ず来てとは、私への励ましだったのか?幼少時と20年前の痛恨事を払拭し、絆をがっちり作り上げた、健康での走りは社会を広めるのに役立った。
 いろいろ収穫のあった井川もみじマラソンは余生への大きな杖となった。

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