NiziU ミイヒ論①
ミイヒはホログラムのようにしか語れない
ツイッターのDMでできるグループ・チャットで、ガルシア・マルケスの『予告された殺人の記録』を紹介したことがある。【一人の青年が市中の自宅前で殺される。その前夜から、殺人が決行される早朝までの半日程の話。その間の青年と関係者の行動についての証言が、事件の三十年後に町に戻った語り手によって集められ、モザイクのように置かれていく。時の経過と、語る者の利害意識によって歪められた証言は、どれも曖昧で、相互にずれている。だが、まさにそのことによって、位相のずれた光が中央で重なって一つの事件のホログラムが立ち上がるのを見るような経験が私たちを襲う】という趣旨の書評をつけて。
このことがあった後、同じメンバーで、次のような夢を語り合った。NiziUに向かっている人がツイッター上にたくさんいるだろう。もしそういう人たちの言葉を全部集めて読むことができたら、皆がそれぞれの心のキャンバスに投影している光を一個所に重ねることができたら、きっとNiziUのホログラムが浮かぶのを見られるはずだ。
この「ホログラム」、比喩としては新しいかもしれないけど、それが指している現象は、歴史家や伝記作家がとうに体験しているはずのことだ。小林秀雄が、一人の作家の全集を、日記や書簡集の類まで読めと勧めるとき、同じ効果を思っているだろう。さて、なぜ、この話から始めたかというと、ミイヒという理解上の難物の姿は、まさにそのようにしか掴めないだろうと思うからだ。
「指摘するところがない」パフォーマンス
「ダンサーのようだ」は虹プロを見た者にとって呪いの言葉のようになっているけど、あれは、歌手に表現を預けて一歩引いたバックダンサーと、表現者としての歌手の間に線を引いた上で、表現者としての不足を指摘したもの。ダンサーに見えるほどの技術の高さ自体はプラス要因でしかないはずだ。1月20日公開のSuper Summer Dance Performanceでも、マコさんとリオには、それが見えて、やはり、この2人は別格だと思った。だが、その名の通り「ダンス・パフォーマンス」として見たとき、私が、9人中最高点をつけたいと思ったのは、ミイヒだった。
虹プロ東京合宿で2回(ダンスレベルテストとチームミッション)、J.Y. Parkはミイヒのダンスに関して「指摘する所がない」と言っている。実は、私はこれに納得が行ってなかった。確かに振り付けの再現としてはよくできていただろうし、何よりアイドル性の振り切れ具合はすごかったけど、ダンスのスキルを窺わせるものが感じられず、表現力への傾斜配点の度合いが過ぎるのでは、という思いを拭えずにいた。今回のダンスパフォーマンスを見てやっとわかった。
体力と、何より気力を回復して、本来の力をかなり取り戻したミイヒ。体幹強く、軸も確か、Parkが強調してやまない関節を使った大きくのびやかなダンス、しかもそれとスピードを両立している。縦にも横にも軟らかい身体を活かして、硬軟・緩急のメリハリも素晴らしい。だが、それはやはり「振り付けの完璧な再現」に過ぎないものだとも言える。でありながら、確かに「指摘する所がない」と溜め息をつきたくなる。もちろん、まだ要因を数えることはできる。ニナとマユカに次いで長い脚をもつ細く柔らかいシルエットはそれだけで美しい。かわいい顔に溌剌とした笑顔を乗せた表情の魅力には抗し難いものがある。だけど、こうした要素をすべて足し合わせても、スパサマのダンスパフォーマンスで私が受ける印象に届かないのだ。では、その「文句なし」の感覚はどこから来るのだろうか。
パフォーマンス上の多重人格
ParkはSun Riseのミイヒ評で、『Nobody』、『雪の華』、『ノムノムノム』を挙げながら、「曲によって違う人に見える」「曲に入り込む能力が優れている」と言っている。これはミイヒのミイヒ性の核心に触れていると思うけど、Park自身「15歳になぜこんな表現ができるのかわからない」と言う通り、その由来を把握できていなかった。私もまた、最終的にブラックボックスを開けることはできない。そこから発生する現象の周りをうろついて、「症候群」を語ることしかできないだろうことは、冒頭に述べた通りだ。ただ、同じことを、少し掘り下げてみたい。
初登場時、歌に入る前にParkとやり取りしながら、全身から愛くるしさのミストが滲み、こぼれるようであるとき;ダンスレベルテストで、笑顔とまばたきの度に可愛さの気功砲が放たれているとき;ボーカルレベルテストで、位置についた瞬間、自らの周りに冬のクリアな空気を漂わせつつ、エッジの立ったクールビューティな立ち姿で佇立しているとき;自分の体を出入りするすべての空気を操り、響かせ、輝かせる天分を駆使して、声も・自身も・衣装も・ステージをもゴールドに染め上げたNobodyのとき―—見ればわかるが、そのどれもが、別人である。まだある。NiziU ScoutやNiziU Logで私たちは、メンバーの素を見ていると思っている(撮られている意識があるとかないとかは、論旨に関係ない)。確かに、そこで、アヤカはいつもふわふわおっとりのマイペースだし、リマはぴーぬで、リクはリクだ。しかし、そこでさえミイヒは一人ではない。
変身能力の秘密
まず、目につく秘密は、その顔。「かわいい」という評価しかほとんど聞かないけど、輪郭・目・鼻・口をよく見れば、本来相互に調和しないパーツが絶妙のバランスをとっていることに気づく。そのせいで、その顔の表情は、無垢な幼女のあどけなさから男に幻滅した魔性の女の不穏当さまでの幅で変化し得る。ハイジにも、ポーシャ(ベニスの商人)にも、マグダラのマリアにも、サロメにもなれる。顔立ちからすでに天才。
そこに由来不明のもう一つの天稟が加わる。
マコさんについて、その「楷書」の練習を重ねながら、「NiziUのマコの理想像」を創り上げ、本番で、その理想像のパフォーマンスをトレースするようだ、と私は言った。膨大な練習に支えられて一つの理想像を創り上げるマコさんに対して、ミイヒは「天才的に」と表現するしかない形で、パフォーマンスごとの理想形を掴んでしまう。「ミイヒちゃんはNobodyのときのように、しっかり取り組んで努力もできる子です」のような抗弁があるかも知れない。でも、『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』を観たり、歌詞を紙に書いたりするぐらいで達成できるようなパフォーマンスでないことを考えれば、ここで言っていることとレベルが違うことがわかるだろう。レベルの違う抗弁をわざわざ取り上げたのは、それを否定しようとして、重要なことに気づくからだ。曲の分析や理解の試みをどれだけ集積しても、Nobodyのあのパフォーマンスは生まれない。つまり、その理想形は、曲の方に内在しているものではなく、完全にミイヒの中の何かから生まれるのだ。なんとなく思っていたミイヒのこの才能を、We NiziU TV2のファッション・コーデのウォーキングを見たとき、鳥肌の立つ思いで確信した。ウォーキングに求められる形式をすべて無視した、誰も教えられない、誰もまねできない、定式化できない、しかしあの姿にあのウォーキングしかないというパフォーマンス。
お笑い芸人の言葉を、少していねいに追いかけてみるといい。彼らが経験に裏打ちされたしっかりした理論をもっていることと、その奥行きの深さを知ることができる。だけど、ダウンタウンをダウンタウンにしたのは、二人の才能だ。世の中にはそういうことがある。ミイヒもまた、神に愛され、幼女からファム・ファタールどころか、人間以外のクリーチャーまでの任意の点に立つ才能、瞬時にそのときの正解に立ってしまう才能を与えられて存在している。TWICEのコンサート会場に立つミイヒにも、この才能は一つのオーラとして作用していたはずで、JYPEのスカウトが、そのボーカル能力を知ることなく、声をかけずにいられなかったのも当然と想像してしまう。
ミイヒの再確認をしよう
「今回の参加者の中で唯一そうやって歌える子」
東京合宿最後のショーケース、TTチームのパフォーマンスの後、J. Y. Parkがサナとモモに言った言葉である。その対象はミイヒ。しかも、TTチームは演技順が最後。ニナの頭を越えての評価だ。誰がよかったかについて二人の意見を聞いた後、最後にParkは言う。
「今回の参加者の中で…この子が一番だよ」
明らかにこれは、歌ではなく、トータルの評価。Nobodyを待たずにParkからこの言葉が出たことは、マコさんのファンでさえ受け容れる外ない事実だ。この子だけが、追加なしにキューブをすべて揃えていたことと併せて。つまり、虹プロには、圧倒的な存在が二人いたのだ。ところが、だれもが知るとおり、その後、ミイヒは深いスランプに落ちてしまう。私は、最初これを、Feel Specialの際の、(恐らくデビューメンバーに決めていたミイヒ自身とグループのためを深く考えての)Parkのあえての「酷評」が効きすぎたためと考えていた。しかし、虹プロを見返してみれば、スランプはノムノムノムのときには始まっていて、そもそもの原因は他に求めるべきだと気づく。今では、おそらく、トレーニングの過程で、ミイヒの表現に関する天才の部分が侵食されたことが最大の理由だろうと思っている。トレーナーたちは、デビュー前の練習生に対して当然のことをしたまでだが、ミイヒとは何者かを、JYPEにも改めて考えてほしいと思っている。個人的には、ミイヒには、ダンスと歌のテクニカルなレッスンだけを施して、「表現」の部分はミイヒに任せるのが最良でないかと思っている。
さて、努力によって圧倒的なマコさんに対して、天才によって圧倒的なミイヒとそのスランプがNiziUにとってどういう意味をもったかは、NiziUを考える上で非常に重要な案件だ。そして何より、ミイヒ論のもう一つの大きなテーマである、そのボーカルに関してノータッチだ。だが、それらは次回以降ということで、ホログラムの一つの光を閉じようと思う。最後に一つだけ。
スランプはついに、2020年10月23日の休養発表へとつながる。そこから、決して口にしてはならない不吉な不安を抱えながら過ごした日々。大きすぎる不安は、復帰後すぐには払拭されず、私の場合、3月PremiumMusic2021で亀梨の質問に困ったときの目の光を見たのを経て、もう大丈夫と思えたのは虹スカの頃だったように思う。このトラウマが大きすぎるせいか、いまだに9人であることを喜ぶ声が後を絶たない(私自身もそうだし)。だけど、ミイヒは「9人完成の最後のピースであるすごくかわいい子」ではないし、壊れそうな存在でもない。そろそろ私たちも、この子が何者であるかを思い出した方がいい。
「ミイヒさんが自信を持って楽しめれば、ミイヒさんに勝てる人はほとんどいません」
そして、この子がまだ全開ではないことにわくわくしよう。さらに、今や、この子が「圧倒的」でなくなったNiziUというグループの行く末を思って期待にふるえよう。
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