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NiziU ライブ・アルバム(現在・これまで・これから)

以下は、4回に分けて書かれたものです。しかも10000字ほどあります。2回目と3回目の間には3週間くらい、3回目と4回目の間には1か月以上のタイムラグがありますが、すべて最初から頭にあったことです。


100 現在

昨年のライブでNiziUは、隔絶したと言うべき成長を見せた。異論のあるファンはいないだろう。もちろん、私たちの驚きの少なからぬ部分が、ライブであることの諸々の効果によって生み出されていたことは間違いない。だけど、またそれは、NiziUがライブを見事に乗りこなしたことの証でもある。
さて、今年のライブについて、既に佐賀が終わった段階で、NiziUの成長への驚きの声をいくつも見た。「まったく新しい段階」「新次元のNiziU」—まさに異次元の成長を見せた昨年のあのNiziUと比較して、同じような言葉が踊っている。しかし、佐賀2日目を体験した直後の私は、心中密かに、そうした言葉に「待った」をかけていた。

昨年、アリーナツアーの後、ダンスに関しては、I AMのダンスパフォーマンスや、Paradiseのダンスプラクティスを、歌に関しては、Blue Moonと2つのThe First Takeを、さらに、ドーム公演で、Nobodyやライブより成長したTake It・Never Enoughなどを見たはずだ。その成長、というよりはその結果としての実力を知った上で、大声で驚くべき事態だったのか。

もちろん、ライブそのものは決定的に新しく、エンタテイメントとしての充実は昨年を圧倒していた。だけど、それは、ライブとその中心となるアルバムの企画と構成の新しさと、NiziUの「ライブ回し」が上達したことに帰すべきことではないか。ライブ直後、私は次のようにツイートしている。

実は、今年のライブで1番に特筆するべきは、演出と企画。そしてそこにメンバーが大きく関わっているのではないかと思う。去年はミッションを見事にこなしている感じだったけど、今年は、作品をふるまう者の自信がずっと見えていた。

しかし、2時間半の間、降り注ぎ続けるようであったライブのパフォーマンスを浴びた私の心に残る熱は、そういう冷静なブレーキに納得してはいなかった。いつものように、心の湧きかえりが沈澱するのを待つ必要があった。アルバム曲の全容(ユニット曲以外)がわかったことや、テレビやダンプラでのパフォーマンスにも助けられた。鍵はツイート後半の感想。結論、NiziUの実力は、またその次元を更新している。


110 現在—ダンス

近いところで、7月15日放送のTBS「音楽の日」のNewJeansでいい。あそこで、彼女たちは、一人一人がダンスを踊っている。それに対して、NiziUのパフォーマンスは、あくまでも演舞だ。これに関して、つい先日、NiziUを愛してやまない人物が、流石の表現をしてくれた。そう、もっと正確に言えば、NiziUのダンスは「団体競技」なのだ。過去のnoteを引用する(「ブロック」はレゴブロックで何かをつくる喩えをしたから)。

デビューの時点で、NiziUのメンバーの数人は、上に述べた段階の一つ前の段階、ダンスのための身体づくりさえできていない状態だった。必要とされる動きがわかっても身体がついて行かない状態。『U』のカムバでそれに対して彼女たちが何をしたかを十分に見せてもらったが、まだ、グループの基本的状態として、モジュールを身体に入れる段階には至っていない。ブロックを持たないまま一つの建築物を造る―—1曲のダンスを仕上げようとするとき、NiziUは常にそういうことをしている。完成までの時間がかかる上に、途中の段階がない。練習室動画を出すわけにはいかないのだ。
だが、この弱点でしかない所与を、彼女たちのひたむきさが奇貨に変える。頼るべきモジュールを持たない分、振り付けの再現への集中と執着の度合いを高めるしかないが、彼女たちはやってのける。その結果の再現性の高さは比類のないもののように思う。よく言われるシンクロ率の高さも、このことの現われだと思う。

『スパサマのダンパが教えるNiziUの特性』

かつて「オリンピックの金メダルの演技だ」と言ったのも、このことで、その一つの極致がParadiseのダンスプラクティスだ。個々のスキルはさておき、9人の演舞として磨き上げられたその達成は、はっきりと、一つの芸術作品で、この点では、先輩・後輩どのKPopアイドルも凌いでいると、このとき既に思っていた。

ライブの席は、センステの端に近い所。つまり、そこそこの近さだけど、メンバー全体はもちろん、個々のメンバーにしても最適な距離と角度で見ることは適わない。NiziUのダンスの芸術性の真価を味わうのには向いていない。しかも、1回しか参戦しない素人に、ダンスを包括的かつ分析的に見ることなど土台無理。そもそもライブは、あの圧倒的なパフォーマンスを浴びるものだとすぐに思い取って、受け手として全感覚を開放していた。それは、結果的に今回の構成と演出上、大正解だったわけだけど、意識の集中さえあれば受動に徹しても対象をしっかりとらえる聴覚に対して、選択的積極的に対象に向かうことを要求する視覚の性質上、ダンスについて何かを掴むことは諦めようと、最初思った。
それでも、メンバーを八艘跳びのように追う私の目は、個々のメンバーの姿が放つ輝きを捉えつづけた。容姿からだけではないその光。彼女たちのダンスの圧力による振動が、私の網膜を震わせたようだった。それが何だったかがようやく腑に落ち始めた頃、COCONUTのダンスプラクティスが上がった。

あのダンプラが出た後、私が目にした評価は「驚異のシンクロ率」への称賛ばかりだった。でも、私の驚きと興味は、別のところにあった。振り付けの速度とフォーメンション移動の激しさを考えれば、ダンスを揃えることの難しさは、Paradiseよりだいぶ上だろう。だけどそういう注釈付きの留保をぶら下げた評価でなく、作品の結果だけを見れば、さざ波一つゆるさぬ湖面・衣擦れの音さえ厭う静謐を表現するかのように、ひたすら美しさの極みに向かうParadaiseのダンスと、COCONUTのダンスでは、表現しているものが違う。いや、後者の方が多くのものを含んでいる。お家芸のシンクロを部分として含みながら、明らかに別のものが表現されている。ダンスの構成がそのように多重であることよりも、メンバー一人ひとりのダンスがそのことを訴えて来る。あの息を呑むParadiseの演技、まさにオリンピックの本番に臨む一世一代の意識の集中と技術の完全な発露、それと同じことを、COCONUTの方では、余裕をもってやっている。技術の段階が1つ上がったのだ。その余裕が、シンクロの統一下での自分の自由度の正確な理解を生み、そこに個性が流し込まれたように見える。結果、彼女たちのダンスは躍動する。私たちの生命の分子の振動数に作用するエネルギーを発散する。それをライブ中ずっと、個々のダンスから(しかもその9人分を)受けとっていたのだ。

それでも、私は言わなければならない。NiziUはやっぱり歌、NiziUはやっぱりラップだった。


120 現在—歌

知っている人もいると思うけど、私は、NiziUの歌を聴くとき、メンバーの声を、オーケストラを構成する楽器音のように聴く。NiziUの歌声がそういう鑑賞の仕方に堪える質を有しているからだけど、飽くまでも私個人の習性であったろう。しかし、今回ライブの途中で、その線で自分たちの声の達成を見せつけることを確信的にやっていると思った(感想を仕上げるのにモタモタしている間に、『おはよう朝日です』のインタビューで、ニナが証言をくれた)。楽器の喩えは、今回の成長を考えるのにも有効だと思う。歌がうまくなる、ということに対して私たちがもつイメージの曖昧さに対して、楽器の演奏の上達に関しては、かなり明確で精細な像を思い描くことができる。正に、演奏の上達。自らの声を、楽器のような具体的な対象として、強弱やピッチを含む定量的処理、リズムや持続を含む時間的処理、音色、奏法といった表現上の演出などに対して、唯物的とも言える訓練をしたと想像してしまうような上達。その結果、あの日私たちの耳と心を襲ったものを、当初私は圧倒的な「声の密度」だと思った。今は正確に言い直そう、圧倒的な「声のパフォーマンスの密度」だ。

ライブの感想として、「歌唱というよりは、ボーカルパフォーマンス」と言った。Love & Likeはそのエッセンスのような曲。歌のそれぞれのフレーズを高密度に圧縮して、無敵のラップにぶつける。その結果、歌とラップが絡み、縺れ、弾け合う、まさにボーカルパフォーマンスの競演となる。声による演奏のセッションを聴くようだ。
一方で、All Rightにあるのは、短くはあるが歌唱の連続。しかし、やはりそれぞれの密度が異常に高い。すべてが重低音のような厚みを持ち、それが層をなし、重なっていく。メロディーがいいとか、リズムがいいとかいう次元を超えて、特殊な芸術的な体験を耳がする

7月6日のツイートから

その芸術的なことを、ロックコンサートのエネルギーとパワーでぶっ放して来るのが、今年のNiziUだ。ベルリンフィルの最高の演奏がある。私たちは最高の耳をもち、音楽的素養も申し分ないとしよう。そのとき私たちが受け取る感動を、ブロードウェイの洗練と躍動に乗せたものを、ロックコンサートの興奮と強度で受け取ると考えてみるといい。わけがわからないだろう。そのわけがわからない程の洗礼と祝福を、あの日、八千人の老若男女が浴びたのだ。

「声の演奏」の上達は、9人全員に起こっていることだ。その結果、「勢力図を塗り替える」という比喩を使いたくなるような、ボーカル上の役割の変化があった。その点を含めて、気がついたところを言おう。

121 現在ー歌:メンバー

リマユカ

NiziUの曲には必ずラップがある。みんな知ってることだ。だけど、1曲ずつ聴いていては気づかないことを、コンサートになると思い知ることになる。あの2人の仕事の量と大きさ。2人のラッパーの偉大さ。そして2人作詞の「Take it」。MVが欲しい、コレだけで世界と戦える、と思える作品とパフォーマンス。

『8月13日 NiziU 初単独ライブ初日』

役割の変化ではないけど、今年のライブに関して、まず最初に語るべきはラッパー二人だ。その強度の高まりは、量の変化が閾値を超えて質の変化となる態のものだ、と言うこともできるだろう。そしてこの変化も確信的にやっていると思える。あるいは上の状態から成長をとげた段階のとんでもなさがそう思わせるのかもしれないけど、とにかく、二人のラッパーの存在感は途方もない。この二人は、「歌手」としての修練も積む。そのことによって、声そのものが密度・彩度・濃度を高めている。その声を、磨き上げたスキルに乗せる。また、あれだけのパフォーマンスができることの反射は当人たちの自信を高めないハズはなく、その結果の余裕とカリスマがパフォーマンスに乗る。NiziUならではの2人の仲の好さが生む何かもきっとある。結果、光り輝く空間を作りながら二人が先頭を走るように見える。今回のライブの要素の一つ、「疾駆するリマユカの先導」。

ニナ:おそらくニナはNiziUのメインボーカルとして認められている。だけど、NiziU自身からそう聞いたことはないし、制作サイドの取り扱いもそうではなかったように思う。私も同じだ。NiziUの現在を考える上でも、未来の成長を思い描く上でも、ミイヒとダブルメインとして考えた方が大きな可能性が見えるからだ。一方で私は、ニナを高音担当のように言うのには不満だった。歌唱というものに関わる素質と実際のスキルすべてにおいてニナは圧倒的だ。それが日に100曲聴き、しかも練習の虫であるという。この子が、歌に関してどういう見識を育て、どれほどのスキルを育んでいるかを思う。その片鱗を振り撒いたのが今回のライブだ。当然のごとくこのライブ、ニナは文句なしのメインボーカルとして存在していた。高音が炸裂するパワーポイントだけではなく、歌のあらゆるところで、その声の密度とエネルギーの輝きが閃いていた。強烈な二人のラッパーの存在感を一人で受け止め、丁々発止の火花を散らすように共に疾走する。これも今回のライブの要素の一つ、「ニナの遍在」。

リク:「安定・声量・透明な伸びやかさ」を謳われてきた歌声は、時に複雑な愁いの色に震え、時に白熱の光とともに高速に炸裂する。おそらくそういう訓練を自覚的にやっている。現在のリクは、この多彩な表現力を一番ほめてもらいたいのかも知れないけど、ライブでの一番の印象は、ニナと共にパワーフォワードを務め、最前衛でラップと切り結ぶときの、この子の声が放つきらめき。「リクの火花」はそれほどに美しく、ラッパーズ+ニナ・リクがつくる前衛のきらびやかさが、ライブの第一印象。

マヤ:本人の言う通り、確かにオールラウンダーとして、ボーカルではNiziUのベースラインを支える役割だった(しかし、本人が思うよりはるかに重要な*註)。その声の「響き・色・表情」の深化に加えて、「歌唱力」の点での幅が広がり、結果、そのボーカルは前衛に躍り出る。これまでならミイヒがいただろう場所も代わりに担い、マヤの色に染めていく。リマユカ・ニナ・リクのフロントラインの切れ味とは別の、体の芯に響くボディーブローが次々と打ち込まれる。紛れもなく攻撃陣の一翼。これを脱皮と言うも羽化というも足りない気がするので、こう言おう。「マヤの換装
(註:マヤ自身にも、メインボーカル以外を推す人にも、いや、NiziUを鑑賞するすべての人に知ってほしいと思うことがある。メインボーカル以外のパートの重要さは、他のグループはいざ知らず、NiziUのボーカルの在りようにおいて、建前ではない、真実のものだ。オーケストラにおいて、バイオリンやフルートやトランペットといった花形以外の楽器が、それぞれ無二の重要性をもつのと同じ事情だと思う。)

リオ:Parkは彼女たちプロを「歌手」という。この子の声の可能性を早くから言ってきた私、ライブのときは、声の才能が花開くように歌われていくのを聴いてゾクゾクするばかりだった。アルバムを繰り返し聴いた耳には、この子が残す課題も聞こえるけど、やがてそれが克服されたときの歌手としてのリオの姿を思うと、やはりゾクゾクする。「歌手リオの開花

マコ・アヤカ:この二人は、今回のライブにおいては、ポジションの変化はあまりないように思う。もちろん、声のパフォーマンスの高密度化と表現の幅の拡大は、この二人にも起こっている。マコさんらしさ・アヤカらしさが凝縮された上に、新しい色彩が加わるのを聴く興奮は、これも相当のものだけど、すでに全体のものとして述べたことの繰り返しになるので、これくらいにしておく。

ミイヒ:今回最も役割の変化が大きいのはこの子だ。演出も含めたところで、昨年のツアーでは、この子はボーカルの中央にいた。すでに書いたところで明らかなように、今回のライブ(アルバム)ではそうではない。ライブ当日の途中までは、「ミイヒの後退」という言葉も頭の中にあった。恐らくその感想でライブを終えている人もいることだろう。
前衛を退いたことは確か。これまで、マコさんやリク、そしてマヤがやっていた、中盤でNiziUの歌を支える役割をしていると見えた。ライブのコンセプトがバラードを後退させたことに比例した現象だという解釈が最も妥当なところだろう。一方で、平均の光度こそ抑えられているものの、厚い声の存在感の強さは、そんな解釈で納得することを許さないものだった。何が起こっていたかが理解できたのは、アルバムを数回聴いてからだ。
①Love & Likeで曲を一気にブロードウェイの洗練と絢爛に引き上げる(「描いてたperfect grown-up world」)、②All rightで祈りの神秘性を付与し(「Alright 絶対 We're gonna be alright No lie」)、その後のニナの降臨と飛翔を引き寄せる、③LOOK AT MEのサビでパステルカラーの空気を展開する。「中盤を支える」とか「縁の下の力持ち」とかいう言葉では説明し切れない大きな仕事。ミイヒによって曲の領域が展開する。だが、勘違いしてはいけない。単純に強い声の個性の持ち主が歌って、どの曲もその個性の色に染まるというようなつまらない話ではない。①の陶器の釉薬面で撥ね返るような声、②の大地に染み込んで土の粒子を震わせるような声、③の淡い空気の粒を振り撒くような声。どれもまったく別物。こんなことができるのは、メンバーでこの子だけ。虹プロでParkが言っていた曲に入り込む能力が進化しているのだ。曲の中に入り込んで、その曲に合わせて自分の声を作り、その声で曲の個性を具体化するという、この子にしかできないことをやっているのだ。恐ろしいことにこの子はこれを無自覚にやってのけているのだろう。「潜航するミイヒによる領域展開


とにかく、歌においても、NiziUはとんでもない成長を遂げて、とんでもないところにいる。さて、そのNiziUとは何であるか、それについての私の考えの総決算を記すのが、この稿の目的。したがて、ここから考察が続くのだけど、上のライブの感想で止めていただくのがいいかもしれない。既に長すぎることでもあるし。


200 これまでのNiziUは何だったか

NiziUの課題は、確かにある。

NiziUの曲はWithUを魅了しながら、外部に届かない。新規開拓がないから、時間の経過とともにファンは減る。現在のNiziUのファンは少ない。MVの再生が伸びないのも、そのことの当然の表れ(「MVの再生が少ない」と言うことは「NiziUのファンが少ない」と喧伝することになってしまう)。私は、NiziUに対してこんなマイナスな言葉を自分が二度と言わなくていいようにするために、この稿を始めた。

ファンが減ったことも、私はある程度しかたがないことだと思っている。それ程に世界を目指すバランスは難しいのだ。Kpopを期待した人間が、Kpop化しないNiziUに業を煮やして離れて行った数などは、さほど問題ではない。本質は外部開拓がないことだからだ。なぜ外部に浸透しないのか。それこそが考えられるべきことだが、それはKpop流を判断基準としている所からは出て来ない。

『Step and a step』のMVを見た私は、すぐあることを感じ取って、大きな感動に襲われながら、奥歯を噛み締めていた。多くのWithUの胸を打ったであろう「そのままで(いい)」「自分のペースでいい」というメッセージは、そう言ってもらうことが必要な状態ではないという理由で、私には作用しなかった。NiziUの子に向けられたとき文句なしに成立する歌詞だな、という感想しかなかった(念のために、NiziUが歌うこの曲が人を救う力を持つことを否定していないことを言っておく)。そう、ステステは、NiziUに向けて作られた曲であり、したがってそのことにより、NiziUを愛し、NiziUと価値観を共有するWithUのための曲だった。デビュー曲を、商業的戦略を犠牲にして、ファンへの感謝の記念碑にしたパク・ジニョンの心意気に感動し、同時に、犠牲になった戦略的可能性を思って奥歯を噛みしめたのだ。

ただ、私の観測は半分外れていた。WithUに寄り添うことは、パク・ジニョンの戦略だったのだと思う。「グローバリゼーションの前段としてローカリゼーション」という方針にも引っ張られたろう。メンバーをバラエティーやドラマに散らして露出を稼ぐというメディア戦略を採れない以上、具体的対象として、現在(その当時)のWithUを向くというのは、強力な選択肢だ。さらに、昨年のツアーが始まる前ぐらいまでを、戦略チームは、練習生期間(と言って悪ければ)、本格活動の前の準備期間と考えていたフシがある。(もともと、「チーム選抜→練習生期間→デビュー」だったシナリオが、あまりの人気ゆえに、急遽「プレデビュー+デビュー」という形に変えられたのではと疑っている)。勢い、外部展開の前に、WithUにたくさん愛してもらおうという戦略への傾斜が大きくなるだろう。この延長として、楽曲がWithUに特化したこと—―これが唯一にして最大の問題だったと考えている。NiziUとWithUの気持ちが向き合う所にあるものを結晶化したような歌詞に、曲自体もメンバーの歌声のコンチェルトのような、高度に結晶化させたような楽曲。だけど、一般人は、道徳を求めて曲を聴くわけではないし、すべての人が音楽に救済を求めるわけでもない。ポピュラーミュージックにクラシックのような芸術性を求めてもいない。売れるとは、大衆に届くことだ。一度冷静に考えてみればわかる。歌詞や曲が美しいかどうかではなく、一般の大人が、ドライブ音楽のセトリに入れるような曲が、NiziUにあるかどうか。簡単に言えば、『Ditto』(NewJeans)や『Cupid』(FIFTY FIFTY)のような曲が数曲必要だった。どちらも、歌唱は一定の水準ではあるけど、ボーカルの結晶というようなことを思わせるつくりではない。もうちょっと肩の力が抜けた曲がほしいなと、この2グループの例がないときから、思っていた。

註1:『Make you happy』や『アイドル』(YOASOBI)の売れ方は、それぞれ『虹プロ』、『推しの子』という起爆剤のあるところに、どちらもTikTokの切り取りという燃料供給を得て燃え上がるという特殊な売れ方なので、継続的モデルとしては対象にならない。
註2:NewJeansと特にFIFTY FIFTYの売れ方は、上の点以外にも強力な具体例となってくれる。非Kpop的である彼女たちの曲と売り出し方を考えれば、NiziUの曲がKpop的でないという批判や、世界に出るにはKpopのプラットフォームが必要という主張が当たっていないことが浮き彫りになる。曲ではなく、プロデュースの仕方という思考が、曲の力を軽視し過ぎていることも。

大体、以上のようなことを、NewJeansとかの具体例のないまま、NiziUのデビュー以来ずっと考えながら、そういうコンセプトの全編英語曲を、私はじっと待っていた。曲作りに関しても、私は運営の文句を言ったことはないけど、制作サイドを信じていたわけではなく、どちらかと言えば悲観的だった。先輩の曲を見ても、上で言うコンセプトに合いそうなのが『Alcohol-Free』(TWICE)くらいしか思い当たらない状態では。いつかそのうち来ることを信じて気長に待つしかないな、と。

300 これから① 韓国活動

200に述べたことから論理的に考えればわかることだけど、私はNiziUの韓国デビューを、高いテンションでは期待していない。決定的な理由は、上記新グループの非Kpop的「成功」が、Kpop界に動揺をもたらしたことを考えればわかる。世界を考えたとき、Kpopというプラットフォームは最適解ではない。
また、NiziUがKpop化して韓国デビューしたとして、韓国のトップになるとは考えられない。ある程度受け入れられて、せいぜい「Kpopの一員」に納まることを、私は喜ばない。
ある程度売れるとは、韓国にファンダムが誕生するということだ。そのとき、声の大きさから、そちらがファンダムの主流となる、少なくとも運営側にはそう映るということが十分あり得るだろう。別にどっちが主流でも構わないけど、不正解の要求が強烈に突きつけられて、戦略が歪められる事態は断固あってはならない、というようなことも考える。
韓国活動によって増えた新WithUは、外部への浸透が決定的な課題であるときに、現WithUの外部にファンが誕生することだ。MVの再生もアルバムの売り上げも増え、NiziUの活動を支える。その点は、喜ぶべきだし期待すべきだ。ただし、「NiziU性」は決して崩してはならない。Kpop的要素を取り込みながら、このグループお得意の化学変化の奇跡を待つ。何かが起こるとしたら、そういう形によってだ。
―—韓国活動の観測が出た最初に私が思ったのは、そういうことだ。

400 これから② 再び今年のツアー

大体以上のような考えを抱いたまま、佐賀2日目に参加した私は、見事に叩き伏せられた。私の考えを嘲笑うかのように、曲は、相変わらず、大衆の受容よりは審美家の鑑賞を狙ったよう難曲。しかも、メンバーの役割を変えて、決して楽をさせない。そうやって叩き伏せられた私は、しかし、そのハードルを易々と乗り越えて輝くメンバーを見て、別の光を見ていた。
パクジニョンは、私が思う以上にNiziUの子たちの才能(努力の才能も含めて)愛している。彼女たちに、もっともっと高い次元での達成を夢見ている。NiziUにはまだまだ時間がある。今はまだ、小ぢんまりとまとまる時ではない。そういうビジョンの光が、ライブ会場を包んでいるのを見るようだった。アルバムの新曲たちは、NiziUの起こす化学変化が芸術性と大衆性の両立さえ実現するかもしれない、と思わせてくれる。その離れ業をやってのけるのに必要な実力をつける所までNiziUは行くだろう。相変わらず私は、軽率な観測を超えた未来の達成を、わくわくして待てばいいのだと、NiziUとパク・ジニョンに説得された。

NiziUなら大丈夫と言い合う、という証言は、彼女たちが折々その確認をしなければならない状態に直面する、ということを物語るだろう。私の長く、小難しい文章を、彼女たちは読まないし、読んだとしても理解してもらえるかどうかもわからないけど、空元気からではなく、観測と思考の果てにNiziUへの全肯定を掲げる者がいることは知ってほしいと思う。NiziUなら大丈夫、と。


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