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ASOBO。新しい発見。

「この路線」「NiziUだけの道」——ASOBOが出てからよく目にする言葉だ。「NiziUだけの道」は、私が最初から言い続けて来たことで、異を唱えるはずもない。では、なぜここにわざわざ書こうとしているかと言うと、まず、同じ言葉の下に、私は違うものを見ていると思うからだけど、それよりも、十分知り尽くしていると思っていたNiziUについて、今回、新しい発見があったからだ。

パフォーマンスの完成形へのこだわりが、NiziUは群を抜いていると思う。大事なのは表現の完成で、スキルの誇示ではない。スキルをぶつけてはならない。表現にスキルを仕えさせるのだ。そうやって細部まで丁寧に磨き上げられたパフォーマンスは、スキルのゴロつきを感じることなく、どこまでもなめらかな手触りだ。もちろん、完成形へのこだわりは技術を要求する。現に彼女たちは驚くべき速さでスキルを上達させている。スキルが上昇すれば、また高いレベルでの表現の完成が追い求められ、高くなったスキルが隠れるまでに磨き上げられるだろう(ここから眺めるとマコさんのダンスの意味がよくわかる。興味のある方は『マコ・リオのダンス』を)。これこそが「NiziUの路線」「NiziUだけの道」だと私は考えている。単に、他がガルクラやってる中でポップで可愛い路線でやるというようなことではない。

ただし、言葉をもう少し正確にするなら、カラーの違いにも重要な意味があると思う。しかも、後付けに過ぎない現象の描写ではなく、NiziUの本質に関わるものとして。キーワードは「可愛さ」ではなく(NiziUは死ぬほど可愛いけど)、「明るさ」と「肯定」。

私たちは虹プロを知っている。虹スカを、WeNiziU!TVを、NiziU LOGを。それらを通じて見て来た彼女たちの人柄と仲の好さに、どれだけ感動させられ喜ばされて来たかわからない。しかし、その尊さを、国内においてもWithU以外はほとんど知らない。世界にいたっては、知ったこっちゃない、というレベルだろう。彼女たちのひたむきさや互いを尊敬し合っているであろう連帯が、成長を速め、パフォーマンスを向上させること以外は、世界へ向けてのNiziUの強さを語る文脈においては関係ない(これは原理的なことで、私の好みの問題ではない。しかも、私は彼女たちの人柄やケミがどうでもいいとは言ってない。そんなわけはない)。そう思って来た。

世界に伝わらないだろうと思ったことがもう一つある。NiziUが伝える正論は、言葉だけを取り出せば、陳腐で、薄っぺらで、ゆるく、甘い。例えば、「ありのままの自分でいい」——誰しも弱さと怠惰さをもつときに、この言葉は多くの人の胸に棲むかもしれないけど、強い言葉ではあり得ない。東京合宿のアヤカが、こういう言葉に甘えて、その場にとどまってしまう人間だったなら、私たちは現在のアヤカを見ることはなかったろう。ところが、アヤカはやってのける。アヤカのままでいながら、成長し、夢を実現する。彼女は、彼女たちは、「ありのままでいい」とか「人に夢を与えたい」とかいう「きれいごと」に重さと強さをもたせ、私たちの胸を打つ。でも、これも、彼女たちを知らない所では通用しないと思っていた。

違っていた。もちろん、上に述べたような原理的な腑分けができない向きが正しかったわけではなく、NiziUが私の想像を超えていたのだ。彼女たちの真心のひたむきさは普通じゃないようだ。技術も人柄もひたむきさも真心も仲の好さも総動員して、理想を思い詰め・追い詰めるせいで、パフォーマンスにそれがこもってしまうのだろうとしか言えない。衣装や、振り付けや、歌詞を超えて、彼女たちの存在が放つ明るい肯定のメッセージが否応なく伝わるようなのだ。こんな理解を超えた奇跡みたいなことのしくみを解明することはできないけど、これだけはわかる。こんなこと、NiziUにしかできない。NiziUとは、そういう途方もないグループだ。

最後に、ASOBOについて、少し言っておこう。ASOBOは、NiziUが現在登り詰めている高みから一歩降りたところでパフォーマンスされていると思う。そこに、ある余白と余裕が生まれている。また、曲自体も音の量が少なく、音が空間を埋め尽くす印象がなく、余白が感じられる。NiziUの曲で初めて、歌わない部分まである。この空白で生まれる自由闊達さがなんとも心地よく、楽しい。こうした空白を「遊び」ということは、皆さんご存知の通り。何とも心憎い曲を与えてくれたものだ。

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