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NiziUを語るのにツイッターの字数ではとうてい足りないので、ここに来ました。

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マガジン

  • NiziUを追って

    NiziUについて

最近の記事

NiziU ライブ・アルバム(現在・これまで・これから)

以下は、4回に分けて書かれたものです。しかも10000字ほどあります。2回目と3回目の間には3週間くらい、3回目と4回目の間には1か月以上のタイムラグがありますが、すべて最初から頭にあったことです。 100 現在 昨年のライブでNiziUは、隔絶したと言うべき成長を見せた。異論のあるファンはいないだろう。もちろん、私たちの驚きの少なからぬ部分が、ライブであることの諸々の効果によって生み出されていたことは間違いない。だけど、またそれは、NiziUがライブを見事に乗りこなした

    • Blue Moon

      この歌が、WithUを想うNiziUの気持ちを歌ったものであることは、分かっている。でも、私は、そういうWithUにしか分からないことを外したところで、この曲がすべての人に対して持つであろう力について語りたい、と思った。でも、それは、曲を聴いていけば十分なのだと思う。 NiziUのファンであり、NiziUの声を愛する私は、NiziUの声もダンスも取り除いてなお名曲、という曲を待ち望んでいた。普通の大人が、何かのセットリストに取り入れたくなるような曲。ついに、出会ったと思って

      • ニナのこと。NiziUのこと。

        ライブの喜びが続く、この素晴らしき現在の先の未来。  3人とも甲乙丙つけ難いし、3人の総合として圧倒的だったことは承知の上で、Never Enoughは、その立ち位置どおり、ミイヒをセンターとする構成・演出だと思う。ミイヒはその大役を立派に果たし、一番印象に残ったのはミイヒだったという人が多いのではないかと思う。  その点にまったく賛成しながら、もう一つ別の観点から、ポジティブな疑いを抱いている。ニナだ。  やっとファンに披露できるあの舞台で、ニナが自らの歌に全力でないわ

        • 真実、ファンを愛するNiziU

          さて、私たちはNiziUに真実、愛されている、ということになる。まずは、1周年記念の感想から見ていただきたい。 2021年12月5日:1周年記念第2部を見た後 2022年9月28日に  ファンの言葉は、時として、価値を語る際の思い入れの水増しが多すぎて、愛情は伝わって来ても、客観的には、同じファンとしても首を傾げざるを得ないものになることがある。私自身にも、そういうことはあるだろう。そして、上の言葉も、当時はそのように見えたかも知れない。しかし、ツアーの終盤に近づいた今

        NiziU ライブ・アルバム(現在・これまで・これから)

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        • NiziUを追って
          13本

        記事

          NiziUは妄想の器だ。

          妄想は、すべて、写真を描写しようとしたもの。彼女たちから溢れて画面を満たす何かは、「比喩」程度では捉えられず、言葉を暴走させるしかなかった結果。試みはついに虚しかったかも知れないけど。 (目次とは逆に、新しいものが上に来ます) 目次 初めに RIMA・MIIHI・NINA RIMA MAYA 彩花 ミイヒ AYAKA・MIIHI・NINA NINA・MIIHI・RIKU・AYAKA 8 NINA・MIIHI・RIKU・AYAKA 惑星キナでは、ちょうど地

          NiziUは妄想の器だ。

          8月13日 NiziU 初単独ライブ初日

          現在のNiziUは、あなたが知っていると思っているNiziUではない。  レポとは呼べないただの感想ですが、NiziUによる感動に他人が襲われている姿を見ることで、こちらの感動が再び動き出す、リアクション動画のあの効果があればいいなと思っています。  前半は、8月13日特有のものでしょうが、後半は、多少の誤差はあっても、全ライブに共通ではないかと思います。   NiziUは、私たちの想像を超えて深かったマコさんの言葉  最後のMCでマコさんは、他のメンバーと異質な内容

          8月13日 NiziU 初単独ライブ初日

          日本語と英語

           以下は、かつて持っていた誰も訪れないホームページに掲載したもの。NiziUにはまったく関係ないけど、 note を始めたついでに、ここに載せておこうと思います。こういう思考のクセのある者として、私はNiziUを見、考え、語っている、と示すために。私への興味を他人がもつかどうかの議論とは別に、自分の言葉を正確に伝えようとする努力はあっていいと思いました。  2000年に書かれたもので、例に古さはありますが、考察自体は、まだ他所で見たことはありません。手前味噌を覚悟で言えば、N

          日本語と英語

          註解『RIMA語概念の基礎』

          (この記事は、[NiziU LOG] NiziU School #1 を前提に書かれています) 例えば、「やばい」の意味が転化したことや、なんでもかんでも「やばい」で済ませることは、じつは「すごい」でも起こってたこと。こういうことを語彙と表現力の貧困とけなして終わる人もまだいるようだ(これは、よろずにつけて「あはれ」「をかし」「いみじ」で済ます平安文学からのことだけど)。語彙と表現力が不足していることは間違いないけど、価値表現の形容語の流行には、ある意志がはたらいている。あ

          註解『RIMA語概念の基礎』

          虹スカの素晴らしさの再確認と虹スクへの期待

          ダウンタウンDXを見ていた。ゲストの乙葉が「少女時代を勉強した」というのを聞いて、少女時代を勉強するということがあるのかと思った。自分も勉強してみようと思った。沼に落ちた。知るとは愛することだった。2007年デビューの少女時代を2010年に追いかけ始め、MV・テレビのステージ・コンサートの映像・バラエティ:ネットで手に入るものはすべて見たと思う。それこそ、最近言われていた韓国式のメディア戦略のおかげで、相当のことを知ることができた。この熱は、2014年にジェシカが外れるまで続

          虹スカの素晴らしさの再確認と虹スクへの期待

          ASOBO English ver.

          自分で期待しときながら何だけど、まず日本で勝負する楽曲を、英語を先に作るとは考えにくいことだったなと思っている。歌詞の対比とかも挙げられてるけど、同じ場所に関して逆から言えて、個人的には説得された感はない。部分的な微妙なリズムへの乗り方の違いも、もともと英語の方がリズム適性があるというレベルを超えない(実は、個人的にはそれも日本語の方が好き)。恐らくは、一人の作詞家が日英ほぼ同時進行で考えたというのが、一番ありそうなことかなと思っている。 現状、日英ほぼ同じ意味の歌詞で、日本

          ASOBO English ver.

          ASOBO。新しい発見。

          「この路線」「NiziUだけの道」——ASOBOが出てからよく目にする言葉だ。「NiziUだけの道」は、私が最初から言い続けて来たことで、異を唱えるはずもない。では、なぜここにわざわざ書こうとしているかと言うと、まず、同じ言葉の下に、私は違うものを見ていると思うからだけど、それよりも、十分知り尽くしていると思っていたNiziUについて、今回、新しい発見があったからだ。 パフォーマンスの完成形へのこだわりが、NiziUは群を抜いていると思う。大事なのは表現の完成で、スキルの誇

          ASOBO。新しい発見。

          3月31日、NiziUのツイッターが荒れた件

          発端はリオのバブルらしいけど、よくわからない。これから書くのは、そのことではなく、その後、TLにたくさん見た(相変わらずの)意見に対してだ。 一例を挙げよう。 練習室動画を出せと言う。わざわざ、衣装決めてパフォーマンス動画にしなくていいから、と言う。そんなことさえできないとして運営をぼろくそ言う。 そう言われていることくらい百も承知で、費用も手間もかからない練習室のプラクティスでなく、わざわざMV的なものにしたのには意味がある、と思考できないことへの反省もなく。 この件で

          3月31日、NiziUのツイッターが荒れた件

          NiziUの英語曲についての確認

          以下は、昨年(2021年)7月9日に、ツイッターで画像にして発表したものです。そして『夜に駆ける』の部分以外は、その年の初めに、First English Songの発表があったときに、思ったことです。 ということで、結論の部分は、Take a pictureとPoppin' Shakin'の2つの英語バージョンが出る前のものです。私が異を唱えたのではなく、結果が私の意に反しただけです。ただし、今後の希望として、今も変わらぬ考えですので、ここに残しておこうと思いました(少し、

          NiziUの英語曲についての確認

          スパサマのダンパが教えるNiziUの特性

          スパサマのダンパから 1984年、サラエボ。トービル・ディーン組がボレロに乗せて踊ったアイスダンス。芸術点において審査員全員が満点をつけたという情報程度では、リアルタイムで放送を見ていた私の感動は伝えられない。それほどに素晴らしいダンスだった。徹頭徹尾「美」。要素・構成・進行、そしてそれらが総合した達成のすべてが、極限まで美しく、4分余りの演技の間、画面にはずっと「美しさ」しかなかった。言い換えれば、私は、その極限の達成を支えるスキルを意識することのないまま、美しさに見とれ

          スパサマのダンパが教えるNiziUの特性

          NiziU ミイヒ論①

          ミイヒはホログラムのようにしか語れない ツイッターのDMでできるグループ・チャットで、ガルシア・マルケスの『予告された殺人の記録』を紹介したことがある。【一人の青年が市中の自宅前で殺される。その前夜から、殺人が決行される早朝までの半日程の話。その間の青年と関係者の行動についての証言が、事件の三十年後に町に戻った語り手によって集められ、モザイクのように置かれていく。時の経過と、語る者の利害意識によって歪められた証言は、どれも曖昧で、相互にずれている。だが、まさにそのことによ

          NiziU ミイヒ論①

          マコ・リオのダンス。そしてNiziU。

          私は、マコ・リオのダンスがわかっているか? 東京合宿ダンスレベルテスト。J. Y. Parkは、マコさんのダンスに、努力と誠実な人柄が見えると言い、リオには、ダンサーのようだが、それではダメだと言う(Nizi Project #4-2)。それぞれ感動的なエピソードで、それぞれに対するParkの言葉は強い説得力をもって響き、私たちは深く納得するものがあると感じる。だが、二つを同時に考えたとき、途端にわからなくなる。リオは、見る者に語りかけていないと言われた。確かにそうであるよう

          マコ・リオのダンス。そしてNiziU。